鳩の白い羽毛が細かい網の目状に描かれる若冲の『動植綵絵』の「桃花小禽図」だが、油絵ではもっと簡単に白の絵具をべた塗りするだろう。

顔料を膠で溶く日本の絵画も胡粉を厚く盛って描く技法があり、若冲も場合によってはそのように描いているが、厚い箇所ほど剥離がひどくなっている。油絵と違って掛軸は何度も巻いては広げることを繰り返すので、どうしても描いた表面にダメージを受けやすい。それで日本画でもマチエールを重視する画家が出て来て顔料を厚塗りするようになったが、掛軸ではなく、額に入れることを前提にしている。またそういう絵は高価な顔料をふんだんに使っていることもあって、なお商品としての価格が高くなり、また買い手はそれをありがたがっているとも言える。それはさておき、「絵」は「糸」と「会う」で、筆者は織物をよく思い浮かべる。細い糸に撚りをかけて縦横交互に織り合わせると、強固な布になる。しかもその布に絵模様を表わそうと考えるのは自然であろう。世界中にそういう織物が生まれたが、織機の考えからコンピューターが開発され、それがパソコンにつながっていることを思うと、織物が人類の発明でも最も素晴らしいものという意見には納得が行くし、また経糸と緯糸を交差させる織物がデジタル画像を想起させることもそうだ。その経糸と緯糸を細く、細かくすることで、より精緻な絵模様が織り上げられることは子どもでも容易にわかるが、4Kがどうのこうのと言われるTV画面も同じことで、その果てには分子構造に達する微細さで表現するとの考えもある。若冲が絹で織られた生地に色鮮やかな顔料を使って絵を描いた時、絹の目の細かさをどう思ったことかと思う。『動植綵絵』の微細な表現を見ると、織物では表現出来ないほどの細かい表現を目指したことがわかるが、当時の西陣織は発展途上にあって、まだ『動植綵絵』をそのまま織物で再現する技術はなかったし、また織物はもっと文様的なものと思われていた。それに、色鮮やかな絵画を下絵として織るには、織り方を工夫する必要があったが、その点は綴織が最もよいとわかっていたにしても、その技術がほとんど頂点に達するのは江戸末期や明治に入ってからだ。そして、若冲の着色画はその西陣の織りの技術を発展させ、またそのことで世界にその名を轟かせることに大いに役立った。ただし、絵画をそのまま織物で再現することに、現実的にどれほど意味があるかという問題がある。つまり、用途の問題だ。絵画は壁面を飾るもので、織物もそれに倣って室内装飾に使うというのはごく自然は発想だが、元の絵があるのに、それを織物で復元することは一種の模写で、やはり絵画により大きな価値があると誰しも思う。そのため川島甚兵衛が『動植綵絵』を模写させ、それを下絵にして織物で復元しても、それは若冲の細かい絵画表現にほとんど肩を並べる織りの技術に驚きがあって、織物の絵画表現は全面的に若冲に負う。これがもし若冲が『動植綵絵』を現在伝わるように描かず、織物の下絵としてのみ遺し、それを元に川島甚兵衛が織り上げたのであれば、その織物の価値はもっと違っていて、ほとんど国宝級となった。このことからわかるのは、織物は技術であって、絵画という芸術表現は分けて考えるべきものということになる。つまり、織物はどんな絵でもそれなりに織れるが、絵画の下位に甘んじる。そこに西陣織の一種の面白みのなさを筆者を思うが、これがアフガンやトルコのキリム、あるいはインドネシアのイカットなどは明確な文様のイメージが浮かび、またそれらの文様的な絵画表現は、日本画や洋画と呼ばれるいわゆる普通の絵画にない力強さがあって、織物は結局のところ、それ独特の、あるいは専属と言ってよい文様を織り出すところによさがあると感じる。その点で言えば、川島の態度は、日本の織物の高度な技術を世界に示そうとしたもので、文様的には独自なものを生まなかったと言える。だが、キリムやイカットのような織物独自の文様が日本になかったのではなく、それはとても豊富にあって、それに飽き足らなくなって、文様的な若冲の絵画を利用したと見た方がよい。

精巧な原色印刷が可能な現在、『動植綵絵』の各幅の原寸大のポスターもそのうちに販売されると思うが、そういう技術革新の中、川島織物が川島甚兵衛の明治の技術を現代に伝えようと、新たに『動植綵絵』の復元を試みているのは意味があるかとなれば、伝統技術保持の点ではとても重要な仕事だ。技術は途絶えるとなかなか復活が難しい。川島織物は時代に応じた商品を作り続けなければやがて倒産するが、その技術革新を支えるのは、これまでに可能として技術をいつでも同じ水準で引き出せる能力を抱え続けることだろう。それを時代錯誤で、また儲からないと考えているようでは、会社は一時的に儲かってもいずれ倒れる。だが、『動植綵絵』を綴織で復元するには、明治時代と同じ手間と技術が必要で、人件費を考えると、何倍も困難な状況にあるかもしれない。また、復元とはいえ、セントルイス万博に出品した『動植綵絵』の綴織は、船でニューヨークに運ぶ際に火災に遭って焼失し、細部がどのようなものであったのかは、試しに織った部分など、わずかな資料しか残っていないのだろう。全く同じものを2点ずつ織り、そのうちの2点ずつを川島が手元に置いておけばよかったのだが、そういう余裕はなかったであろう。そのため、綴織という技術を使ったことはわかっていても、どういう糸の細さで細部をどう織ったかまではわからず、復元するとなると試行錯誤が欠かせない。それは技術的なことであって、織りに関心のない人以外はどうでもいいようなことだが、気の遠くなるほどの時間と技術を要するものであることは容易に想像がつく。また、最初に書いたように、若冲は極細の胡粉の線の絡まりによって鳩の羽毛の白さを表現していて、それを織物で再現するとなると、筆で線を引くことの何百倍もの思考と時間を要し、またそれでも可能とならないかもしれない。ならばなぜわざわざそんな困難なことを織物で再現しようとするのかだが、絵画の絵具は剥落し、織物に比べるときわめて脆弱で、それを美点と見ることも出来るとはいえ、やはり強固であるに越したことはなく、若冲も自分の絵が織物のようにより長い年月をそのままの状態で保つことを望んだのではないかと想像する。それほどに織物には絶大の信頼感のようなものが湧く。それは実際に西陣のそうした織物を手に取らねばわかりにくいことだが、プリントではなく、織物のネクタイを見れば多少は実感出来るだろう。また、綴織は機械で織るのではなく、人間が一本ずつの糸を使って織って行くもので、その多大な時間を要する作業には、同じように多大な時間を要して描かれた『動植綵絵』を下絵とすることは、綴織の特徴を示すには最適と言える。川島甚兵衛はそのように考えたはずで、『動植綵絵』の模写的仕事とはいえ、人間の技の限界を見せるもので、精巧な印刷とは全くの別物だ。また、同じ綴織であっても、糸の本数や色数を増やすことでより原画に近づくから、この課題は一種永遠的なところがあって、川島織物が復元した『動植綵絵』はどこか未完成の味わいがある。それは悪いことではなく、むしろ人間的な温かみを感じさせる。

さて、昨日書いたように、時雨殿での本展は撮影禁止のマークのついた作品があちこちあって、近年復元されたらしい『動植綵絵』の「池辺群虫図」も撮影出来なかった。その脇にあった、その綴織のごく一部の拡大写真は、どのように工夫して織ったかの説明で、また撮影禁止マークがなかったので、周囲を見わたしながら何枚か撮影した。それが今日の写真だ。パネルの説明文から試行錯誤の苦労の跡がわかるが、そこには明治に織られたもの以上のものを作ろうという意気込みも伝わる。また、「池辺群虫図」の綴織は若冲の元の絵とほとんど同じ大きさだと思うが、セントルイス博での作品はもっと大きかったと思う。おそらく縦横1.5倍はあったのではないか。今年披露された長刀鉾の見送り用に織られた「旭日鳳凰図」も若冲の元の絵よりもそのように拡大されたもので、それは鉾の大きさに釣り合わせるための処置で、また元の絵を拡大することで多少は織りやすくなったと思うが、「池辺群虫図」のように原寸大となると、織目単位で絵の1本の線を適応させるほどの精緻さとなり、ほとんど狂気の沙汰と言ってよい。だが、一方では若冲の絵の精緻さはTVで盛んに紹介されており、それに見合うことを織物で再現するとなると、狂気と言えるほどの技術は必要で、またそれは織り手にとっては工夫する楽しさでもある。「池辺群虫図」の綴織を前にしながら、若冲に見せたい気がしたが、それは織った人たちも同じ気持ちだろう。2,3年前にMIHO MUSEUMは綴織による狩野芳崖の「悲母観音」や法隆寺金堂壁画を展示したが、そうした現代の綴織の頂点的な作品の仲間として「池辺群虫図」を加えていいように思うが、『動植綵絵』の全30幅を今後織り上げるつもりなのかどうか、そのことには触れられていなかった。ただし、左京区静市にある川島織物文化館では『生誕300年記念 京絵師若冲を世界へ』と題する展覧会が来年4月28日まで開催されている案内チラシが本展の会場に置かれていた。筆者は静市にも同館にも訪れたことがないが、今年は無理でも来春には思い切って行ってみようか。チラシ裏面を見ると、叡山電鉄の市原駅から徒歩7分とあるので、車がなくてもその気になればいつでも行ける。生誕300年記念の若冲展は全部行きたいと思っているのであればなおさら無視は出来ない。