老いには勝てないということか。その老いの様子は今日の最初の写真からわかる。建物は人間と同じように老朽化する。10代半ば頃、鉄筋コンクリートの寿命が60年と聞いたことがある。

その時、とても驚いた。筆者が通った小学校は戦前から使用していた木造2階建ての大きな校舎があった。中央に廊下があって、両脇に教室が確か合計で8つあった。それは筆者が卒業するまでに鉄筋コンクリートに建て替えられた。そして中学校には、出来たばかりの新築の鉄筋コンクリートの平屋の建物にあった教室のひとつが筆者のクラス専用となったが、その建物の敷地は、以前は洋館の会社があった。そこを買収して校舎を建てたのだが、数年前にその校舎の脇道を歩いた時、もうその校舎はなかった。出来たばかりの時に使った校舎が、半世紀近く経って老朽化が目立ったのだろう。その校舎だけではなく、小学校も中学校もすっかり校舎の配置などが変わり、筆者が通った学校とは思えない。半世紀でそのように変貌してしまう。校舎の建て替えは、運動場に余裕がある場合は、老朽化した校舎を取り壊す前にその場所に建てるが、それが無理な場合は、小さなプレハブを運動場の片隅に建て、そこで教えている間に、旧校舎を取り壊して同じ場所に建てる。それは工期が長くなるので、たいていは老校舎で授業をしている間に新校舎を建て、その完成後すぐにそこで授業を開始し、老校舎を取り壊す。そのため、小学校や中学校は、半世紀ごとに中心となる校舎は場所を交互に移動する。とはいえ、それは戦後の人口が急増した時代のことで、今は子どもが減って学校があまるようになって来た。その分、新校舎の建築を受注する業者が困るから、学校以外の建物を増やそうということになって来たのだろう。これは日本がそれだけ経済的に余裕が増して来たからだが、これも長い目で見ればいつまで続くかわからない。人口減少に歯止めがかからない状態で建物ばかりが増えると、空地がなくなり、老朽化した建物だらけという、廃墟が半分混じった街になる。もう日本各地でその徴候が出て来ているかもしれない。

60年は大丈夫と言われて来た鉄筋コンクリートの建物が、半世紀経たない間に取り壊されるのは、建築基準法が地震に対して厳しい条件を設けたからでもあるが、それも国が経済的に裕福になったからだ。だが、いつまでもあると思うな親と金で、日本が経済力を今後何百年も保てるかどうかはかなり怪しいと思っておいた方がよい。ピラミッドか万里の長城級のものを建設することは、国を強固にするというイメージにはまことにつごうがいいが、その永続的に必要なメンテナンスや、また設計どおりにきちんと造られるかどうかを考えると、強固な状態を保持することには懐疑的にならざるを得ない。バベルの塔の話を日本の知識人たちがどのように実感しているかと言えば、たいていはゼネコンを喜ばせる意見をTVで述べ、巨大な建築物が何らかの理由で壊れた時の危険を軽く見積もる。その最たるものが福島原発であったが、それはそれ、これはこれとの逃げ口上を持ち出し、命と財産を守るためには、たとえば高さ30メートル級の巨大堤防で大阪全体を囲うべしと意見する。そうすれば1000年や2000年に一度の豪雨でも大丈夫と言うのだが、そんな堤防を造る金がどこにあるか。それに下請けは必ず手抜きをし、設計どおりに造られないのは絶対と言ってよい。そしてそんな脆い箇所が50年に一度の雨で破壊し、スーパー堤防が全く用を為さないか、逆にその内部の人間の生活に壊滅的な被害を与える。公共土木工事を専門とするタレント教授は、その巨大な工事が人間に薔薇色の生活を保障するかのような錯覚を抱いている。バベルの塔のたとえを見て見ぬ振りだ。それは自分がその分野の専門で飯を食っているからで、早い話が自分のことを第一に思うところに発している。そして、ゼネコンからは先生と持ち上げられ、自分を数百万人の命を預かる神のように思っているのだろう。ヨーロッパでは高い塀に巡らされた城塞都市は珍しくないが、それを日本では洪水から身を守るために造るというのはかなり馬鹿げている。人間が相手の恐怖はまだわかる。自然相手に戦いを挑み、1000年程度はたとえ勝っても、2000年目に大災害を招いて、スーパー堤防内の住民が絶滅しては元も子もない。スーパー堤防がなければそれは避けられることであるのに、あまりに自分の力を過信した結果自滅するのは、まるで漫画で、大学教授という連中はそんなこともわからない、認めようとしない愚か者揃いということだ。だが、日本はそういう方向にどんどん進み、1000年と経たずに、そのスーパー堤防が施工ミスなどで修理費が莫大に嵩むかして、さっさと取り壊すに決まっている。つまり、目下のところのゼネコンを潤わすためには、どんなことでもやるというのが彼らの思惑で、1000年先のことなど全く知ったことではない。造っては早々と壊し、また造る。それを繰り返している限り、会社は存続出来るという自己保身の考えしかない。話が河川の氾濫についてのことになって来たが、明後日は天龍寺で例年どおり、嵐山の景観と河川氾濫防止をどう兼ね合わせるべきかというシンポジウムが開催される。それについて思うと、つい熱くなってしまう。

本筋に戻す。京都府立総合資料館が今日で閉館になった。それを知ったのは10日ほど前だ。調べものもあるので、閉館になる前に見納めとして出かけることにした。11日の日曜日に市バスに乗って家内と出かけた。天気はよかった。この施設は図書だけではなく、物も収蔵している。だが、それらは京都文化博物館が出来た時にその蔵品となった。では同館の内部に保管すればいいが、その場所がないので、総合資料館が保管場所として使われている。そのことに関しては一般にはあまり関係のない話で、筆者もそれ以上のことは知らない。また、総合資料館にある図書以外の蔵品は、個人は見せてもらうことは基本的には無理だ。しかるべき手続きを経れば別だが、それらの蔵品を展覧会で展示しない限り、見ることは出来ない。またそういう展覧会は同館の中で小規模に行なわれることがほとんどで、何がどれほどあるかについて知っている人は少ないだろう。それに国宝といったよく知られるものが優先的に展示されるから、地味な実物資料は陽の目を見るものが少ない。そういう実物資料を、現在の同館の南方に完成した新しくて巨大な新館で幾分かは展示してほしいものだが、前述のように京都文化博物館の蔵品であるので、どうなるかはわらない。資料を膨大にためるのはいいが、展示してこそ意味があるものは多いだろう。それはさておき、老朽化および手狭になった総合資料館を、現在の場所からほど近いところに建て直すのは、校舎の立て直しに似て、仕方がない。本来なら、茨木の万博公園内にある民族学博物館のように、現在の館に隣接して建増しするのが望ましいと筆者は思うが、そのための場所はなさそうだ。南に隣接してコンサート・ホールが20年ほど前に出来たからでもある。今度の新しい建物はそのホールから南で、北山通りと北大路通りの中間にある府立大学北側の農園に建てることとなった。早くて来春には利用出来るそうだが、それまでの半年は少なくても図書の閲覧が出来ず、筆者としては大いに困る。だがこれも仕方がない。