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●泉屋博古館
2週間前の11月29日に出かけた。ちょうど紅葉の最後の美しさを楽しむにふさわしい頃だった。今年は紅葉がかなり遅れて12月に入ってからが見頃と言われていたが、それも上旬までであった。



まだあちこち紅葉中の木が見えなくもないが、きれいに紅葉する前に落葉が激しく、道路の隅には土色に化したモミジの葉が丸まって積もっている。今年は紅葉狩りで地元の嵐山に行かなかった。こうしてワープロを打つ部屋から見える嵐山が、2年前の見事な紅葉に比べると全く冴えず、きれいな赤に染まっている木がほとんど見なかったからだ。11月29日は正午頃に四条河原町に出た。そこから徒歩でこの博物館まで歩いたが普通に歩いて45分ほどかかる。平安神宮北辺の丸太町通り沿いのとある神社からは、紅葉真っ盛りの楓の木が街路に向かって枝を垂れていて、それで充分紅葉を味わえた気分だ。紅葉に関しては「枯れ木も山のにぎわい」は嘘だ。うす汚れたような色の木々をたくさん見るとかえってげんなりする。見ない方がましだ。昼食はその見事に紅葉した神社から少し東へ行ったところにあるホテル・サンフラワー近くの料理屋で食べ、そのまますぐ博古館を訪れた。ここに来るのは4度目であろうか。通りから見えにくいところにあるから、通りすがりに気づいて入る人はとても少ないだろう。実際いつも鑑賞者はまばらだ。館内に入ってすぐ右奥に、よい庭が眺められる休憩室がある。そこでは無料でお茶が飲めるが、いつも必ずここで1杯いただくことにしている。庭から見える多少木々はよく手入れをされているようで、すっかり鮮やかな黄色になり切った銀杏の古木などのたたずまいが見事であった。その背後に大文字山がすぐ見え、今年一番の紅葉を鑑賞した気分になれた。そして嵐山よりもこっちの東山の方が紅葉が美しい気がしたが、見ている場所が限られているためであろうか。
 春と秋には特別展がここでは開催される。そのための会場は、前述した中庭の奥に建つ新館だ。そっちの展示を先に観たが、それについては明日書くことにして、今日はこの館の名称の元になっている常設展示を紹介する。「泉屋博古館」の「泉屋」は昔は「いづみや」と呼ばせたが、ここでは「せんおく」と漢読みさせている。「博古館」は「はくこかん」としか読めないが、それに合わせたのであろう。「いづみや」というのが屋号であることは誰にでもわかることで、また大阪の人であれば、「いづみ」が大阪府南部の泉州を指すこともよく知る。このことは、同じ地域を指す車のナンバー・プレートの「和泉」からでもわかる。「泉屋」は4世紀前に始まった糸割符(いとわっぷ)貿易にも参加した堺の豪商だ。三代目の友信が鉱山経営に着手し、明治になって住友銀行を創立した。井原西鶴は、泉屋や鴻池の豪商を近代になってにわかに登場した商人で元を辿れば「物つくりせし人の子ども」と言っているが、同じような冷めた見方はもっと後の上田秋成も書いている。余談になるが、筆者が中学2年生の時に最も仲のよかった同級生のS君は工業高校を出た後、住友金属に入社すると自慢げに語っていた。今頃どうしているだろう。筆者は住友に入ると聞いても何とも感じないどころか、むしろそんな名前のある財閥系の会社などに頭を垂れるのはいやだなと思ったものだったが、名のある会社に入れば一生安定した生活が出来るという幻想が当時は今以上に強かったし、そんなところに入社させるために必死で子どもに勉強させた。話を戻して、日本は地下資源の乏しい国として学校で教えられたが、銅だけは別だ。これは台湾や東南アジアには産出がなく、そんな理由もあって江戸時代から棹銅、丸銅の形で唐船による輸出が続いた。出島を通じてのオランダ船による輸出も同じように多くて、1630年代半ば頃ではオランダ船だけで年間400トンを運んだ。この銅の産出が輸出品のトップを占める状態は明治になるとますます重要なものとなり、明治10年代後半は世界の2.5パーセント、第1次大戦までには7パーセント前後にまで拡大して、アメリカに次ぐ世界第2位の産銅国になった。これは欧米で電気事業関連で銅の消費が拡大し、その需要に応じたものだが、当時の日本では充分な消費や加工部門が育っておらず、8割が輸出に回された。このような多大で急激な銅の産出の裏にあった古川市兵衛によって復活を遂げた足尾銅山やその鉱害と戦った田中正造の生涯も思い出すが、それはまた別の話で、ここでは「泉屋」が住友家が江戸時代の屋号であることを知ればよい。
 企画展を観た後、そのまま館を後にしてもよかったが、まだ次の予定まで30分ほど時間に余裕があったので、常設展も見ることにした。そして前述した休憩室の近くにある扉から入ろうとしたところ、扉の際に座っていた60歳ほどの男性が声をかけて来た。「御鑑賞されますか。どのくらい時間がおありですか。」「30分ほどですが」「では、御説明いたしますので…」。近頃の美術館には多いボランティアかもしれない。あるいはここに勤務している人か。使い込まれた分厚いファイルを手にし、その中には館の人でしかわからないような資料もあった。それがわかったのは、鑑賞中に青銅器の重量が気になって質問したところ、すかさずファイルを繰って、該当する作品を調べ、「これは以前計ったものですが、えー、20キロですね」と答えていてからだ。だが、別の質問をぶつけると、明らかに勉強不足が露呈して素人という感じがしたから、実際はどうなのかはわからない。しかし、公的な博物館ではないので、あくまで住友に勤めているか、いた人であろう。さて、「泉屋」の次に「博古館」の名称だが、これについては入館時にもらえるパンフレットにも書いてあるが、ガイドをしてくれた男性は口頭で説明してくれた。「1000年ほど前ですが、中国の宋の時代の皇帝が作らせた青銅器の図録がありまして、その名前が「博古図録」と言います。それでその「博古」を取って「博古館」と名づけたわけです。ここに展示されている青銅器の形の名前もみんなその図録から引用しておりまして、勝手に名づけたものではありません」「ワープロの中には入っていない難しい漢字を使用したものが多いですよね」「ええ、そうですね。でも大昔からそのような漢字を使っていたわけですから、変えるわけには行きませんし…」。「博古館」は本当はこれらの中国の古い青銅器の常設展示だけのために当初建てられたものだ。中国以外では質量ともに最も充実したものとして世界的に知られ、今では中国から見に来る人も多いと耳にした。世界に2個しかなくて、そしていい方がここにあるといったこともガイドの男性は話してくれたが、なぜそんな貴重な、それこそ中国にあれば国宝的なものがまとまってここに展示されているかだ。
 泉屋博古館が所蔵する美術品はとても多いが、その中の中国青銅器と鏡の500点を公開するために、昭和45年に鹿ヵ谷の地にある住友家の別荘地の一角を使用して館が建てられた。住友家からの寄贈が続き、今では3000点を所蔵するが、それらを昭和61年に建てられた新館で少しずつ紹介している。青銅器の収蔵も含め、多くは住友家第15代の吉左衞門(号は春翠(1864-1926))が明治中期から大正期にかけて集めたものだ。春翠は実兄が西園寺公望(1849-1940)で、この人物はフランス留学でパリ・コミューンを目撃もしているが、やがて日露戦争後に総理になり、その後も政界を操り続けた大物だ。西園寺家は京都の古い公卿で、当然泉屋よりもっと歴史があるが、豪商がやがてそんな名家と婚姻関係を持つことは当然でもあり、たとえばナポレオンがより権威を強固にするために皇女と再婚したことを思い出せばよい。それはいいとして、春翠は中国の青銅器に関心を抱き、しかも潤沢な資力を持ち合わせていたゆえに、今では到底国外に流失するはずのない中国の宝をふんだんに集めることが出来た。だが、運の巡り合わせが決定的な条件であった。明治27(1894)年の日清戦争、大正1(1912)年の中華民国成立、そして昭和に入ってすぐには毛沢東らが革命根拠地を建設するが、こんな動乱期の中国であったからこそ、美術品もまたさまざまなルートで市場に流れ出た。青銅器は世界中のコレクターに散らばり、日本でもここだけではさまざまな美術館が所蔵する。最近は中国の成金が海外のオークションで中国の古い美術品を高値で買い戻す動きが激しくなって来ているが、これは自国の芸術を愛する気持ちからは当然のことだろう。先日『偉大なるシルクロードの遺産展』でも書いたが、お金のあるところに美術品が移動するのは仕方のないことで、それはまた美術品保護の点でもよいみなすことも出来る。美術品がどこに所有されてもその価値は変化しないと言えるが、ある程度まとまったコレクションとしてひとつの場所に常設展示されることは、個人が家の宝として死蔵するよりはるかに意義がある。そう考えると、この館の青銅器コレクションは中国が弱体化していた時代のどさくさに乗じて収集された、いわくつきに感じられるものではあるが、ひとつの奇跡として眺めたい気持ちも湧く。銅によって近世史に登場して来た住友家が、巡り巡って儲けたお金を使って銅を主材料とする古代の青銅器をたくさん収集して展示するのは、錬金術の言葉をそのまま地で行くような、人間の不思議な業の歴史を見る思いがする。
 展示空間はうす暗く、4つの部屋がちょうど巻き貝のように螺旋状につながって次第に上昇して行くように設計されているが、館内の空気は、100年や200年といった年月を嘲笑しながら静かに座り続ける青銅器群の、その表面にびっしりと刻まれた途轍もない饕餮文によって重く不気味に沈潜し、訪れる者によそでは決して感得出来ない時間を与えてくれる。どんな動乱があってもこれらの青銅器たちは今後も生き抜いて行き、その時々の人に対して同じような悠久の思いを与えるに違いない。話は前後するが、企画展を見る前に、休憩室手前のガラスケース内に展示されている「ひょう(厂に驫)氏編鐘の音高測定」に見入った。それは青銅器の編鐘を実際に叩いて音の高さを測定したものだ。ボタンを押すことでそれらが実際に耳で確認出来る仕組みになっている。鐘1個について隧音(S)と敲音(K)を測定して五線紙上に記入しているが、厳密なピアノの平均律音と誤差があるのは当然で、音譜の下に+と-記号および、どの程度ずれているかを数字で示してある。これは10月に京都駅伊勢丹美術館で観た『よみがえる中国歴代王朝展』での、さらに規模の大きい編鐘の音をBGMで聴いていただけに関心があった。それで、また話が戻るが、ガイド男性にその伊勢丹での編鐘展示について話してみた。すると、「台湾では近年発掘されましたが」と的外れな答えが帰って来た。それは1978年に発掘された「曽侯乙墓(そうこういつぼ)」のことを言っているに違いないが、出土は中国の湖北省だ。30分での説明が、こっちも話好きであったので、かなり伸びた。それにしても説明をしてくれるのはありがたいが、この館以外での同様の青銅器に関しての知識がもっとあってよいと思った。
 さて、泉屋博古館が誇る「中国青銅器と鏡鑑」の展示は、第1から3室までが青銅器、第4室が中国や日本の鏡で、鏡には平安時代の国宝もある。青銅器はさまざまな形があるが、30ほどに分類されてそれぞれに名前がついている。ワープロで出て来ない難しい漢字があると先に書いたが、たとえば「ジ」と呼ばれるものだ。これは「兄」の「口」の代わりに「凹」を置いた字だ。「ユウ」と呼ばれるものは、「占」の「口」の中に左に接してもうひとつ「口」を書く。ほかにもややこしい漢字のものがあり、それらはみな前述の1000年前の図録の表記にしたがっているのだが、中国では1000年前に古代の青銅器の系統的な研究がすでにあったことを示し、さすがの歴史の長い国を感じさせる。これらの青銅器は技術的に再現が困難で、どのようにして作ったのかわからないものも少なくない。今はみな青緑色に錆びているが、作られた当初は「あかがね」と呼ぶ銅の赤い色をしていたはずで、新しい10円玉を思えばよい。だが、銅だけではなく、錫が混ぜられていて、その含有率で時代や産地もわかるのであろう。展示は商(殷)後期(紀元前10数世紀前)から西周、春秋、戦国、秦、前漢までの紀元前、そして後漢を過ぎて六朝あたりまでの大体2000年間をカヴァーしているが、実は先頃訪れた正倉院展の奈良国立博物館の本館でも同じ時期を網羅する中国の青銅器の展示があった。これは東京日本橋の美術商「不言堂」の初代社長坂本五郎が半生をかけて集めた約380点を同館に寄贈したものだ。奈良国博は2部屋を常設展示室とし、9月から公開を始めた。ざっと観ただけであったが、泉屋博古館と共通する動物の形をしたものが目立った。春翠が集めた時代からはかなり下がるはずだが、オークションで頻繁に出たものを買い続けたのかもしれない。蛇の道はへびであり、専門家にはそれなりるルートがあって、ほしいと思えば自ずとモノは集まって来る。しかし、贋物もまた多いはずで、その研究がどうなっているのかも気になった。泉屋博古館のものも含め、一度日本中にある中国古代の青銅器の優品を全部網羅した特別展がどこかで開催されないものかと思う。青銅器は何万点も出土しているようだが、多少日本にあってもびくともしないほど、まだまだ中国の地下には眠っていることだろう。
by uuuzen | 2005-12-13 23:58 | ●展覧会SOON評SO ON
●伏見人形『火伏せの布袋像』と... >> << ●『日本の物語絵』

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