カーテンは安物でも自然が造ったアジサイは立派と思って、先ほど写真を撮った。数日前の雨でわが家のアジサイの花が地面に向かって倒れ込み、ひどいものは茎が折れた。
そういったものの中から家内はましなものを切り取って生け花にした。それを見ながら食事すると気分がいい。今は合歓木の花も満開同然になっているが、地表から3メートルほどの高さに咲いているうえ、生け花には不向きだ。わが家に咲く花で生け花になるのはアジサイくらいで、今が最も部屋の中に自然が感じられる頃で、鬱陶しい雨もあまり気にならない。さて、ここ数日は気分を転換して仕事の新たな局面に臨むために苦労した。筆者は何か事を始める間に割合ぐずぐずする。やり始めると簡単なのだが、そのやり始める気になるのが大変だ。そういう時、まず整理整頓をする。だが、それをすることが大変で、気になりながらもぎりぎりまで腰を上げない。だが、それも昨夜までと決め、今朝は3階から1階に引っ越すことに決めた。去年は7月にそうしたと思う。調べると正確な日がわかると思うが、面倒だ。3階は夏場は猛烈に暑く、我慢強い筆者はクーラーなしでもそれに耐える自信はあるが、熱中症で死ぬ老人の年齢にそろそろ達していて、あまり無理をする必要はない。また3階の筆者の座り場所は、あまりにも左右や目の前に本などの資料が山積みになり、その整理が大変なのでそれを放置したまま1階に引っ越すことにした。だが、引っ越し場所にはまた物が溢れている。それを最初にどうにかしなければならない。そうして家内とふたりでその作業を始めたが、自治会の書類の山や本、その他のガラクタなど、すっかり取り除き、捨てるものは捨ててから、床を掃除した。それから3階のパソコンを1階に下ろし、去年はどのように配置したかなどと考えながら、去年とは違う配置にして一段落ついた。ようやくわが家で最も涼しい場所に陣取り、3階に比べて多少でも猛暑を感じずに仕事が出来る態勢が出来た。それで気分新たにこれを書き始めたが、そのきっかけはアジサイの写真を撮ったことによる。今日の最初の写真は筆者がこれを書く右手の窓際にある花瓶で、筆者の頭から30センチほどのところにアジサイの花がある。先に書いたように、雨に打たれて茎が折れたもので、そのままゴミにすることは偲びなく、生け花にし、また写真を撮ることにした。ガラスの花瓶は2年前であったか、京都市役所前で月一度開催されるフリー・マーケットで買ったものだ。いかにも昭和レトロで、赤と青と黄の3色が透明ガラスに縦方向に混じっている。その3色はそのままアジサイの色で、それで家内にその花瓶に花を活け直させた。先ほどまでは昔筆者が作ったベージュ色肌の陶製のビールのジョッキに活けていて、それでもよく似合っていたが、今日のような終日雨の天気では湿度が高く、ガラスの器の方が似合う。ともかく、パソコンを据え、新たな気分になれるひとつのきっかけとして、活けたアジサイを筆者の傍らに置いた。筆者が3階から引っ越し、またアジサイも植わっているところから筆者のすぐそばに引っ越し、これで新たな気分でまた仕事の新たな段階に突入することが出来そうだ。
昨日は都知事の辞任のニュースの号外が東京では出たが、都知事も引っ越しだ。選挙をするのにまた何十億円が必要というが、都民がそれを負担すべきという意見を昨日見かけた。筆者は先々代の知事が大嫌いで、そのような知事を選ぶ都民の民度も低いと思っていたが、先代もそして昨日辞任した知事も金の問題で辞め、都民は相変わらず変わっていない。アホな民衆にはアホな政治家が似合う。それだけの話で、また政治家はみな似たもので、ばれなければ何をしても平気と思う連中だ。そういうずる多少の賢さは、それなりに政治がうまく回っているのであれば目をつぶるべきとの考えも根強いし、それには一理あるかもしれない。細かいことをとやかく言って元も子もなくせば何にもならないとの考えだ。今回の騒動も、選挙でまた巨額が必要になることがわかっているのであれば、もっとどうにか方法がなかったかと思う。数十億円の無駄をしても、数百万の猫ババが許せないというのが果たして正義かということだ。都民が選んで引きずり下ろしたのであれば、都民がその数十億を賄うのは道理ではないか。だがそういう話はまず出ないし、出てもコンテンパに叩かれる。アジサイは青から赤、また白もあるが、ネット世論は一色に染まりやすい。誰もが赤だと大声で意見を言っている中、青と言おうものなら、攻撃されている人物と同類扱いされる。もう少し頭を冷やせと主張するとさらに激高の言葉が雨のように降り注ぐ。その裏返しは、とんでもない政治家が出て来ても大歓迎することで、ヒトラーのような人物は今の日本では活躍しやすいだろう。「公私混同した分は支払います、給料も返上します」というのであれば、ひとまずそれを飲んで、選挙に要する数十億の無駄を省く方が合理的とも言えるだろう。知事と同じことは大なり小なりほかの議員もしているはずで、また先々代の知事は週に2日しか都庁に出ないなど、もっと目にあまる行為をしたが、誰も文句を言わない。これは、人徳があるかないかの問題かもしれないが、強い者には目をつぶり、そうでないものは叩きのめすで、筆者は注目したいのは次の知事だ。その人は外国に行く時にはエコノミーを使ってもらい、また一泊一万円以下のビジネス・ホテルを利用してもらう。だが、大半の都民もマスコミもすぐに今回のことは忘れ、公私混同が多少あっても何も言わないに決まっている。これはやはり人徳の差によるのだろう。同じことをしても許される人とそうでない人がある。昨日の辞任の言葉には「わたくしの不徳のいたすところ…」という表現があったが、全くそのとおりで、苦学し東大に進み、学者から政治家になった野心家が、晩節を汚してしまった。これは人間的に魅力がなかったということでもあるだろう。どこか味のある才能と目されていたのであれば、そこを伸ばせばよかったのに、権力と金がほしかったようだ。権力があれば名声も高まり、また誰もが認めると勘違いしたのだが、頭はよく切れても人間的な温かみの欠けたのではないか。だが、そういう人物がいることは小学生時代に誰でも知る。勉強が出来ることと人間性のよさは全く別の話で、勉強の出来る者はそういうこともよく自覚しているはずなのに、大きな権力を握ると人間性が変わることがある。それは結局のところ最初から小物であったからで、頭のよさも高が知れているということだ。だが、しょせん政治家はそういう連中がなる。安泰と思っていた地位を失った後、さてどう身を処し、また金を儲けるか。この件については以前書いたように、僧侶になる道がある。髪が少ないようなので、それはより近道ではないか。心を入れ替えて人のためになる生き方をすることを望むなら、方法はある。人間は動物であるから、あちこち動く、つまり引っ越すのはよい。知事から全く別の何かにというのも、それはそれで楽しいではないか。アジサイの花でも見ながら、どうすれば味な才能で認められるかを考えればよい。さてさて、仕事のウオーミング・アップを済ませた。