多い時で120枚ほどだったか、毎年年賀状を書くのが大変で、先ほど書き終えたのは70枚ほどだ。昨日のTVでは毎年年賀状の売り上げ枚数が減っていて、半減に近いと言っていた。
筆者がもらったり送ったりする枚数から考えると妥当な話で、若者は特に年賀状離れが著しいだろう。パソコンで年賀状をの裏表とも印刷することがあたりまえになり、ありがたみが減っていることも理由ではないか、筆者のプリンターはかなりオンボロで、よく調子がおかしくなるが、今日もそうであった。そのうえ、インクがないとの表示が出る。年末にネット・オークションでカートリッジの出品を見ると数点あったが、どれも使用期限が最低でも10年過ぎている、だいたい4,5年経つと内部のインクが凝固して使えない。それで新品を見ると、3色カラーが1個6000円ほどする。黒は4000円ほどで、合計1万円で、だいたい1年しか持たない。それでせいぜい200枚ほどプリント出来るだけで、パソコンのプリンターのインクは驚くほど高価だ。これならカラー・コピーの方がはるかに安価だ。あるいは印刷屋に出した方がよく、来年の年賀状がそのようにしようかとも思う。昔は印刷屋に出したが、100枚で2000円ほどであった。年賀状を印刷して宛名をすべて書き終えるのに丸1日費やしたが、時間も金もかかる。それに今回は12年前に作った切り絵を利用したので、年賀状のデザインの時間はゼロであったからよかったものの、これが切り絵から作るとなるともう1日かかる。これでは裏表ともプリンターで印刷し、また図案もさほど考えないというのが常識化するのは無理がない。ここ数年は大晦日に書くか、あるいは元旦や2日に書いていたのが、今年は今日つまり10日になって、これではますます年賀状のありがたみがない。受け取った人が憮然とするだろう。それで細かい字でびっしりと言い訳を書いた。その部分はカットして図案の部分のみ、今日は画像を掲げておく。12年前に作ったのは灰色と卵色の色紙を使った。パソコンは便利で、それの色相を赤く変えた。毎年赤系で印刷しているからでもあるが、プリンタ―のインクが赤が最も多く残っていたからだ。結局ネット・オークションでは買わなかった。10数年前の使えない新品が送料込みで1000円ほどで売られていて、知らない人はそれを安いと思うが、ゴミを1000円で買う馬鹿はいない。専用の注射器で凝固したインクを多少吸い出して使える場合もあるが、10年も経っていればまず無理だ。ともかく、年末になるとプリンターが年賀状のために大活躍するのはいいが、インクのことを考えると、かなりの精神的ストレスで、年賀状が寿命を縮める。これはおおげさではなく、真面目な話だ。そういう年賀状なら出さずにおればいいのに、元旦に届く束を見ると返事を書かかねばと思う。それでも生きているのにもう送って来なくなった人がぽつぽつとあり、筆者と同じように億劫になっているのか、あるいは筆者が怒らせたかだが、まあどっちでもいい。一方、相変わらず届く人に先ほど返事を書きながら、それはそれでなかなかいい時間と思った。裏は全面印刷した後、1,2行の手書きを加え、表側は相手も自分の住所氏名も手書きするが、その手書きの時間がそれなりに楽しい。普段はパソコンで文章を綴っているから、めったにペンとインクを使わないが、たまにそれで縦書きすると気分がよい。すぐに感覚が戻って来て、一晩中でも書いておられるような気分になる。そういう時、その気分を中断するのが、郵便番号を書いてない年賀状を見つけた時だ。喪中のはがきが年末に届いたので、年賀状を出さなかった人物が数人あるが、その中のひとりはどういうわけかこここれまで一度も郵便番号を書いて来たためしがない。それでこっちも相手の郵便番号を書かずに出すことがあるが、2回に一度は郵便番号を調べて書き込む。それが面倒なのだ。せっかくペンですらすら書いている気分よさが中断される。一度相手の年賀状に、郵便番号を書くようにと注意したことがある。それでもその人物は自分の家の郵便番号を知らないらしく、書いて来ない。こっちが相手の郵便番号を書かなくても無事に届きはするが、通常よりも遅れる。ま、そんな場合も年賀状にあり、年賀状は年末の多忙な時の大いなるストレスの源で、これが年々減って来ているのはいいことではないか。江戸時代はそんなものがなかったから、昔のいい時代に戻って行っていると思えばよい。また、電子メールで年賀状を出す風潮が逆に広まっているようだが、それはそれでまた面倒で、またそれはもらっても嬉しくない。おそらくそういう年賀状はすぐに廃れるのではないか。それはさておき、なぜ今頃になって年賀状を書いたかだが、去年秋から多忙が激化し、ブログもほとんど書けなくなっている。その多忙さはクリスマス以降昨夜まで続き、昨夜と一昨日は徹夜したほどだ。この年齢になって徹夜が2日続くとは、いったいどういう人生かと思うが、不思議と眠くならない。それだけ作業に没入しているからだ。昨夜はある書類を出版社に朝の4時に投函し、先ほどは深夜1時に年賀状をまた同じポストに出しに行き、人気のない暗い町を放浪する怪しい人物と思われそうで、あまりいい気分ではないが、夜のうちに出しておかないと、朝になれば朝一番の集荷に間に合わない気がする。多忙のあまり年賀状が遅れたことを言い訳として図案の下に細かい文字でびっしりと印刷したのはいいが、あまりに細かい文字で虫眼鏡が必要だ。それでたぶん半分ほどの人はそれを読まない。ちょうどこのブログと同じだ。書いても誰も読まないというのはさびしいかと言えば、そうは思わない。書く楽しみで充分満たされているからだ。花は誰かに見てもらいために咲くのではない。それゆえに美しい。それはともかく、今日の年賀状の図案の上の狂歌は、印刷する寸前に思い浮かんで加えた。「鶏に囲まれて振る小鎌かな」。これは切り絵の意味を解釈しているのだが、12年前に添えた15×15の字数の文章がどういうものであったかは忘れた。それを確認するのも面倒で、覚えている図案のみを利用することにした。横向きと正面向きの鶏は若冲の絵から拝借したが、それに気づく人はどれだけいるだろう。今日は狂歌を作ってすぐに、それがなかなかよい出来映えであることに自分で感心したが、なぜそうかと言えば、今の筆者はその図案のカマキリみたいなものであるからだ。鶏にすれば、餌となるカマキリが振り上げる鎌など少しも恐くない。それでもカマキリは必死に威張る。命がかかっているからだ。その姿に筆者は自分をなぞらえるのだが、その理由について書くのはまだ早い。徹夜はしないかもしれないが、当分は多忙が続く。今日は段落なしで書いた。読みにくいと言う人は適当に区切って読めばよい。