政(まつりごと)は祀りや祭りの意味だ。祇園祭に関連して政治の話をしようというのではないが、大いに話題になったので、少しは書いておこう。先日の都知事の選挙は、前知事が辞めた直後に筆者が家内に知事になると言った人物が当選した。
勘が働いたというのではないが、たぶんそんなことになるだろうと思っていると、本人が出馬し、結局そうなった。家内はその新知事があまり好きではないらしい。スーツの上着丈が短く、後ろから見れば尻が丸見えだとか、またスカート丈が短くて膝が丸見えだとか、女という武器を最大限に使っているように見えるだろう。ま、それは些細なことだが、直感が働くのだろう。それに、自民党で名を馳せる大物女性はみな嫌いらしい。特に奈良出身のTや網タイツを履くIで、それには筆者も全く同意するが、だいたい大臣になろうとするのは女というよりもはや男だ。性同一障害者かもしれない。並みいる男たちの間で怖い者なしの顔をしながら政をするのは、男以上に男だ。それもいい意味で男であればいいが、政治家になりたがるのはろくな男はおらず、女性大臣は男の大臣よりもっとろくでもないと思っておいていい加減ではないか。それはさておき、東京は新知事が決まって4年後のオリンピックに向けて活発になるが、その次は大阪の万博か。大阪がオリンピックの夢を抱いたのはもう10年ほど前で、呆気なく夢破れて大きな建物が残ったが、オリンピック後の万博ではその大阪オリンピックの会場として予定されていた場所が整備されて使われる。ま、どうでもいいような話で、万博がまた大阪で開かれても、70年代のような活気は再来しないだろう。それはそれ、大阪は大阪で、大阪南部が昔ながらの古びた昭和レトロの街並みがあちこちに存在するのは、かえって東京にない珍しいこととして、今後価値が出ると考えることも出来る。大阪が何でも東京の真似をして、どこへ行ってもピカピカで、裏通りの薄暗がりの雰囲気がなくなることは筆者は反対だ。それだけ筆者も老けたということだが、老人が気兼ねなく歩ける地域は必要で、どこかしこも小奇麗になることが発展とばかりは言えない。娘が若くて肌もつやつやしているのはあたりまえで、また彼女たちが色気を発散して男たちを振り向かせるのもごく自然だが、いずれ彼女らは皺だらけになるのであって、同様にどのようなピカピカの町もいずれは古びる。だが、現実はどこかそれを許さないところがある。特に東京はそうではないか。古いものは醜く、それは悪であって存在してはならない。どうしても存在するなら、極力隠すに限る。それは若者の考えで、都市が若い場合はその考えは正義とされる。それは若さが老いを自覚しないことの残酷さだが、現実はそういうものだ。その感情がきわめて誇張された場合、先頃の相模原での大量殺傷事件のようなことが起こる。そこには、若さ対老いの戦いがあると言ってもよい。若い者は、とにかく老いは醜いものとして感じ、視界の中、意識の中に入って来ることを常に拒否している。それをまた老人は知っているので、こっそりと生きるが、中に大金のある老人がいて、若さを買おうとあがく。そういう醜さを若者は知っているので、なおさら老人を嫌悪する。ともかく、先に書いたように、老いをさっぱり考えないのは若者の特権で、彼らは老人を蹴散らし、罵倒しながら、好き勝手に生きる。そういう現実が大昔からあることを中国の古人はわかっていたので、儒教によって年下が年上を敬うようにしたが、戦後の日本ではそんな教えは忘れ去られ、若者は先生や親にもため口で話すし、また先生も親もそれでへらへら笑っている。そうであるから、なおさら若者に唾棄される。年配者は年配者らしく、常にしかめっ面をして、若者から軽々しく話しかけられないような素振りを示しておくのがよい。それが尊厳というものだろう。そういう老人が若者から嫌われても全くいいではないか。どっち道、若者は老人を嫌うからだ。そして、老人を嫌う若者もすぐに老人になると思っていればよい。実際そのとおりだ。かつて老人を嘲笑した若者がまた若者に嘲笑されるのであるから、老人を敬わない若者は結局自分もいつかは誰からも敬われない。とはいえ、若者はそんな言葉を嘲笑する。それでいいのだ。若い頃は性のエネルギーに突き動かされてとても老人のことを考える心の余裕がない。それが正常で健康だ。
京都は古い町で、人間で言えば老人もいいところだ。そういう京都が若者に人気があるとすれば、若者は寺社仏閣を好み、古いものは新しいと思っているからか。単なるないものねだりで、古いからいいと思っているわけではない。だが、案外古いからひょっとすればそれなりに価値があるのではないかと思っているかもしれない。そういう若者は自分が老いることをよく知っているのだろう。寺社仏閣などどうでもよいと思っているのが若者で、若者が京都を好きになることが、伝統的な何かよりも先端的なものがあると思っているからだろう。京都にはそういう先端的なものが昔から多少はあるが、筆者は今の若者が好む最先端の何かを知らない。また、知りたいともほとんど思わないが、それは充分今の自分の関心事で満足しているからで、昔流行った言葉を使えば、「マイ・ブーム」が常にあって、それは世間にとっては古びたものだが、筆者には最先端のものだ。古いものはほとんど目につかないことが多いが、その気になればいくらでも発掘が出来る。それは未知との遭遇で、自分ひとりが過去に埋もれたものを明るみに取り出すという気になってわくわくする。最先端の流行を追うと、他に負けじという思いが立って、なかなかしんどいものだ。それはさておき、今日は昨日の続きを書く。古いが新しいものだ。先月22日、祇園祭の後祭を見に昼過ぎに出かけた。本当は夕暮れがいいが、母に会いに行くことを決めていた。大船鉾を見た後、そのまま四条通りをわたり、新町通りを北上した。筆者の目当ては4年前に見かけた布袋山がその後どうなったかだ。大船鉾は順調に復元が進んで巡行まで果たしたのに、布袋山はその後、進展があったのだろうか。そう思いながら、今年はそれがある場所を再訪するつもりであったが、南観音山の近くであったはずなのに、正確な場所を思い出せない。北観音山の近くかと思い直し、さらに北に行くと、すぐに三条通りに出た。そこまで行けば全然場所が違うことはわかる。それでまた南に下がったが、新町通りから六角通りや蛸薬師通りの東西を眺めてもそれらしきものがない。それでまた北に向かって三条通りに出ると、今日の最初の写真の光景が目に入った。筆者が関心を寄せたのはテント下の人の集まりよりも、左端の「鷹山」と書いた赤い提灯だ。これが祇園祭の山なのかどうかわからないが、どうもその可能性がありそうな気がした。それで三条通りを東に向かうと、また「鷹山」の提灯があり、どうやらある店の内部に御神体が飾られている。その前まで来た時、店の経営者だろうか、50代らしき男性が「鷹山」について話しているのを耳に挟んだ。それで中に入って御神体を撮影し、そのそばにいた、先ほどの男性に話しかけた。「鷹山」は応仁の乱以前から祇園祭の山として巡行していたという。紆余曲折があり、最終的には江戸末期の火災に遭って焼失したが、幸いなことに御神体の3体の人形の、首と手のみが焼けずに済んだ。それに衣装を着せたのが今日の3枚目の写真だが、これらは中央の「樽負い」、右の「犬使い」、左の「鷹匠」としての中納言平卿だ。つまり、中心人物は鷹を手首に載せる左端の人物だが、この3体を山に載せると、山のてっぺんはいっぱいになってしまうだろう。また、「鷹山」は山ではあるが、長刀鉾と同じ規模の車のついた形のもので、それらならば最前列にこの3体を並べ、その後方両側に囃し方が陣取るのだろう。こうなると、山と鉾の区別がつきにくいが、ともかく三条通りの新町と室町の間には「鷹山」がかつてはあって、それが復元されようとしている。その費用を訊くと、胴懸けの飾りものなどを省いて2億円らしい。半分は市と国から助成があるとのことだが、それを受けるために順番待ちで、早いめに申し込んでおかねばいつまで経っても復元は出来ない。まずは長刀鉾級の山を復元し、胴懸けはその後というのが順序だが、三条通りは大きなビルばかりで、1億円は割合早く集まるのではないか。ただし、それには地元住民が復元に乗り気でなければならない。また、御神体が飾られる店の前に山を組み立てるのはまずいらしい。巡行の際はまず南に向かうので、三条通りであれば新町通りを左つまり南に曲がる必要がある。長刀鉾級の大きな山であればそれはかなり無理があるので、新町通りの姉屋小路通りになるだろうとのことだ。つまり、今日の最初の写真の筆者の撮影位置から左奥ということだ。新町通り沿いならばそのまま山は南に進める。
話のついでに筆者はその男性に布袋山について、まずその場所を訊いたが、蛸薬師通りにあるとのことで、ふたつ南の東西の筋だ。やはり南観音山のある付近だ。だが、陽射しの強い中、もうその場所に行く気力がない。道はさほど人通りは多くないが、ところどころに旗を持った添乗員に連れられた団体がぞろぞろと歩き、細い新町通りがなおさら狭くなった。それで、御神体を見た後は、そのまま三条通りを東に河原町通りまで歩き、北行きのバスに乗って母の家に行くことにした。話を戻すと、布袋山に関してはその男性は、年配の人がひとりだけ頑張っていて、町の人たちは気乗りでないと言っていた。そういうこともあるだろう。だが、4年前は山の本体である木材は組み上がっていて、そこまでやったからには、前に進むしかないだろう。とはいえ、その年配者、4年前に筆者が説明を受けた人と思うが、その人が元気な間に事を運ぶか、後継者を育てないと、話はなかったことになるだろう。祇園祭が前後に分かれて巡行するようになったのは2年前からで、筆者は先日それを観光客誘致につごうがよいからと書いたが、昔の伝統に戻したのが真相らしい。だが、前祭は23基の山鉾であるのに対し、後祭は現在10基で、半分以下の規模だ。それで「鷹山」と「布袋山」が復元されると、12基になって半分をわずかに超える。山鉾の数は時代によってまちまちで、最大数であったのはいつか知らないが、八坂神社のホームページには66本の鉾を神泉苑に立てたことが始まりとあって、これは当時の日本の国の数だ。今は都道府県の数が47であるので、復元するならその数が限度かと思うが、23と12でも35で、まだかなり足りない。だが、もはや京都には山鉾を復活させようという町はないのではないか。政治がそのことに口を出し、国費を使って無理にでも山鉾の数を揃えればいいではないかと意見する政治家か出て来ないとも限らないが、今は特定の神社の祭りに政治家が口を挟んで左右することは出来ない。政治家が自分の金を寄付するというのなら話は別だが、政を私腹を肥やすためと思っている政治家ばかりだろう。