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●神社の造形―上桂御霊神社
ーゲットは自転車で10数分の上桂駅近くにある神社と思い、去年11月16日の夕方に写真を撮りに行った。何事もついでが好きな筆者なので、それだけが目的とは考えにくいので、近くの散髪屋に行ったついでかと思うが、家内のメモ日記を調べると、どうもそうではないようだ。



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それで神社の写真を撮るためだけで出かけたと思うことにするが、ま、去年11月は片っ端から京都市内の神社を訪れていた時期で、神社のためだけに自転車で走ったことはあり得る。まだ寒くもない頃で、なおさらだ。ところで、神社の写真はたまる一方だが、投稿する時間がない。今日の写真も5か月ぶりの投稿となる。それでも撮った時のことはよく覚えているのは、普段足を踏み入れない空間であることと、たいていの神社は初めて訪れるからでもある。そのような場所は神社以外にもあるのに、神社についてはよく覚えているのは、祀られる霊の影響かと多少ふざけて思ってみるが、神社が人々のおふざけで1000年以上も同じ場所に同じようにあるはずがないから、古来人々は霊の存在を信じていると言ってよい。そう言えば霊スポットという言葉がある。それは神社がよく該当しているようだが、神社の境内に入っただけで心のどこかが緊張するのは誰しもではないだろうか。そしてそういう気分になることを、自分の心が霊に反応しているためと考える。だが、霊は神社の特定の場所に存在しているのではないだろう。では、誰もが思い浮かべた途端、そこに霊が発生すると言えるかとなれば、そういう場合もあるが、そうでないとも言える。思い浮かべることは、その霊について知識がある場合のことで、ほとんどの人はそうではない。にもかかわらず、神社の境内に入る、あるいは入らなくても横を通りがかっただけで、何となくある思いがよぎる。それは必ずしも霊に反応してのことではないが、神社というものが、普通の民家や公共施設とは違う雰囲気を湛えたものであることは感じる。鳥居や玉垣、それに周辺よりかは多い樹木などがそう思わせるのだが、そうしたいわば周囲から浮いた特異性は外国人観光客も感じる。
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 このように書き進みながら、筆者は今日取り上げる神社のことを思い出しているが、このカテゴリーを始めてから、ようやく境内に入ってみようという気になった。最初の写真の大鳥居前の道はこれまで何百回と通ったはずだが、神社があると気づきながら、中に入る気が起こらなかった。この神社は四辻の北東角にあるが、大鳥居前は道幅がやや広いのに、大鳥居に向かって左側つまり南側の道路は狭まっていて、大鳥居前に立つと、神社が眼前に立ちはだかっているように感じる。つまり、東から西に向かって自転車や徒歩で大鳥居左の道路を進んで行こうとする時、鳥居が見えた途端に、そこが行き止まりのような圧迫感がある。言い換えれば、圧倒的な存在感だ。そのように気になりながら、結局はいつも鳥居の前に自転車を停めて境内に入らず、そのまま阪急の上桂駅方面に向かってしまう。去年11月18日は、初めてその大鳥居前に自転車を停めたが、鳥居の左手に交番があり、また鳥居前は駐輪場でもないので、何となく気が引ける。それは当然で、鳥居前のやや幅広の道路はどちら側も家が建ち並び、他人の玄関脇に自転車を停める格好になるからだ。それでどこに停めたかと言えば、今日の最初の写真の右端の外れで、写真には写っていないが、神社関係の建物の前であったと思う。駐車場や駐輪場のない神社にしては大鳥居は立派で、朱塗りもまだごく新しい。「御霊神社」は京都にはあちこちあるが、どの神社も神の霊を祀るのであるから、名前のない、あるいは適当な名前をつけた神社に思えるし、またわざわざ「御霊」と言うからには、よほど祀る霊に鎮まってもらいたいような趣がある。筆者の妹が住む地域の氏神は上御霊神社で、それと対になる形で寺町丸太町下がるに下御霊神社があるが、このふたつは御所を挟んで北と南に位置し、セットになっている。それと同じことが、この上桂の御霊神社にあるかないかだが、桂にはほかにも御霊神社があることは知っている。両神社の関係を調べていないが、セットになっているのかもしれない。また、妹が住む地域の上御霊神社とこの上桂の御陵神社がどういう関係かもいずれ調べねばならない。
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 さて、霊を祀る神社でも怨霊を鎮めるためにというのが菅原道真で、無念で死んだ人がその無念な仕打ちをした人たちに悪霊となって禍をもたらしてほしくないとの思いがあった。政変に破れた人を神に祀り上げることは明治以降はないのかどうかと言えば、龍馬など明治の志士を祀る神社があるから、今後も新たに出来るかもしれない。だが、それほど有名な政治家が戦後輩出したかと言えば、田中角栄くらいなもので、また角栄神社は造られることはないだろう。それはさておき、上桂の御陵神社は今は民家に囲まれているが、戦前はほとんど田畑で、遠目にも目立ったであろう。阪急の線路、また国道9号線が出来たのでたくさんの家屋が密集して来たが、ほとんど田畑が広がるばかりであった頃、この神社はどういう意味合いで設けられたのかは想像しにくい。そこでネットで調べると、最初はこの辺りを開拓した人たちが五穀豊穣を願って社を設けたらしい。この辺りとはどこまで指すかだが、筆者が知っている古文書を売買する業者が西京極にいて、その人はその地区の松尾大社の氏子代表をしているが、「葛野(かどの)」という昔の地名を好んでいる。その人の家の前を走っている葛野大路は、筆者が京都に来て以降、整備されて四条通りから三条通りまで延びたが、「葛野」という名前が京都市民により親しまれるようになった。この古い地名は、山城国のひとつで、確か南に乙訓郡がつながっているし、もっと南には綴喜郡や相楽郡があって、筆者の知り合いも住んでいる。北は愛宕郡までが山城で、この山城はいつ頃から人が定住し、田畑を耕して来たかと言えば、それには治水の土木工事が必要で、その知識は大陸からもたらされたと考えてよい。となると、秦氏だが、渡来系ばかりがこの地域を開拓したとは限らないかもしれない。渡来系の氏族がやって来る前に、歴史に残らないもっと古い渡来系がいたかもしれず、またそうした氏族はすでに開墾された地域を所有し、後からやって来た秦氏の新しい技術を吸収するために共存を図ったと考えられる。またそこに天皇がやって来ると、新たな力関係が生まれ、神社は元の位置にありながら、どんどん変化して行ったのであろう。それで、上桂を最初に開墾した氏族が祀ったのが御霊神社の地にあった五穀豊穣を祈るための社であったということだ。ネットによれば、室町時代に伊予親王を合祀して御霊神社になったとあるが、それは最初の社からは1000年ほど経ってからのことで、それ以前の名前がどうであったかとなると、ネットには太田神とある。これは稲荷系であり、つまり秦氏の氏神だ。朱塗りの鳥居を見ると稲荷社を思うが、妹の家の近くにある御霊神社は石の鳥居で、境内に朱色はなかった気がする。上桂御霊神社の大鳥居は遠目に目立つ朱塗りで、これは最初から五穀豊穣を祈願する神社であったことを思えば納得が行く。ではなぜ伊予親王を合祀したのかだが、伊予親王が上桂の地とどういう関係があるのだろう。
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 またネットで調べると、伊予親王は平安初期の人で、桓武天皇の第3皇子という。藤原氏へ謀判を企てたとされて捕えられ、奈良明日香の川原寺に幽閉され、そこで死んだ。没後に無実が判明し、それでその霊を慰めようということで御霊を京都に持って来て上桂の1000年前の神社に合祀することになったが、親王が上桂と縁が深かったというのではないかもしれない。どうせなら洛中のどこかであればいいと思うが、洛外でも桂川を西に越えての辺鄙なところで、そこに親王の微妙な地位が見えている気もする。いずれにせよ、御霊神社と名前が変わったことで、合祀された親王の御霊の存在が大きくなり、今では外からは鬱蒼とした雰囲気が強く、中に気軽に入ってみようという気をあまり起こさせない。また、前述したように、この神社は人家の密集地帯にあり、少し離れるとわずかに田畑は残っているが、もはや五穀豊穣は関係がないように見える。伏見稲荷は五穀豊穣から商売繁盛へとうまく舵を取って来ているので、この御霊神社も商売繁盛をもっと押し出せばいいように思うが、この地域は桂川右岸沿いにマンションがここ10年、急速に多く建って、大型スーパーもあるが、商家は上桂駅近くにわずかにあるだけだ。そのため、この神社のお祭りがどのように行なわれているのか知らないが、ネットには例祭として、松尾大社の神幸祭の際に巡行するとある。先に書いたように、桂川を東に越えた西京極の住民でも松尾大社の氏子で、葛野の区域に上桂も入ると思う。そう言えば、「葛」は「葛城」の場合は「かつら」と読み、それは「桂」に通じる。北に少し行けば松尾大社があるのに、なぜ上桂にも神社が必要であったかとなると、最初の田の神を祀るために必要で、それが後の歴史の推移によって合祀される神が増えて行ったのであって、松尾大社にはない摂社がこの神社にはあるだろう。つまり、松尾大社だけがあればよいというものではなく、それぞれ事情があって今に至っている。それがよほど大きな何かがあれば、境内は更地にされ、神社は移転ということになるが、この神社は国道9号線が通される時にうまく避けられた。あるいは、この神社があったので、そのルートを多少変えたかもしれない。
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 さて、写真を説明すると、最初の写真は真西に向かっている。この神社は鳥居はひとつで、それが真東を向いている。筆者が訪れたのは夕方で、西日が拝殿の向こうに後光のように射している。鳥居の奥に見える建物は拝殿で、その奥に3枚目の本殿がある。これの左つまり南に2枚目の社があるが、これは摂社で、立て看板には「火雷神」と「菅原道真」の文字が左右に並ぶ。「火雷神」は雷除けで、上桂に大火事はないというが、そう言えばそうかもしれない。もっとも、田畑が多かった時代が長いので、天明の大火のような大火事は起こりようがないだろう。菅原道真はもっぱら学問の神様として拝まれるが、北野天神絵巻には雷神が描かれていたはずで、火雷神と関係が深いのかもしれない。2枚目の写真の左端に道路と民家が少し写っているが、道路を西に向かうと200メートルほどで上桂駅がある。4枚目の写真は立て看板から「照玉乃神」を祀り、「難病治癒」と「開運長寿」の文字が両脇に書かれる。その奥を撮ったのが5枚目で、御幣を巻きつけた神木が2本あり、左は切株状態だ。6枚目は3連の社で、筆者が好きな長屋風だ。長屋ではなく、一戸ずつ壁を接しながら独立していて、上桂の民家の密集みたいだが、名前がどこにも記されていないようで、それぞれがどういう神を祀るのかはわからない。境内の北端で、摂社や末社として、最後に設置されたものだろう。また、3連の両端に石燈籠があって、3つはたとえば兄弟姉妹といったように、強い関係のある神を祀るかもしれない。手前にどれも格子戸が嵌め込まれているが、悪戯されたことがあったためか。格子の隙間から中が見えるが、近寄って確認しなかった。中には小さな祠があって、そこに名前が記されているかもしれない。さて、今日はてっきり写真が6枚と思っていたが、もう1枚あったので、もう一段落書かねばならない。7枚目の写真は境内の北辺中央であったと思う。西日の角度からそう推察する。楠木で、樹齢130年ほどらしいが、これからますます大きくなる。神社にすれば100年くらいは長くない。それで神木が雷などで倒れても、新たに植えた木は気づけば大木になっている。神社を訪れて大きな木に注目する人は少数派と思うが、なければ殺風景ですぐにわかるし、またあってもあまりの大木でもない限り、さほど気にもならない。樹齢130年は人生からすれば長くても、樹木からはさほどでもなく、まだ若い方だと思う。それでも筆者がこの7枚目を撮ったのは、境内では一番立派で目立ったからだ。梢まで入り切らず、根元の太さだけわかればいいと思って撮ったが、背後の小屋らしき建物からしてもその太さがわかる。
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 筆者が境内にいる間、誰とも会わなかったが、人の気配はあった。それは祀られる霊の気配かと言えばそうではなく、地面をきれいに掃いた跡から感じるもので、毎日誰かがそれを行なっていることはやはり神社というものの凄さだろう。誰でも自分の家を掃除し、玄関前を掃くと言えばそれまでだが、ひとり住まいをしていると、毎日玄関前を箒で掃くことは無理だ。部屋の中となればなおさらで、誰も見ていないとなればゴミ屋敷化まではせずとも、整理整頓は行き届きにくい。神社はいつ誰が訪れるかわからないが、誰かがやって来るので清掃をするというのではない。きれいな場所に保つことで心もきれいにするという考えで、その関係の間には、きれいにしなければ水や空気や汚れて疫病が発生しやすくなるとの、ごく合理的な考えがある。動物はどこで糞をするが、自分の寝床や巣の中ではしないだろう。あるいはその周辺を避ける。人間は自分の家だけではなく、聖なる空間を設ける特殊な動物で、日本ではそれが神社が担って来た。きれいに保つ空間に、現世の汚辱に敗れて無念の死を遂げた人の霊を祀ることは理にかなっていると思える。そうして死んだ人はいわばきれいな心を持っていたのであるから、それを本来清浄な場所である神社に祀ることで、神社はより聖なる存在として認識される。また、神社には普通は多くの樹木があるが、より自然に近いような環境を保つ考えは、アニミズムと八百万の神との結びつきが原点にあるだろう。そこで思うのは、五穀豊穣を願うことは、人間による自然の造り変えを意識したうえでの自然からの恵みをより多く期待する、悪く言えば人間優先の御つごう主義になりそうだが、そこにはまだ自然を畏怖する思いが前提にあって、土地から最大の収益を絞り取ろうとするアメリカのような大農業主義の考えはないだろう。何が言いたいかと言えば、上桂の御霊神社は、家並みに囲まれて不自然なところに今はあるが、それを伝えて行く限り、いつでも忘れかかった重要な何かを思い出す縁になり続けるということだ。だが、神社は永遠に同じ場所にあるとは限らず、時として廃れ、移転もさせられる。なるべくそんなことをさせないようにするには、境内に樹齢何百年という神木を植えることだ。それを撤去してまで現代的な何かを代わりに建てようとはよほどの覚悟のある者しか行なわないのではないか。それも金次第の世の中だが。
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by uuuzen | 2016-04-18 23:59 | ●神社の造形
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