彼岸が過ぎて秋の美術展の季節が始まる。東京でクラナッハの展覧会が10月中旬からあって、それを観たいと思っているが、来年1月中旬までやっているので、機会があるかもしれない。
関西に巡回してほしいが、人口、また美術ファンの割合が関西は少なく、元が取れないのだろう。元が取れる取れないで言えば、展覧会ひとつで東京に行くのはどうなのか。交通費にホテル代、それに図録代や食事代を合わせると、数万円は必要だ。あたりまえのことだが、万年金欠病では躊躇する。それはさておき、関西のみの展覧会もあって、東京から見に来る人が当然ある。ついでに京都や大阪の観光ということになるが、東京観光というのは魅力的なのだろうか。筆者は都会は世界中どこでも同じと思っているので、東京を歩いても感動はない。それで美術展だけが目的となるが、せっかく数万も使うのであれば、いくつか展覧会を見たい。クラナッハ展が終わるまでの間、筆者が見たいような他の展覧会が開催されるのだろうか。話を戻して、今日取り上げる展覧会は日本ではMIHO MUSEUMのみの開催で、宝石好きは見るべきものだ。宝石好きはだいたい女性ということになっているし、また金持ちという条件も合わさるので、東京で開催した方がはるかに入場数が多いはずなのに、なぜかMIHO MUSEUMのみとなった。今年の夏季展であったか、MIHO MUSEUMは秋まで一部改装すると聞いた。それは本展のためのであったようだ。宝石店にはほとんど行ったことがないが、本展の展示室はどこも照明がかなり落とされ、また黒い壁紙を貼って、小さな宝石に目が行くような趣向が凝らされていた。展覧会のたびにそのように会場を作り変えるのは、百貨店の催し会場と同じで、専門の業者がいるようだが、それにしても金も手間もかかることで、展覧会は入場料が安いと思う。たいていは元が取れていないのではないか。特に本展はそうで、展示物にかける保険やまた輸送費など、よくぞ実現したと思う。筆者も家内も宝石には無関心で、それは関心を抱いても手が届かないからだが、珍しいものなら何でも見るのは好きだ。宝石は小さな工芸品でもあるから、その細工の妙と、きらきら輝く石のまばゆさを味わうのは美術鑑賞と変わらない。また、美術館で展示する宝石であるので、百貨店の宝石店とは桁違いに豪華なものが見られるし、京都八条口まで行けば、そこからMIHO MUSEUMまで専用のバスで往復してもらえる。毎回内覧会には出かけているが、今回は特にその珍しさに期待したところがある。
展覧会の題名にムガールとマハラジャが入っているので、インドの宝石であることは間違いがないが、いったいどこの所蔵品なのか。実はそのことを考えもせずに先日つまり29日の内覧会に行った。そして、いつものようにエントランス・ホールで開催されるいつもの開会式の式典に参加した時、ようやく本展の展示物がカタール国の王様のものであることがわかった。だが、却ってそれで頭が混乱した。インドとカタールとはどういう関係があるのか。あるいはマハラジャとアラビアのカタールは姻戚関係があるのか。どうも普段馴染みのない国のことであるので、実態がよくわからない。開会式ではそのことについてさらりと触れられ、また図録の序文にも同じことが書いてあって、ようやく納得出来た。カタールの王様と書いたが、図録には「シェイク・ハマド・ビン・アブドラ・アル サーニ殿下」とある。「シェイク」は「sheik」で、アラビアの部族の酋長の意味だが、カタールを支配するのはそういった部族の長なのだろう。それを国王と呼ぶのがふさわしいかどうか知らないが、「殿下」は「国王」と同じではないので、王族のひとりなのだろう。ともかく、そのアル サーニ殿下のコレクションで、開会式には本人が登場した。体格と姿勢がよく、40代後半のように見えたが、もっと若いか、あるいは50代かもしれない。アラビア人は見慣れないこともあって、年齢がわからない。それに、王族となれば苦労がないから、年齢よりかなり若く見えるだろう。どこかインド人っぽいが風貌だが、インド人もさまざまだ。そのことを示すのが、ムガール帝国の「ムガール」で、これが「モンゴル」の意味であることを本展で知った。まさかという気がしたが、モンゴルとインドが混血しているのであれば、インド人の風貌の多様性に納得も行く。だが、ムガール帝国の象徴は、誰でも知るタジ・マハールの霊廟で、あれはどう見てもイスラムのモスクと形が似ている。つまり、西方の民族が入って来て造ったものだ。西方とはアラビアのことだが、ではムガール帝国はモンゴルとアラビアが混じっているのかとなるが、実態はアラビア主体だろう。それでカタールの殿下がマハラジャの宝飾品に関心を抱くのは自然なこととなる。ともかく、その殿下のコレクションがなぜMIHO MUSEUMで展示されることになったかだが、殿下が建物を気に入ったからだ、そして筆者が思うに、山の中の美術館で、盗難に遭いにくいからでもあるだろう。東京で開催すれば10倍から100倍の人が見るだろうが、見るべき人に見てもらいたいとの思いもあるだろう。MIHO MUSEUMは京都や滋賀に住んでいてもかなり不便なところにあり、美術展を見たい人だけが訪れる。それはどの美術館も同じかと言えば、ついでにどこかの店で買い物をするなど、多くの目的のひとつになりやすい。筆者は内覧会の当日はほとんどそれだけで1日をつぶし、ほかに用事を作る時間も気力もない。そのため、展覧会の印象がより強烈になるかと言えば、そうは言い切れず、やはり内容次第だが、今回のように珍しい内容で、しかもこの美術館のみの展示となると、1日をつぶした価値があると思える。
さて、殿下はいかにコレクションを作っただが、王族であるので代々受け継がれて来たものと思いがちだが、マハラジャとカタールの部族は直接的には関係がない。そこが本展の性質をややわかりにくいものにしているが、殿下はコレクションをしようと思い始めた機会があった。それは図録にあるように、2009年にロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館で『マハラジャ展』を見て刺激を受けたことだ。つまり、わずか6、7年のうちに本展で展示されるほどの質と量の宝石を入手した。もちろん購入したのだが、世界的なオークションや、また所蔵家から譲ってもらったのだろう。その費用は筆者には概算すら出来ないが、何しろオイル・マネーがいくらでもあるような家柄で、数千億や1兆といった単位の金を動かすことが出来るはずで、そういう資金があれば、数年のうちに手元に集まるだろう。つまり、本展で展示される宝石は、日本の百貨店の外商ですら手に出来ないような超高価なものばかりで、そう思うと、結婚の際の1や2のカラットのダイヤモンドが屑に見えるし、実際そのとおりだ。その意味で、本展は宝石好きもそうでない人も見ておいた方がよい。宝石好きは、もう宝石を買うことが嫌になり、宝石に関心のない人は、人間の極限的な手技と、宝石がいかに貴重なものかを再確認する。筆者がよく思うことは、たとえばSF映画に奇妙で豪華な衣装や乗り物、室内装飾が出て来た時、所有者の威厳を示すそうしたものはすべて職人が丹精込めて造ったもので、職人がいなければ権力者が威張れないことだ。つまり、人間は裸になれば、偉そうな態度な人物もただのぶよぶよした醜い肉体の持ち主であることがわかり、「飾る」ことで差が生まれる存在だが、その「飾り」を元を生み出すのは名が残らない職人で、実際は王様より偉いのは彼らではないかと考える。だが、そのことをカタールの殿下も知っているだろう。地下に埋蔵される石油が文字どおり降って湧いたように産出出来るお陰で、国が豊かになり、殿下は関心を持ったマハラジャの宝石を短期間で大量に収集することが出来る。これは運としかいいようがなく、別に殿下が偉いということもない。偉いのは宝石細工職人だ。彼らは自分には一生かかっても手元に置くことの出来ない高価な宝石であることを自覚しているが、それを細工してこれまでなかったような豪華は宝飾品を作ることが生きがいであり、また自己の存在証明でもある。無名ではあるが、作品という形で永遠に自分の技は残る。王様は長くて数十年で代が変わるが、立派な宝飾品は時を超えて伝わる。本展はそういう空前の作品をまとめて見るいい機会で、また日本にはほとんど馴染みのないジャンルであるだけに、改めて輝石というものの魅力を思うことになる。輝かしい石はそのままでもきれいなものだが、それを身につけるものとして加工すれば、なおさら輝きを増し、また高貴さが宿る。カタールの殿下が魅せられたのは、マハラジャと同じように身分が高い人らしい。欧米ではたとえばゴッホやセザンヌの絵が高額で取り引きされ、また日本もその価値観に追従しているが、アラビアの国では事情が違う。インドもそうだろう。そういう多様性を知るにも本展はいい機会だ。インドの美術はそれなに日本で紹介されるが、マハラジャの宝石に絞った展覧会はなかった。それが意外な形でカタールの所蔵品によって紹介されることになった。肝心の作品について書かねばならないが、あまりにもたくさんのルビーやエメラルド、ダイヤモンドなどの集合体を見て、ただただ驚かされ、何をどう書いていいかわからない。ひとつ書いておくと、インドの宝石加工職人は、20世紀にはイギリスの影響を受けて新しいデザインを生み出す。宝石のカットについても同様で、インドと西洋が出会って、新たな宝飾品が生まれ、その状態は現在進行中だ。殿下は16世紀の古いものと、そうした新しいものの両方を所蔵し、かくてマハラジャが代々伝えて来た宝石が現在の大金持ちが買うそれとどうつながっているかが本展によってわかる。また、ムガール帝国もカタールはイスラムであるので、イスラム的なデザインの宝飾品が目立ち、そこに偶像を崇拝しない国民性がわかる気もした。