ありがたいと言うほどのことでもないかもしれないが、たまたまボーダレス・アートミュージアムの受付女性に訊ねたおかげで、昔から訪れたいと思っていた濠やその付近を散策することが出来た。

一昨日に続いて今日はその時に撮った写真を載せるが、まずは一昨日の写真の説明を簡単にしておく。2枚目は白雲館の真正面にある日牟禮八幡神社の鳥居をくぐって石段を下りる際に振り返って撮った。石段は濠の畔に下りるためのものだ。3枚目は下り切ってから東北を向いて撮った。西日で明るく写っているが、筆者が最初に目に留めたのは、誰でもそうだと思うが、右端の建物の壁に掲げられる白い大きな文字「宮前」だ。そこは料亭で京料理屋とあった。滋賀でもやはり京都と謳うのが一流のようだ。では近江料理がないのかと言えば、川魚料理を食べさせる有名は店があると思う。それに、京都にもあるうなぎの「かねよ」が大津にある。そのことと併せて思うに、近江はやはり京都を向いている。近江出の人たちが京都で活躍することは江戸時代にはとても多く、また大坂にも下って成功した人たちは多い。近江商人はそれだけ真面目で賢く、努力型であったということだろう。「宮前」の料理屋も元は京都で修行したと思うが、「宮前」の屋号はもちろん八幡前に陣取るからで、わが地元では松尾大社前の「とりよね」と同じと言ってよい。神社とは持ちつ持たれつの間柄として長年地元で営業を続けて来たのであって、「宮前」の大きな白い目立つ文字からは貫禄が伝わる。ただし、筆者はその文字を見ながら、映画のロケではそれがよけいで、きっと板を貼るなりして隠していることを思った。一昨日に書いた「八幡堀まつり」のチラシの写真は、今日の最初の写真と全く同じ角度で撮影された夜景だが、ライトアップされたその景色には「宮前」の文字が見えない。夜景であるからではなく、画像の加工によってその文字に黒いマスキングを施して見えなくしてある。一企業の宣伝になっては不公平との考えと思うが、それ以外にやはりその文字がせっかくの江戸期そのままのような情緒を削いでいるからだろう。江戸時代にその文字がなかったとは言えないが、もっと小さかったか、あるいは紋章つまり今で言うトレードマークのようなものがさりげなく描かれていたのではなかったか。京都では景観条例が出来て、車道にはみ出している看板や、また赤などの目立つ色を大きく使った看板は目立たなくさせられるようになったが、近江八幡はそのような条例を作る必要がないと思われているのだろう。だが、この「宮前」の文字はかなり目立つので、もう少しどうにかならないものかと思う。宣伝は悪いことではないが、逆効果もあり得る。表の車道にも看板があるので、この濠側の文字はよけいではないか。一昨日の4枚目は3枚目の撮影位置から反対方向を撮ったが、ひとりの熱心なカメラマンが座ったままで、写り込まざるを得なかった。そのカメラマンはプロかもしれないが、「宮前」の文字をどう思っているのだろう。この濠を紹介する際、その写真から「宮前」の文字を消したならば、宮前料理店から苦情が出るだろうか。そのようなことを考えさせられるだけでも鬱陶しいことだ。

今日の最初の写真にそのカメラマンの後ろ姿が写っているが、東へと進むともっと眺めのいい場所があるのだろうか。筆者は「宮前」の文字に阻まれたような気持ちになり、撮影位置から奥へとは歩かなかった。それですぐに引き返して八幡神社をお参りすることにした。濠に架かる白雲橋をわたると、参道はかなり広く、車の出入りも多いようだ。それで右端を歩いたが、すぐに見えたのが今日の2,3枚目の和菓子屋の「たねや」だ。家内は和菓子の中でもおかき類に詳しいが、たねやのそれはこれまで何度も買って高く評価している。その本店が突如目の前に出現したので、かなり驚いていた。何か買って帰りたがったが、百貨店でも買えるかと思い直した。それで店内の左奥つまり北側に喫茶室があったので、そこへ入ろうとしたが、午後5時までのようであった。仕方なく、店の外観だけ写真を撮ったが、実はこの2枚は神社を参拝し、神社北側のロープウェイ乗り場を見物した帰りに撮った。「八幡堀まつり」のちらしの裏面に地図があり、筆者は降って湧いたような初めて訪れる神社だけではなく、「神社の造形」のカテゴリー用に少しでも多くの神社を撮影しようと思い、地図に記される八幡神社とは別の、そしてその鳥居の南側にある小さな鳥居目がけて歩いた。それは「たねや」の裏手で、その斜めの道を進むと、二手に分かれる場所に出たが、筆者は右手に首を向けず、より道なりになっている方を目指した。その奥に小さな鳥居の印に相当する神社があると思ったのだが、そのまま進んだ薄暗い道は大鳥居奥の幅広い参道のひとつ東の脇道であることがすぐにわかった。だが、引き返さずに直進し、八幡神社の本殿前に出たが、その時にはちらしの地図上の小さな鳥居については「おかしいな」と思いながらもさほど意識しなかった。まずは八幡神社を訪れるべきという考えと、薄暗い脇道を引き返すことは疲れもあって考えなかった。それで、八幡神社の境内を巡って写真を撮り、本殿前の大きな門から参道に出ると、右手すなわち北の山手方向すぐにまた大きな石の鳥居が見えた。次はその写真を撮ろうとし、鳥居の外に出て鳥居を見上げると、額が架けられていてそこに文字があると思ったのが予想に反して何もなかった。それでまた参道に戻り、すぐ斜め向かいの北側のロープウェイ乗り場を目指した。その時、ちょうど西日を受けたロープウェイの篭車がゆっくりと山頂を目指して上って行くところで、その様子を撮ったのが今日の4枚目だ。大きな看板塔には、「山頂まで4分」と書いてあるが、これはロープウェイでは普通だろう。麓の駅舎はとても小さい。飲料やちょっとした食べ物を販売していて、これから山に上ろうかと迷っている風の数人がいた。チケット売り場を見ると往復券と片道券がある。これは歩いて下山する人がいることを意味している。それほど高くないのだろう。もう5時半頃であり、筆者らは山頂に行くこととは断念した。山城があった場所で、見晴らしがよいのは当然だ。琵琶湖が広々と見えるらしい。また街の夜景も美しいだろうが、筆者らはそのような暗くなるまで山にいるつもりはない。その山からの夜景は、先のちらしには「八幡ドル」と表現されている。これはもちろん「百万ドル」の夜景にひっかけたものだが、夜景はホテル池田山荘で堪能した。

日牟禮八幡神社はおそらく江戸時代そのままであるだろう。樹木が多く、先の「たねや」の堂々たるたたずまいとも相まって、近江八幡の歴史の重みを感じさせられる。参道を戻ることにし、たねやの前に来た時、筆者はふと左手つまり東に目をやった。先ほど道が二手に分かれる場所に来た時、見なかった方向だ。すると、奥に赤い鳥居が見えた。そこでちらしの裏面に載っていた小さな鳥居の記号を思い出した。「なるほど、あれがそうか」。家内は歩き疲れている。それでたねやの前にあるベンチに腰かけさせ、筆者ひとりでその鳥居目指して歩いた。その鳥居の神社の写真はいつか「神社の造形」のカテゴリーに投稿するが、神社近くの雰囲気が実によかった。やはり江戸時代そのままの落ち着いた風情で、京都なら上賀茂辺りにしかもう残っていないと言ってよい。家内を残して来たことを多少後後悔したが、写真を数枚撮ってたねやの前に戻った。そして撮ったのが今日の2,3枚目だ。店の前に何の木か知らないが、巨木がある。普通なら鬱陶しいとして伐採するだろうが、参道前にあり、神木と言ってもよい。またこの木に視界が邪魔されて困るという大型車は参道を入って来ないだろう。参道には参拝者の車がたくさん停められていたが、ナンバープレートを見ると近畿一円という感じで、夏休みも手伝って遠くからも来ているようであった。ちらし裏面の地図には神社周辺の名所が記されているが、琵琶湖大橋を歩いてわたり、美術館をふたつ見た後ではもう気力がない。せっかく訪れた近江八幡だが、筆者がボーダレス・アートミュージアムの受付女性に訊かなければそのまま駅まで戻っていたから、日牟禮八幡神社を参拝出来たのは予想外の儲けものだ。それで満足すればよい。だが、今こうして書いていて、大鳥居前の道路をわずかに西へ歩くと、近江兄弟社があったのと残念に思う。その近辺に市立資料館もあるが、そこは午後5時で閉館だろう。それはともかく、帰り道のことに関しては写真とともに明日書く。