ボタンのかけ忘れが気になることに似ていると言えばいいか、御所の神社に生首を描いた絵馬が昔あったとの話を山崎在住の郷土玩具愛好家のMさんから去年2月に聞き、その神社がどこにあるかがずっと気になっていた。

それで、外れたボタンが締められるのかどうか、気がかりを多少でも解消させるために、去年11月21日に市バスの一日乗車券を利用して、御所を回ったついでに市内の神社を出来る限り訪れることにした。そういう目的ならば家内は敬遠する。それでひとりで出かけ、15ほどの神社を巡った。1日でそれほどの数を梯子したのは初めてのことで、今後もないだろう。御所の西の蛤御門近くに護王神社があることは昔から知っていたので、まずそこを訪れることにして烏丸丸太町で下車して北に向かうと、護王神社の手前に菅原院天満宮を見かけた。これはMさんの行った御所の神社ではあるまいと思いながら境内に入ると、道真に因む神社であるので、道真を描いた絵馬ばかりがあった。Mさんが話してくれた女の生首を描いた絵馬はいつ頃のものか知らないが、昭和30年代半ばではないか。その頃から神社の絵馬が今のようにシルクスクリーンで刷ったものが増え始めたと思うが、シルクスクリーンでなくても木版で墨色を刷り、その後手彩色したものが多かったであろう。ともかくすべて手描きというものはもうほとんどなかったのではないか。その辺りのことはそれこそ生首の絵馬を神社から黙って取って来たMさんの知人であった絵馬収集家に訊くとすぐにわかるだろうが、その人はもう死んでしまった。それでMさんはその人の話はもうしてもいいと思うという前置きをして、その絵馬収集家にまつわる世にも不思議な話をしてくれた。前に書いたが、その話は京都の70代以上の郷土玩具収集家の間では有名らしいが、誰も文字にしていないので、いずれ忘れ去られるだろう。生首の絵馬が今どこにあるかだが、絵馬収集家は日本にさほど多くないと思うので、手を尽くせばどこにあるかわかるだろう。それはともかく、その絵馬は死んでしまった収集家が嬉々としてみんなに見せたほどの珍しいもので、手描きであるのは間違いがない。それが、たとえば明治や大正時代のもののように、素朴な味わいがある一方で手慣れも見せるようなものなのか、それとも素人が怨念を込めて稚拙に描いたものかだが、たぶん後者だろう。筆者なら、ただ珍しいというだけでそういう絵馬を手元に置きたいとは思わないが、一番を目指す収集家となれば珍品を血眼になって探す。もっとも、生首の絵馬を描き、それを神社に持参した人は、それが絵馬収集家によって持って行かれることは夢にも思わなかったであろう。そこに、その生首の絵馬にまつわるその後の何とも不思議でまた忌まわしいと言える出来事が続いたとも思えるが、迷信を信じない人は笑うだろう。そして、生首の絵馬を神社の絵馬かけから外して持ち帰った収集家もそれを同じで、絵馬は物で、焼かれてしまうことは忍びないと考え、人の思いが籠っていることを何とも思わなかったようだ。そしてその不埒なところに、生首の絵馬を奉納した女の怨念が絵馬とともにその所有者にその後つきまとうことになったのではないか。

これも前に書いたが、Mさんは郷土玩具をこれから収集しようという人に、古い玩具を手元に置くことは、以前の所収者の気持ちを何らかの形で引き継ぐことであり、生活に悪い影響が出る場合があることを忠告するそうだ。物は物に過ぎないが、以前の持ち主の念が籠っているという見方には、筆者はある程度賛成する。機械で量産したものはさておき、手作りのものは、作者の思いが籠る。またそうであるからその作者の思いを感じ取って買い手が現われる。その思いはさまざまでありながら、たいていは気持ちがいいことに根差しているが、たまにそうではないことがある。たとえばきわめて安価に買われることがわかっている場合、買い手への怨みを込めて手抜きをするだろう。公共土木や建築にそういうことがよく行なわれる。コンクリートで塗り固めてしまえば中はどうなっているかわからず、平気で業者は手抜きをし、それで利益を上げる。それはさておき、絵馬は自分の願いを込めて神社に奉納するもので、その願いは妬みであってもかまわない。神様は邪な願いでも聞き入れるし、また何が邪かそうでないかは神様にもわからない。だが、絵馬に女の生首を描くのは、夫の不倫に悩む妻か、恋人を奪われた女であろう。あるいは裏切った女を怨む男か、いずれにせよ、相手を呪い殺したい思いによる。その絵馬があったのは御所の神社というから、なおさら恨みは強烈と言ってよい。前置きが長くなったが、Mさんから御所の神社と聞いて筆者が思い浮かべたのは護王神社だ。その前を何度も通りがかりながら、境内に入ったことがなく、何となく陰気臭さだけを感じていた。それがようやく自分から進んでそこに行くことになった。写真は10枚ほど撮って来たので、2回に分けて投稿するが、絵馬飾りは大きな古木の両脇にふたつあって、どちらにもたくさんの絵馬が飾られていた。ただし、どれも神社が売っているもので、また印刷したものばかりだ。今時、昔のように絵が手描きされたものはもうどこにもないだろう。先の話を繰り返すが、Mさんの知り合いの絵馬収集家が盛んに集めた昭和半ばでも事情はさして変わらなかったと思う。それゆえに、その収集家は生首を手描きした絵馬を見つめて、小躍りして後先のことを考えずに持ち帰ったのだろう。収集家の性と言えばそれまでだが、収集家は愚かなものだ。本人はそれをどこかで知っているが、所有欲が圧倒しているから、集められるだけ集めようと必死になる。愚かを自覚しながらますます愚かになる。

話を戻して、絵馬飾りの絵馬群を筆者はほとんど一瞥しただけで、何となくここではないなという気がしたが、案外そうでもなさそうなところがある。この神社には女の怨念というものが関係しているからだ。あるいは女への怨みかもしれないが、生臭い男女の話が起点にあり、そのことを知っていた人が呪いのために生首を描いて奉納したとも考えられる。護王神社とは、王を護るで、その王とは誰かだが、これは天皇を護ったという意味であろう。そして祀られるのは、奈良時代末期の貴族の和気清麻呂だ。左遷された菅原道真の祟りがあってはまずいと考えられて天神社が出来たように、実在の人物を祀る神社は、無念のうちに世を去った人物を後で讃える場合が多いが、和気清麻呂も菅原道真に似て、いわば政敵に陥れられて流罪になった。その際、足の腱を切られるが、たくさんの猪が現われ、それらに守られて歩けるようになったとされるが、こうした作り話が史実と合体して、和気清麻呂は神格化され、和気清麻呂を祀る神社では猪が狛犬の代わりになっている。奈良時代末期に天皇は大きな力を持っていたが、一方で寺や神社も勢力があった。それは人の心を支配する点において為政者を操ったと言ってよいが、現代では祟りを信じない人は多く、寺も神社も観光されるものという認識が高まって、政治とは関係がかなり途絶えた。それは政教分離の考えにもよるが、日本ではアメリカ以上にそれがまだまだで、宗教と政治を結びつける政党が大きな力を持っている。世界を騒がせているISも、宗教と政治がつながっていて、宗教が人の心を穏やかにするものというより、自分の信じること以外は排除しようという絶対主義の激烈さを生み、それが紛争のタネになっている。強権な人物がいると国は安定すると言えるが、そういう強権を持つ為政者の世界には殺し殺されるという、平和とはほど遠い策略に次ぐ策略が巡らされることは、ある程度の大人になれば誰でもわかる。それは男社会だけのものではない。男社会の背後に女社会があり、また時として男より上に立とうという女が現われて来る。政治に女が参加するのは男女平等から当然としても、日本ではその女政治家が純粋な意味での女の部分と、男と対等な意識を持つという二面性のために、女社会だけで動くこと以上に政治の世界ではややこしいことを惹き起こす。何が言いたいかと言えば、女は男の陰にいるだけでも男社会に大きな影響を与えるから、その女が男に混じって政治を司ると、たいていはろくなことにならないということだ。それも国や時代によりけりだが、男社会の日本では特にそう言えるのではないか。

現在の護王神社は御所のすぐ西にあって、天皇を守護しているように見えるが、護王神社のホームページによれば和気清麻呂は神護寺に祀られていたとある。そして現在の地に神社が出来たのは明治天皇が命じたからで、歴史はまだ浅い。岡山市と赤穂市の半ば辺りの和気で清麻呂は生まれたが、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)という正反対の名前を当時の女の天皇であった称徳天皇からつけられて左遷される。これはよほどの反感を買ったからだが、名づける天皇も天皇で、かなりえげつない女性であって、また言葉遊びが過ぎるが、そういうところにも女が力を持つとろくなことはないとの見本が覗いている。だが、天皇であるのでちゃんと立派な墓がある。天皇がひどい人格であっても、それはそれで、誰よりも位が高く、死後は陵墓で祀られる。それはさておき、当時は言葉は魂が宿るものとして、今以上に大事なもので、ましてや名前となると人格を表わすという意識が強かった。今でも自分の子に変な名前をつけることはいるようで、あまりに公序良俗に反する名前は受けつけてもらえない。だが、天皇から『清い麻呂とは何事か、こやつは汚いことをわれに言いよってからに!、汚い麻呂めが!』とばかりに、穢麻呂と改名させられると、もう名前を元に戻すことは出来ない。だが、今では名誉が回復して、明治天皇によって御所のすぐ西に神社が出来ている。この位置は創建がいつかわからないが、京都の西山の北の外れにある神護寺から清麻呂の霊を、より天皇の住まいの御所の近くに移すには、やはり御所の西しかないとの考えによるだろう。清麻呂が伊勢や名古屋の出身ならば、御所の東に護王神社が造られたと想像する。それはともかく、清麻呂の行動範囲は生まれ故郷の和気を中心として、東は奈良、西は流罪になった大隅半島までで、清麻呂を祀る神社は奈良以東にあるのだろうか。それはさておき、清麻呂がなぜ天皇の怒りを買って流罪になったかだが、そこには称徳天皇が天皇に推した僧侶の道鏡との確執がある。つまり、称徳天皇はどうやら道鏡と通じていたようで、いわば愛人の男に跡を継がせたかったのだろうが、天皇の血を引かない男を天皇に迎えることはおかしいという意見を清麻呂は申し立て、それで逆鱗に触れた。もちろん一介の貴族である清麻呂がそんなことを言えるはずがなく、これは称徳天皇の命を受けて九州の宇佐八幡神の神託を聞きに行った結果をそのまま伝えただけで、清麻呂にすれば正直に命令に務めただけなのだが、そこは称徳天皇の心理を読み取れなかったのか、それとも道鏡に敵対する勢力の味方をしたかだが、実際のところは誰にもわからないであろう。はっきりしていることは、子どものいなかった称徳天皇が道鏡を天皇に推したことと、称徳天皇が亡くなった後に道鏡の勢力が没落し、代わって清麻呂の名誉が復活したことだ。道鏡は巨根であったと言われ、それが称徳天皇が道鏡に魅せられた理由とすれば、あまりに露骨だが、露骨を言えば称徳天皇が清麻呂を穢麻呂と呼び換えたことがそうだ。ともかく、女が大きな権力を持つとろくなことはないと、当時の日本は思ったのかどうか、その後は女の天皇は江戸時代まだ現われない。だが、ここ10年ほどか、女の天皇を認めようではないかとの議論が出始めている。