壊しては造る。造っては壊す。造るのに壊す必要があるかと言えば、物が残っていてもそれを元に新たな物を作る場合は、やはり元の物は壊されていると言える。
昨日は大阪歴史博物館に行ったが、その常設展示の7階フロアの近現代は、筆者の記憶では少し展示が変わったように思う。その実物大模型の写真を撮って来たので、いつかこのブログに載せるかもしれないが、戦前の大阪市内各地を撮影した白黒写真が20枚ほどあって、それを見た途端、筆者は懐かしくて心温まるのではなく、逆にその頃には絶対に戻りたくないと感じた。それは今よりも非衛生的に見えたこともあるが、筆者自身の幼少の頃を思い出し、その当時に戻りたくないという思いが強いからだ。過去を懐かしがって、たとえば30代後半や40代が最も楽しかったといったことを言う人があり、そのことに多少は同意出来るが、そう思うことと、その頃に戻れるなら戻りたいと思うことは別の話で、人生をやり直したいとは筆者は思わない。そうそう、数日前のTVで、死刑を執行された20代の男性のドキュメンタリーを見た。交際相手の姉や母親だったかを殺したのだが、そのこと自体は許されるべきことではないとしても、彼の生い立ちを知って、そのような犯行に及んだことに納得が行った。だが、それも人さまざまで、同じような境遇に育ってもそのような殺人を犯さない人は大勢いるだろう。それはそれとして、心が痛んだのは、その男性は離婚した母から虐待され、その後は母の再婚相手からも同様の仕打ちを受け続けた経験があったことだ。祖母に引き取られて育ったが、そういうさびしい幼少期を過ごしたために、自分がようやく見つけた女性との家庭を、その女性の身内から壊されると思った時、発作的にそれを阻止しようとした。つまり、邪魔者は消せという思いに襲われた。虐待を受けて育ったので、自分も他者を虐待することになったのは、ごく当然と言ってよいかもしれない。だが、いつの時代でも幼児虐待はあるだろう。そして虐待されて育てば、将来は虐待する人間になるかと言えば、そうとばかりは限らない。だが、その限らない部類に入るにはよほど他者の愛情に出会う必要がある。人間的な温かみだ。それを知って充分大人になれば、自分がかつて虐待されたことも客観的に眺めることが出来るだろう。先の若い男性はそういう機会がないか、ごく少ないままに成人し、そして自分の幸福を阻む者に牙を剥いた。それはともかく、筆者はある日、父がいなくなったという欠落感が5歳くらいの時にあり、それがその後の人生に何らかの大きな影を落としたと今では思っているが、父親の記憶が全くないまま育つ子もあり、また今では離婚再婚が激増し、筆者よりもっと複雑な両親像を抱いている人はたくさんいるはずで、自分の幼少時が不幸であったと思い過ぎるのはよくないだろう。だが、誰も他人の人生を生きることは出来ず、ある人の思いに完全になり切ることは不可能で、誰しも不幸と言える心の傷を抱えながら生きる。そして、昨日は筆者が生まれていない大阪の戦前の写真を見ながら、筆者は自分が数歳の頃のことを思い出し、それらの写真に一種の嫌悪感を催した。そこへは帰りたくないとの思いだが、では今の方がずっといいかと言えば、そうでもない思いもある。これは常に欲求不満を抱えていると見ることも出来るが、現状には甘んじていないという積極的な意味にも解釈出来る。また、そういう現状を絶対的に肯定しないことが、常に何かを壊して新たに造って行くことの原動力にもなっている。
さて、今日はこのカテゴリーへの投稿が415回目で、阪急嵐山駅やその周辺がいかに変わって来たかの記録として、先に挙げた大阪歴史博物館の常設展示にあった戦前の大阪の街並みの写真と似ていると思う。ということは、筆者がこうしてこのカテゴリーに投稿することは本当はいやいやながらと思われそうだが、筆者がさびしい思いをして過ごした幼少期と今は違う。それに、筆者はこのカテゴリーの過去の写真をほとんど見ない。見てもそれは昨日歴史博物館に展示されていた戦前の写真を見るのと似たような思いが湧き、やはり過去はもうどうでもいいと思う気分が強い。そこから言えることは、こうしたブログの無意味さでもある。だが、筆者が本当に無意味と思うのであれば、さっさとやめるか、あるいは消去してしまうだろう。それをしていない今はとりあえず、こうして書くことに意味があると思っているからだが、それは「今ここに生きている」との宣言という意味合いが大きい。それは誰かに存在を知ってほしいという思いからではなく、生きていれば何かをするわけで、その何かが筆者の場合、こうして書くことが含まれるという意味合いだ。今日の写真は去年の昨日、つまり10月14日に撮った。阪急不動産が駅から徒歩1分ほどのところに建てていたマンションだが、これが先月完成したことはこのカテゴリーに何度か書いた。入居が始まって以降はもうそのマンションの写真は撮っていないが、現物のモデルルームが出来て、今は玄関脇にその看板がある。先日の「しみん新聞」であったのか、あるいは阪急の宣伝紙であったか忘れたが、このマンションの宣伝が載っていて、残り8戸とあった。全25戸なので、17戸が売れたことになるが、それにしては建物全体が夜には真っ暗になり、売れたとはいえ、ほとんど誰も住んでいないようだ。1,2戸は灯りが点り、また駐車場に車が入っているので、暮らしている人はいると思うが、それは例外で、大半は別荘として購入し、めったに訪れないのだろう。金持ちの金儲けの道具になっている感があるが、阪急不動産にすれば金のある者に買ってもらうことが大事で、売れてしまえば後はどう転売されようとかまわないだろう。1キロほど南にあったスーパーが夏に閉店し、最も近いスーパーまで2.5キロほどあるという状態になったが、松尾大社より少し南にあった小さなスーパーも最近閉店したとのことだ。そういうさびしい地域ではあるが、嵐山という有名な名称に魅せられて高級マンションを買いたい人はあるだろう。別荘を買えないような人は古くなった家にそのまま住み続けるしかなく、そこには戦前の大阪の街並みの写真に漂う埃っぽい慎ましさが漂っているが、筆者はそういう空間にふさわしい年齢になって来た。それでも今日も何か新しいことを思って書き、遠い過去のことは懐かしがらない。