夏に藤ノ森にある教育大学で伏見人形の講座に出席したことは以前書いた。その時、珍しい情報を得て、それを確認するために、若冲忌の当日、伏見街道をずっと北の七条まで歩いたが、目的の店を発見することは出来なかった。
それで、講座の講師であった人のブログを見つけたので質問したところ、確かな場所を教えてもらった。それからでももうちょうど3か月経つが、昨日、少し時間があったので、思い切ってその場所を訪れた。すると、店は閉まっていた。小売店でも土、日の休みは珍しくないので、それを確認せずに出かけたのがまずかったが、ネットで調べてもその店の情報は皆無で、電話番号もわからなかったから、これは仕方がない。店は伏見街道沿いにある。伏見稲荷大社の前と言ってよい場所で、今まで何度か前を通っているが、ごく最近になって、その店がかつて作っていた伏見人形の「火伏せの布袋像」と「お稲荷さん」、つまり狐の像を、ささやかながら新しく作って店の前で展示することになったそうだ。そのことを講座で知ったので、ぜひともその様子を見たくなったのだった。話せば長いが、「火伏せの布袋像」とは台所に置いておけば火事を起こさずに済むという布袋像で、若冲がよく描いているのと同じ形をしている。ただし、全く同じではなく、いくつか種類があったと考えられる。だが、このことに関して専門に研究している人はいない。伏見人形の有名な研究家の奥村氏は今も伏見人形を作っている丹嘉が所有する人形の原型については詳しいが、この「火伏せの布袋像」に関しては、若冲が参考にしたであろう人形やその原型の存在については知らないようだ。このことは以前電話をかけて確認した。で、伏見稲荷の境内に店を出している高畠商店は「火伏せの布袋像」を今も作って販売しているが、それは若冲が描いたものに大体の形や表情は似ているだけで、若冲の絵のものとはかなり印象が違う。高畠商店は古い人形から型を起こしたはずで、その意味で昔のものをそのままコピーしていると言えるが、講座で知った前述の伏見人形店が細々とまた売り始めた「火伏せの布袋像」は、高畠商店が販売するものと同じ形と言ってよいことがわかった。だが、それとは別にそれこそ若冲が描いたものにかなり近いかと思える別の形の「火伏せの布袋像」の実物も所有しており、その写真が講座で少し映し出されたのを見逃さなかった。
昨日はせっかく訪れたのに、店のシャッターが閉まっていて人形を見ることも話を聞くことも出来ないでは、あまりに出かけた意味がないので、とにかく玄関にあるインターフォンを鳴らしてみた。するとすぐにおばあさんの声がして、横の扉を開けてくれた。寒い中、5分ほど話を聞くことが出来た。それは予想を越えての収穫で、人形を見ることはかなわなかったが、わざわざ出かけた甲斐があった。その店は毎年初午の日に「火伏せの布袋像」を数千円で販売するとのことで、写真を見せていただいたところ、それは高畠商店が販売しているものと形も色も同じで、つまり若冲が描いたものとは違う。筆者が興味を抱くのはそれとは別のもので、そのことを訊ねると、原型を大切に所有していると言う。ただし、誰かにそれを使用させるとすぐにまねされてしまうので、門外不出にしているとのこと。型はなくても実物の土人形があれば、それから型を取ることは出来るが、その実物すらが本当にめったに見かけないほど珍しいものだ。教育大学の講座を知らせてくれた伏見人形を長年蒐集しているMさんでもかつて一度見たことがあるのみで、伏見人形のどの研究本にも写真は出ていない。いわば幻の「火伏せの布袋像」なのだが、その古い実物をその店は保存しており、店の前に展示しているというから、その写真を撮影するために出かけたのだった。話は変わるが、その日はその「火伏せの布袋像」を自分で1個だけでも作ってみる気になった。写真さえあれば、いや写真がなくても若冲の絵を見て、似たものは作ることが出来る。粘土もそして型用の石膏も買ってあるので、後は時間とやる気だ。土をどこかで入手することと、そして焼成が問題だが、土も焼成も以前高畠商店の伏見人形作りをしている主が自分のところのものを利用すればよいと快く言ってくれたので、最悪の場合はそこに頼むことは出来る。だが、1個程度なら自分でどうにか出来ないかと思う。「火伏せの布袋像」には登録商標がないので、勝手に作っても誰からもとがめられることはない。筆者が求めるのは、ただ若冲が描く際に参考にしたであろう「火伏せの布袋像」で、まさにこれだと思えるものがないのであれば、自分で作るしか手はない。
若冲が描いた「火伏せの布袋像」は別名「幸右衛門型布袋」と呼ばれている。土曜日に訪れた店では今でも「幸右衛門」をわざわざ名乗っていることがわかった。伏見人形作りとしての正統制を主張しているのだが、幸右衛門なる人物の実体は不明で、実際にそんな人物がいたかどうかはわからない。ただし、名前が伝わっているからには、それなりに存在はしたと考えられる。ただし、時代を経るにつれて伝説がまとわりつき、実際は幸右衛門に関係のない伏見人形までそう呼ばれて来た可能性もある。伏見人形の実際の起源は幸右衛門どころか、それよりもっと昔に遡るはずだが、ある時期に至って商売上手な幸右衛門が、自分の作る人形の差別化を図るために自分の名前を全面に押し出して人形作りをしたのであろう。いつの時代でもそれはよくあることだ。さて、この「火伏せの布袋像」、あるいは「幸右衛門型布袋」だが、ここではあまり詳しく書くのを控えておく。ある時期になればもっと書く用意があるからだ。話はまた変わる。つい数日前、この2年半ほどずっと探し続けていた「火伏せの布袋像」に実物を入手した。それは全く偶然の、奇跡としか言いようのない出会いで、今もまだ自分の手元にあるのが信じられない。筆者が入手したものと同じものは奥村氏の本にも小さな写真が1枚掲載されているが、それはかなり傷があるのに対し、筆者のは同じように煤で真っ黒になってはいても、ほとんど無傷で状態のよいものだ。高さは30センチ近い。これは高畠商店が販売しているものよりかなり大きく、また形も若干違い、若冲が描いたものにはより近い。ほとんど同じと言ってよいが、両袖の袂の長さや脹らみが違っていて、直観では若冲が手元に置くなりして描いたものではない気がする。だが、非常に古くて珍しいものであることは間違いない。それを自分で発見して購入出来たことは、今年最大のニュースと感激であった。長く探しているといつか出会いがあることを再認識する。他人から見れば、そんな汚れた土人形などどうでもよいものだが、筆者はその人形のことを思い出さない日がこの2年半の間ずっとなかったと言ってよい。どこに行っても見ることの出来ないその実物を所有出来ることなど、人生にそう何度もない出会いではないだろうか。
だが、その実物はかつて一度だけ見たことがある。そのこともここには書かない。だが、この件に関して昨日訪れた店では貴重な情報が得られた。『なるほど、そうだったのか…』といった思いがしたが、その時の気分のよさもあって、そのまま伏見稲荷大社に参って、次は石峰寺に出かけた。本当は別の日にするつもりであったが、天気もよいし、気分もよいので、ついでに足を延ばした。石峰寺は稲荷大社から5分とかからない距離にあって、自動車が通れないような狭い道沿いに何軒も売家や貸し家を見た。伏見稲荷界隈は温暖だそうでほとんど雪が降らないという。余裕があればこのあたりにもう1軒家を持つのもいいなと思う。石峰寺では事情もあって、10分ほどしか話をしなかった。これもここには書かないでおくが、若冲に関して筆者が仲立ちをした形の一件を知って、また出かけなければならない場所が出来た。何だか伏せて書いているので自分でももどかしいが、久しぶりに出かけた伏見稲荷界隈でいろいろと面白い収穫があって本当によかった。それはそうと、その前日は相国寺に出かけ、事務局長から名刺をもらった。この件についても伏せておくが、いずれ書く時があると思う。土、日と2日にわたって若冲関係の寺を相次いで訪れたことになるが、そう言えば、ここ数日で若冲関係の珍しい本をあちこちから数冊入手出来た。12月も半ば頃になって慌ただしくなりかけている折り、心残りの事柄がある程度次々と片づいて行ってくれないと困るから、毎日収穫と思える出来事が次々とあるのは嬉しい。だが、今は最も力を入れる必要のあるホームページ作りがなかなか進まず、この調子では正月公開が無様な格好のままになってしまう。それが本当の心残りだ。