国が違えば神話も違うが、イタリアのポンペイの壁画展を昨年12月に兵庫県立美術館で見た時、ギリシア神話が好まれ、ナルキッソスやアリアネドなど、ギリシア神話に題材を得た壁画がたくさんあった。
ナポリ辺りは古代はギリシアに支配され、そのことでギリシア神話に馴染むことは別段不思議でもなかったのだろう。ポンペイはローマ帝国の領地になるが、そのローマも美術においてはギリシアを崇拝し、模倣したから、イタリアとギリシアは昔の日本と中国のように関係が深い。日本は今でも隣国は韓国であり、台湾や中国だが、国民の意識はすっかりアメリカ人さながらで、現在の場所からいっそのことロサンゼルス沖にでも国土が移動出来ればいいと思っているようだが、トランプ大統領の排他的な政策が本格化すると、国としての自意識がまた目覚め、日本も同じように排他的になって移民どころか、在日を初め、アジア系の外国人を締め出すかもしれない。だが、青い目には昔から劣等感があるから、相変わらず欧米の外国人には媚びへつらうだろう。アジアでは一番優秀な民族と自惚れてはいるが、欧米人の列には入れてもらえない悔しさがあるので、子どもの頃から英語を学ばせ、また英語が話せることでいっぱしの国際人と思うほどのおめでたい頭のままだ。これは何年も前に書いたが、蹴上の国際交流会館の休憩室で60代の男女が話していて、それを小耳にはさんだ。みんな中流で、経済的には困らず、また何か社会に貢献することで自意識を満足させようという雰囲気があった。男のひとりは何度か外国人を家に泊めたことがあるらしく、話はそのことになっていた。そこでその男性は、これまで東南アジアの留学生を泊めた経験から、今後は欧米人しか泊めないと言い、他の2,3人はその意見に大いに同調していた。わが家を使わせるからには、アジア人は論外で、優秀な欧米人に限ると主張する彼らは、いっぱしの知識人を気取っているのだろうが、醜悪な俗物の代表に見えた。あるいは京都人のいやらしさと言った方がいい。国際国流会館は世界中の留学生が集まる。そういう場所にやって来て、欧米人の、しかも自分の好みにかなうような若者を見つけて自宅に泊まらせるのだろうが、その主の本音を知ると、欧米人もいい気はしないだろうし、それに東南アジアの学生が聞けばいっぺんに日本嫌いになるだろう。
筆者はTV番組でよく見るのは、骨董を鑑定する番組と、「YOUは何しに日本へ」という番組だが、どちらも大好きというほどでもない。前者は出品者にたまに愚かなおっさんが出て来て自分の知性のなさ丸出しの顔を晒すが、では鑑定する方が立派に見えるかと言えば、全員がそうではなく、中には同じように自惚れの強い恥知らずがいる。そんな人間模様はさておいて、出品される品物が面白いので見続けているが、そうなったのはここ1年ほどで、それ以前は放送されているのは知っていたが、1年に数回見ればいい方であった。後者はその反対で、ここ数か月は毎週見ている。それはちゃんと録画されるからだが、ひとつ気になっているのは、「YOU」とは青い目の外国人のことで、韓国や中国、東南アジアは含まない。つまり、そんな劣等アジア人種を主役にして番組を作っても誰も見ないとのTV局やスポンサーの考えだろう。外国と言えば欧米に限るのは暗黙の了解で、日本人は今でも欧米人への憧れが強く、アジア無視は当然と思っている。そこがその番組の鼻のつくところだが、視聴率が高く、また誰も筆者のようには思わないので、今後も人気が高いままに続いて行くだろう。その「YOU」の番組は、たいていは日本にやって来た欧米人が日本を盛んにほめそやすことに視聴者が快感ないし感動を覚えるように作られている。つまり、日本は文化の進んだ欧米人が喜んでやって来る立派な国であるということを再確認したいための番組で、自惚れを満たすためのものとしては最適だろう。そう考えると、その番組の人気が高いことは、日本は自信を失いかけていて、今後没落へと邁進することをふと思わせたりする。日本は今は独裁国家と言ってよい政治状態になっているが、それで国民が不思議に思わないのであれば、それはそれでいいことだろう。独裁であっても、それを許しているのは国民で、政治家に責任ばかりがあるのではなく、元は国民にまず責任がある。ヒトラーひとりに悪を押しつけて国民は平気というのであれば、ドイツはいつかまた来た道を歩むのは必至だが、日本はどうかと言えば、わが自治会内には不景気を払拭するには戦争でも起こればいいのにと平気で言う主婦がいる。それが日本で起こってもいいのかどうか踏み込んで訊かなかったが、たぶん韓国か中国辺りで起こってくれると、戦後すぐにあった朝鮮戦争での日本の特需による好景気と同じことがあると思っているのだろう。他国が戦争で破壊されれば、隣国は儲かるという図式くらいしか日本の好景気の条件がないと一般人が考えると、政治家は喜んでその期待に応じるだろう。何が言いたいかと言えば、人間は醜悪な面があるということだ。自分さえよければ他人が不幸になっても全くかまわないという意識がそれだ。これは誰にでもある自己愛と言えるが、程度の問題がある。自己愛が強過ぎて自滅するのはギリシア神話のナルキッソスの話にもある。
話は変わる。筆者は2,3年前から3階の仕事部屋でストーヴをつけなくなった。電気やガス・ストーヴは5,6台は持っているが、コードなどの設置が面倒で、またあまり火の気を部屋にほしくないとの思いがあるからだ。足の踏み場もないほど床一面に本が山積し、また壁際や箪笥の中に湿度に敏感な作品その他がたくさんあるからとも言えるが、寒い季節はせいぜい2,3か月で、それを我慢すればすぐに春が来ると思っているからだ。だが、そういう寒い家であるので、冬場は人を呼べない。寒いといっても10度を少し切る程度で、そのくらいの気温の方が筆者は冬らしくていいと思っている。先月妹宅に行くと、リヴィングが床暖房でとても温かかった。だが、帰宅したその夜、どうも足の指が痒くなって困った。水虫菌が夏と勘違いして暴れたのだろう。そう思うと床暖房はいいとしても、あまり高い温度は黴菌が繁殖しやすく、健康にいいことばかりとは思えない。それに寒い部屋でも筆者はそのために風邪を引いたことがない。むしろ家の中が寒いので、外に出た時に平気で、かえって健康にいいのではないかと思うほどだ。まさか寒さの中で我慢している自己を愛するという妙な自己愛は筆者にはないと思っているが、他人から見れば変人には映るだろう。それはそれでよくて、筆者は他人に同じような生活を勧めることは全くしない。一方、真冬の寒さで思うのは、何かに書いてあったが、禅僧が雪が舞い込む部屋の中で暮らしていて、すぐ近くに入って来る雪をきらきらした真珠か何かのようにたとえて寒さをやり過ごすことだ。その禅僧の鮮烈でありまた情緒豊かな生き方、感じ方を思うと、筆者がストーヴやまた夏場にクーラーをつけないことなど、全くちっぽけなことで、何の自慢にもならないが、少しでもその禅僧の境地には近づきたいと思う。それも自己愛だと言われるかもしれないが、世間では避けて通りたいことをそう思わないことはひとつの覚悟であり、その潔さは全身から滲み出ると信ずる。
昨夜家内は、ある小説家を最近TVで見て驚いたと言った。その小説家は筆者と同じ年齢かひとつうえで、TVで番組を持っていたが、今はどうなのだろう。家内が言うには、顔の筋肉が垂れてしまって、とても汚く見えたとのことで、それは以前からそうであったが、よほど不健康な生活をしているからだ。毎晩午前2時過ぎに寝る筆者も同じようなものだが、暴飲暴食はしないし、酒の付き合いもない。毎晩豪華な食事をしてワインを1瓶空けるようなことをしていれば、ぶくぶく太って醜くなるのは当然だが、その小説家はいかにも美食家のようで、また女遊びも激しいのかもしれない。ともかく、60半ばになってぶよぶよの体で弛緩した顔をしている男というのは、裸になればなおさらよくわかる。50代でもうそのような体になっている男が大勢いるのは、風風の湯で大いに見物している。筆者はまだそれほど腹は出ていないし、顔の筋肉も垂れていないが、もちろん年齢相応の肉体であることからは逃れられないから、後は何か心に決めたようなことで見た目に差が出ると思い、精神的に弛緩しないことを心がける。ただし、それが具体的どういう方法かとなれば、個人によって違うし、また自覚してもそれが正しいとは限らない。自分の顔を鏡に覗き込んで醜いと自覚した友人Nは50代で死んでしまったが、その醜さを自覚しながらそれから抜け出ることをしようとはしなかった。だが、自覚しただけまだましで、たいていは自分の醜さを思ってみることすらしない。つまり、たいていはそれほど心まで醜くなって行く。それが大勢だとすれば、それに意義と唱えることは異質ということになり、自己愛が強過ぎると思われるか。50、60代になると、ぶよぶよな体になった方が観録があり、そういう男に抱かれたいと思う女の方が多いかもしれない。女は醜い男によって自分の美しさが却って映えると思うことが多いのではないか。そして、そんな女を相手にして男はますますぶよぶよの醜さを増長させる。何の問題もないわけで、ぶよぶよを拒否する筆者のような考えは男からも女からも嫌われるだろう。そしてそんな自意識過剰の男は昔は禅僧になったのかもしれない。
何年か前にどこで買ったのだろう。わが家の裏庭に秋になると水仙の葉が一斉に生えて来る。だが、いつ見ても葉のみで、花が咲いているのをほとんど見かけたことがない。関心がないからだ。全くの放ったらかしで、野生と言ってよい状態だ。それに庭の向こうの小川沿いに出る時、必ずその葉を踏んでしまう。そういうこともあって、毎年健気に葉を伸ばすのに、花を咲かせるほどには条件がよくないようだ。4日だったか、5日だったか忘れたが、家内がその水仙の葉の群れの中にひとつだけ花が咲いているのを見つけた。そしてそれを切り取って小さなコップに入れ、TVのこたつの前に置いた。1階はとても寒く、4度か5度くらいしかないが、筆者がストーヴなしで生活しているので、家内もその寒さの中、ストーヴをつけない。それで電気絨毯とこたつを入れて、自分居場所だけは温めているが、部屋全体の温度は5度以上にならない。夏場でも寒い部屋で、そのために筆者は去年から夏はそのTVのある北向きの部屋の最も寒い一画にパソコンを置くことにした。それはいいとして、水仙は寒い季節の花で、1階の部屋に置いておくと、いつまでも花が枯れない。そして2,3あった蕾がどんどん開花して、目を楽しませてくれる。そう言えば、昔家内と付き合い始めた頃、水仙の絵を描いてほしいと言われ、画用紙に写実的に描いて手わたしが、それがその後どうなったのか、家内も知らない。水仙の花をじっと見ていると、その葉といい、花といい、何でこんなものが寒い季節に地面から生えて来るのか不思議な気がする。だが、水仙は筆者を見ながら同じように思っているに違いない。自分しか愛せず、それで水死したナルキッソスは水仙の花となったとされるが、寒さの中でこそ咲くこの花は、禅僧のように慎ましやかで、ぶよぶよしたイメージからは確かに遠い。老けるのは誰でもだが、先の小説家のように醜い顔になるのは避けたい。きれいに老けたいと思うことが自己愛かどうかとなれば、そうかもしれないが、金がほしいなどと考えずにどんなことでもそれなりに楽しいと思う心の余裕を持つかどうかだけでも、普段の表情というものは変わって来ると思う。