旬の話題を書くべきで、しかも出来る限り、その日にあったことを書く方がよい。今は新聞記事でも遅い気がするネット時代で、ツイッターでは気づいたことを即座にスマホで発信する。

もうそういう時代であるから、筆者が書くブログなどは完全に時代遅れで、誰も読まないが、ま、そんなことはどうでもよい。金儲けのためでもなく、単なる暇つぶしで、思いつくままを書き連ねることもひとつの趣味だと割り切る。さて、今日の投稿は今日あったことではなく、16日に見かけた写真を使う。それは2,3枚目だ。最初の写真はヤフーのマイ・ボックスに保存していた。それを撮影した日は、今調べると、去年7月8日だ。その日は家内と一緒に市バスに乗って松ヶ崎の工芸繊維大学に展覧会を見に行った。さっぱり土地勘のない地域で、聞くところによると大学の先生や医師、弁護士などの社会的地位が高い、つまり肩書きのある人たちが好んで住む。つまり、筆者には全くの無縁で、それでなおさらその地域には関心がない。そのため、筆者がうろうろと歩いていると、不審者と間違われる恐れがたぶんにあり、なおさら近づきたくない。どちらかと言えば、筆者は陰険な人物に見えるというのが、これまで知り合った人の第一印象で、その感想を否定しないが、京都ではやはり梅津といった下町が似合うようだ。生まれ育ちはどうしようもなく、人間を後々まで規定する。どう頑張っても、育ちはふとした拍子に顔を覗かせるもので、筆者の場合は陰険でしかも貧相ということらしいから、ブログで顔写真を載せるなどもってのほかで、またこうした文章もただただ育ちの悪さを示すだけで、いい加減恥を自覚すべきなのだが、ま、始まったものはいずれ終わるから、終わるまでは書き続ける。さて、松ヶ崎だが、どの辺りにあって、市バスでどう行けばいいのかもわからない。それで下車したのは下鴨本通りの北大路だ。そこからどう歩けば松ヶ崎かわからないが、北東が工芸繊維大学であることは地図で調べていた。それで、ともかくまずは北に向かったが、筆者はなるべく自動車がよく走る道は避けて裏道を選ぶ主義で、その日もそうした。そしてどんどん北に進むと、行き止まりになり、目の前がノートルダムの女子大であった。噂には昔から聞いていたが、その門を初めて見た。また、北に向かって歩いている途中、その大学生3人連れと擦れ違ったが、確かに育ちのよいお嬢さんらしい感じがした。だが、それは言いかえれば金持ちで、また頭は平均より少し上ということで、そういう女性はいるところにはたくさんいるだろう。ただし、梅津にはどうか。松ヶ崎にその大学があるということは、大半が松ヶ崎から歩いて通っているのだろう。あるいは、松ヶ崎に匹敵するような下鴨地域だ。いずれにしても筆者には敷居が高く、また縁がない。それはさておき、ノートルダム女学院に突き当たったところで、門の前の東西の道を当然東に向かった。すると、100メートルも行かないうちに、今日の最初の写真の植物を見かけた。一瞬アジサイかと思ったが、どうも違う。名前を調べもせずに、ブログ用にサイズを加工してマイ・ボックスに「ajisaininohana」という名前で保存した。「a」で始まるので、マイ・ボックスのあるファイルの最初の画面にサムネイルが表示される。つまり、この1年、ほとんど毎日のように、名前の知らない花の写真を一瞥して来た。そして、いつかその写真をブログに使う日があるのだろうかと思い続けて来た。

その機会は1年後に運よくやって来た。一昨日は家内と出かけ、いくつかの用事をこなした。家内はただ着いて来るだけで、帰宅後はいつもぷんぷんと怒るが、そのようにしてふたりで出歩いたことが思い出となる。確かに思い出には軽重があって、大金を使って外国旅行でもすれば、長年記憶し、また思い出すたびに豪華な気分に浸れるかもしれないが、これまで生きて来た筆者から言わせれば、実際はそうではない。記憶は不思議なもので、大金を使うから鮮明とは全く言えない。何度も書いたことだが、筆者は世界中のどの場所でも価値は同じと思っている。大事なことは、自分は生きていることを実感することで、それは外国でも日本でも、また名所でもわが家でも差はない。たとえば筆者は嵐山に住んでいるが、桜の季節には大勢の人がやって来るというのに、筆者は逆に嵐山を出てほかの場所に花見に行く。先日TVで見たが、現在の世界で最も人気のある場所、つまり訪れたい場所は大阪の道頓堀と言う。となれば、筆者は世界でも、あるいは日本でも、最も有名な地域に簡単に行くことが出来、また住みもしていることになって、大金を使ってわざわざ見知らぬ外国に行く必要もないではないかと思う。ともかく、筆者は家内をどうでもいいような場所に連れ回し続けているが、それが後になれば貴重な思い出になると確信している。そういう確信があれば、家内も文句を言いながら、黙される。確かに疲れるだけで、自家用車ですいすいと移動する人が輝いて見えもするだろうが、物は考えようではないか。歩かねば見えないこともあるし、筆者はそう考えてこのブログを10年続けている。今日の写真もそうだ。目の前に広がる道を適当に選んで歩いていて見つけた。1年前のその時の空気や陽射し、また周囲の雰囲気はよく覚えている。それが人生というものだ。一昨日は、図書館に展覧会、それに神社をいくつか巡った。地図を見ていると、東山に見知らぬ神社を見つけた。展覧会を見た後、そこに足を延ばすことにした。ただし、家内にはそれを言わない。言えば必ず幼い子のようにだだをこね、地面にしゃがみかねない。それで筆者は30メートルほど先を歩くが、時々振り返ると、家内はしぶしぶ追って来る。疲れているのはわかるが、人生とは疲れと引き換えによき思い出が出来る。また、そういう疲れは後で疲れとは思わなくなる。神社の車一台がぎりぎり通れる参道を歩き、鳥居の前に立つと、左手に1年前に見たアジサイに似た花を見つけた。そうして撮ったのが2,3枚目だ。去年より花がよく咲いているのは、10日ほど遅いからかもしれない。写真が3枚になったので、これで投稿出来ると考えた。名前を調べると、すぐにボタンクサギであることがわかったが、なるほどクサギの花の形に似ている。クサギの小さな黒い実は水色の染料になるが、その珍しい木は西京図書館近くにたくさんある。今はどうか知らないが、7,8年前はよく花が咲き、結実している様子を見た。だが、ボタンクサギとクサギは同じ科ではない。どちらも臭いのでクサギと言われるだけだ。それでも小さな星型の花はよく似ている。そうそう、前日地図でその神社のある場所を知ったが、神社の北がノートルダム女子高であった。ノートルダムのすぐ際に咲く花がボタンクサギとは面白い。お嬢さん学校に通う女子がみな牡丹のような美女や育ちのよさかと言えば、そうではないはずで、臭いのもいるだろう。ま、陰険で臭い筆者が言うのであるから、誰も本気にはしないが。それに、言い添えておくと、ボタンクサギはなかなかかわいらしい花だ。