エンタテインメントの世界に生きる人と一般人はあまり個人的なつながりがない。昔、若宮テイ子さんから聞いたことだが、自分の名前を看板にして世間で名が通っている芸能人は、実際に会ってみると、なるほどと思わせる貫禄があるとのことであった。
早い話が、オーラが見えるような気がするのだろう。筆者はこれまでそういう芸能人を間近でほとんど見かけたことがないのでその話は想像してみるだけだが、テイ子さんが言うのは本当だろう。小林万里子が目の前で歌い、またハーモニカを吹く様子は、そういう風格がある。だが、芸能人が大きく見えるのは、人間の器が大きいからという理由のみでは必ずしもなく、たくさんの人間と接して来たので、一般人に対してどう接するべきかを心得ているからであろう。また、そういう思いがあまりに態度から見え透いていれば、そのことがTVを見ている人に伝わり、やがて嫌われる。結局、芸能人であろうがなかろうが、人間性が大事ということだ。また別の言い方をすれば、誰しも人間の好き嫌いがあって、ある人からは嫌われるのに別の人からは好かれるだけのことだ。そのようにみんなが思いが違うのでこの世の中は回って行く。もっと別のことで言えば、筆者のこのブログを読んで、「上から目線の頭の悪い人」と二度も書き込みをせねばイライラが収まらない頭の悪いTOADがいる一方、全くその反対のことを筆者に言ってくれる人もあって、名前も書けない書き込みを気にすることはない。それに、ザッパも言っていたが、いやな奴は自分で好きこのんでそういう境遇を選んでいるのであって、放っておけばよい。簡単に言えば、「上から目線の頭の悪い人」とだけ書き込むようなヒキガエルは、自分がそうであることを天下に示している。それはさておき、誰しも些細ないやな思いをある。小林万里子はもっと深刻な幻滅をこれまでどれほど味わったかと思う。にもかかわらず、目の前で歌う姿はエネルギッシュで、客へのサービスを忘れない。さて、昨日は中途半端にしか書けなかった思いがあるので、今日はまた別の角度から小林万里子の曲について書くが、題名は代表曲「朝起きたら…」とする。この曲を聴いて筆者が連想することは、「男と女の間には深くて深い川がある」の歌詞から始まる「黒の舟歌」だ。だが、「朝起きたら…」は、その冒頭の「朝」からひとまず物事の出発やさわやかさが感じられる。この点は小林の全体像を考えるうえで重要であろう。この歌は朝起きたら男の態度が変わっていたという、性の不一致による男の女からの逃避について、女が恨み節で歌うが、小林はほかの曲では、男は女にただ乗りして去って行くとか、また妊娠させておきながら堕胎の金を出さないなど、性的に結ばれはしても心がひとつになれない女の孤独を歌う。また、その理由は、男はブスな女に見向きもしないからだと言うが、美人であっても男の便所には代わりがないと、性のはけ口としての女を措定する。また、そこからは、ひどい場合には女は男から暴力を奮われるとの考えにつながって行く。そのことは小林が子どもの頃から兄からひどい暴力を受けて来た経験に強く根ざしていると言ってもよい。男不信になった小林は、男になりたいと思い、世間一般の女らしい態度に多少は憧れながらも、そういう態度が自分には似合わないことを早々と悟った。そのことは別の曲の歌詞に歌われていて、一言すればブスの悲しみになるだろうか。だが、ブスの定義は難しい。顔だけの話ではないからだ。2年ほど前か、男を手料理でもてなし、結婚を餌に金を巻き上げ、次々に練炭で殺した女がいたが、顔はブスであった。にもかかわらず、男たちはころりと騙された。ブスであれば男が寄って来ないということはないのだ。女性らしさは顔だけはなく、全身から溢れる物腰や声、顔色だ。美人でも対面している間、ずっと顔がこわばったままなら、もう二度と会いたいと男は思わない。
小林の経歴を読んでいると、学生運動やウーマン・リブなど、筆者にはよくわからない活動家の時期があった。だが、そういう世界でも欺瞞が渦巻いていることを知って、人間不信になって行く。小林はそういう運動をしていた時、男性から殴られたことがあって、それを同じ運動をしていた女性に訴えると、「それは男からの愛の鞭よ」と言われて、幻滅して運動家をやめたといったようなことがあった。先に女は男の便所と書いたが、小林のそういう見方は学生運動に由来するだろう。一緒に革命を目指すからには、女は同志の男たちの共同肉便器となれと言われ、当の女もそのことに疑問を抱かなかったようだが、そんなアホな団体にどんな改革が出来るというのだろう。小林は早々と彼らの欺まんを見抜いたが、それは女を抑圧するからだ。男に対する幻滅は、しょせん女はきれいに飾ってもらっても便器であることには変わりがないと歌わせたが、そこで思い出すのはヨーコ・オノだ。彼女は男と対等にわたり合って世界的に有名は芸術家になったが、「女は世界の奴隷だ」とジョン・レノンに歌わせながら、男への怨みを歌にすることはなかったように思う。それはジョンという、愛する夫を得たからと言えるが、女が曲を書いて歌う場合、どういう方法があるかのひとつの大きな規範はヨーコ・オノは示したかもしれない。CDは全部で10枚ほどで、筆者は全部持っているが、歌詞の世界に深く踏み込んだことがない。その点、小林の歌は日本語であり、また関西人であるので、わかりやすい。さて、女は男の便器であるかどうかだが、これは前に書いたことがあるヨーコ・オノの意見がある。彼女は女は男の受け身ではなく、逆に男がじっとしているところに、女は空から舞い下りて帽子のように男根に覆い被さるというイメージを持っている。つまり、物は考えようで、女は受動的ばかりとは限らないということだ。だが、名家の出のヨーコ・オノのように、若い頃に渡米して芸術活動をする者はごく少数で、それは例外と言ってよい。今はそうでもないが、小林の世代の日本の女性は男尊女卑的な考えがあたりまえという中で育って来た。そうであるだけに、小林は日本の男の女に対する思いや行動を醒めた目で見て辛辣に歌詞に描く。そして、男尊女卑という古い考えを否定したかのような学生運動家であっても、やはりそこにも女を虐げる男がいたことを小林は知るが、それは最初からわかっている話であろう。
筆者は学生運動にさっぱり関心がなかったが、結局はいい会社に就職して行く連中ばかりで、一時の気晴らし、趣味で活動し、仲間割れして殺し合いまでに発展した。だが、そういう団体に入らずに傍観者として高をくくって見ていた者と、中に入って幻滅を味わって抜け出た者とはやはり違うだろう。小林は後者であるから、どんな権威に対しても一種嫌悪感があり、その内実には必ず汚れた部分があると疑ってみる。そういう態度を考え過ぎと嗤う人があるが、こういう問題は平均や基準といったものがなく、自分が思うことが正しいのであって、またそのことを公言する自由はある。またザッパの話になるが、ザッパはアメリカが世界に流行らせた大量生産の工業製品をあまり信用していなかった。たとえばシャンプーは、中に何か人間には害になるものが含まれていると疑っていた。実際そのとおりだろう。有益なものばかりでシャンプーが出来ていれば、それを食卓に並べてソース代わりに使える。頭の油の汚れをきれいに落とすからには、人間にも毒になる何かが含まれている。となると、食品でもそうだ。酒も同じで、政府はそういうものの中に人間を思いのままに統制する何か得体の知れない物質を混入している可能性もある。そのように考えていてちょうどいいのであって、それほどに大資本や国家がやることを信用していなかった。そういうザッパがたばこ中毒で、前立腺癌によって50少しで死んでしまうのであるから、人の命はわからない。さて、大資本は国と結びついているのは日米とも同じで、その国とは政治家で、また大資本も政治家も元をただせばただの個人で、お互いうまい汁を吸い合いましょうとの利害が一致しているのも、日米ともに全く同じで、さらに日本ではマスメディアが大資本と政治家のつながりで、統制されているも同じ状態であるから、アメリカより表現の自由がないと言えるかもしれない。いや、あってもマスメディア向きではないと思われると、取り上げられることはなく、TVで一気に日本中に知られるということは起こり得ない。先日ネットで読んだが、ビリー・ジョエルが「一介のミュージシャンの発言など、政治家は意に介していない」と発言したそうで、いかにミュージシャンが有名であっても、それはエンタテインメント社会でのことであって、政治家はそういう人種を何とも思っていないとの考えだ。これは日本ではもっとそうだろう。政治家に対して棘のあるような曲を歌おうものなら、絶対に放送禁止になる。そうなれば飯の食い上げで、そういう実態を知っている日本の芸能人やミュージシャンは誰も政治にはいちゃもんをつけない。発言することがあっても、楽屋裏でのことで、芸能人、ミュージシャンが政治に口出すと芸が廃れるとくらいに思っている。だが、一部の国民は政治に対する不満は囲っているから、そういう人々の思いを代弁する歌い手は本当は求められる。だが、先日のライヴで小林の伴奏をするギタリストの鷲氏がわずかに「殺されてしまう」と発言したように、あまり政治家の黒い部分を歌うと始末されてしまうとの思いは誰しも持っている。安政の大獄や、また大杉栄と伊藤野枝が甘粕大尉に殺されたことを思い出してもいい。「朝起きたら、官によって殺されてた~」と歌えればまだいいが、殺されては元も子もない。
西院では毎年夏に音楽フェスティヴァルを開いていて、今年は初めてその中のひとつの催しとして小林万里子のライヴを見たが、ほかの会場でもいろんなミュージシャンが演奏し、おそらくみんなそれなりに多少のファンがいて、それを励みに活動を続けている。そういうミュージシャンの数は年々若い世代が参加するので、増える一方の気がするが、いったい日本全体でどれほどの数がいるのだろう、これは全く想像がつかないが、考えてみれば画家も同じだ。個展をしたことはないが、年に1,2回の団体展には出品する、あるいはそんなものにそっぽを向いて描き続ける人もあって、日本全体では数十万人はいるはずだが、ミュージシャンも同じようなものだろう。その大部分はメジャーになることはないが、小林万里子は「朝起きたら…」のヒットで、70年代にラジオを聴いていた人なら知らないことはないだろう。つまり、メジャーを味わったマイナーと言ってよいが、今月見たふたつのライヴは、筆者のような世代は珍しく、ほとんどの客は若者であった。これには小林は勇気づけられるのであろう。古い世代のナツメロになってしまうのはどのようなヒット曲でも仕方のない運命と言えるが、「朝起きたら…」はブルースであることも手伝って、その歌詞の内容は若い世代にそのまま受け継がれる新しさを持っている。ましてや女が強くなって来たここ10年、20年ではなおさらで、小林は今の若い女性の教祖的な存在にもなり得る。だが、女の敵は女でもあるとよく言われる。たとえば小林が「いやな男のブルース」を歌うと、男を操ることのうまい女は同調せずに小林の男に対する魅力のなさをあげつらうかもしれない。それで、小林にそんな女の敵である女についての歌があるかと言えば、『ファースト・アルバム』や2枚目の『朝起きたら…』には入っていない。そこを思えば、筆者は先に書いた「男と女の間には…」の歌詞をまた連想してしまうが、小林は女であれば同情し、常に味方であるというのではないことは、YOUTUBEのライヴ映像からもわかる。女の偉そうにする政治家はやり玉に挙げられるし、また芸能人の女も例外ではない。そして、せいぜい数十人という客の前であるから官や権力者、有名人を皮肉っても内輪の話として「ああ、楽しかった」で一時のストレス解消となるのだろうが、小林はその百倍、千倍の観客の前で同じように歌いたいと思っているのだろうか。ネット時代になったお陰で、小さなライヴ会場での演奏をYOUTUBEという手段で不特定多数の人に知ってもらうことが出来る。1978年の『ファースト・アルバム』の時代とは違って、今の方が小林は思う存分、歌いことが歌えるようになったであろう。そのライヴ活動はネット時代向きと言える。ゲリラ的に各地で行ない続ける中で、「朝起きたら、急にものすごい人気者になってた~」とはならないにしても、少しずつにしろ、ファンは増えて行く。小林の私生活とライヴ演奏を交えたドキュメンタリー映像を誰か撮らないかな。それが売れる、売れないは別にして、貴重な記録になると思う。小林はそれほどに特異で重要な音楽家だ。