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●神社の造形―榎木神社
が抜けたような「神社の造形」のカテゴリーへの投稿となるが、4日に投稿した堀川戎神社の境内にもうひとつの神社がある。堀川戎はその名のとおり、蛭子の神を祀るが、創建は6世紀後半とされる。



●神社の造形―榎木神社_d0053294_23452626.jpg

これまで訪れた神社でも最も古いもののひとつで、『延喜式』より250年ほど古く、式内神社が格があるとは言っておれないほどで、本当にそこまで遡れるのかと思う。それほどの長い歴史があるのは大阪の誇りで、それではなぜ鳥居の前に高速道路で遮ったのかと思う。もっとも、経済第一主義の大阪では、また商売繁盛の御利益があるこの神社では、そういうことはあまり関係ないと思っているかもしれない。それはともかく、8世紀初頭には三神を祀るようになり、平治の乱で一時期丹波に遷座したが、その後現在の地に戻り、江戸中期には大いに賑わったとされる。明治末期に数社をまとめて堀川神社となり、戦争で本殿は焼けたが、昭和38年に現在の本殿を建てた。日本の海辺の村には蛭子を祀る神社が多く、これは大漁を願うためと考えられるが、蛭子は海の向こうからやって来る幸運の神様で、これは狭い意味に捉えれば海に囲まれた日本が周辺の異国から文化を摂取したことを意味するだろう。現在の堀川戎の地はかつては海に面していたか、それにきわめて近かったはずだ。それがいつ頃までの姿かとなると、創建された飛鳥時代と考えられるが、その頃の浪速がどういう地形であったとなると、去年大阪歴史博物館で購入した展覧会図録が役立つ。『水都大阪と淀川』展で、平成22年に開催されている。筆者はそれを見ていないが、売店で見かけた図録が面白かったので買った。また同展の資料はその後の展覧会でも紹介され、それらを見ている筆者はその図録の内容に馴染みがあった。その図録の「古代・中世の淀川」と題する第2章に3枚の図版が載る。大阪平野がどのように変化して来たかの写真を使っての想像図だ。それと同じものを去年秋に同じ大阪歴史博物館で見た。少し紹介すると、縄文時代中期の大阪は、上町台地だけが大阪湾に半島のように南から北へと突き出ていた。そしてその西は大阪湾、西は河内湾で、現在の大阪市の東部や東大阪市はすべて海の底にあった。河内湾は北の淀川と南の大和川が運ぶ土砂によって少しずつ北と南から地面が出来て、古墳時代中期から後期には河内湾は河内湖となった。それが1500年ほど前の姿で、ま、飛鳥時代も似た状態であったろう。そして河内湖の範囲だが、それを現在の地図と重ね合わせた図版があればいいのだが、それはないので推定すると、現在の北区つまり堀川戎のある一帯はすでに水面ではない。だが、湖につながる川が何本かあり、そのひとつに沿って堀川戎があったと考えられる。「堀川」は川を掘ったとの意味で、16世紀に古代からあった川を利用して運河として整えたのではないか。おそらくその畔にこの神社があった。いずれにせよ、本殿前の大鳥居の前は川であったはずで、それが今は高速道路になっているのは、大阪が戦後の高度成長期に川を埋め立ててどんどん道路にしたことによる。それはこの神社の東側だけに限らず、大阪市全体で行なわれ、大きな道路としては高速道路が考えられた。つまり、この神社の前の高速道路はかつては船運に利用された整備された川と同じ意味合いを持つ。ただし、景観はまるで駄目で、あまりに醜悪だ。
●神社の造形―榎木神社_d0053294_23453963.jpg

 榎木神社は今日の最初の写真からわかるように、本殿前の大鳥居をくぐってすぐの北にあるが、境内の東端に少し窮屈そうだ。この神社は地車(だんじり)神社とも呼ばれ、本殿が地車の形をしている。ただし、車輪はついていないようだ。また今日の写真からは奥が暗過ぎてその様子はわからない。本殿には地車の小さな模型がずらりと奉納されているとのことで、それはどこで売られているのだろう。授与品としては数匹の狸が地車を曳く絵柄の絵馬が売られているが、地車の小型の模型はなさそうだ。あれば社務所で売られるはずだが、製造者がいなくなれば廃絶するしかない。木製と思うが、そうであれば郷土玩具としても知られて来たと思える。また、造りにもよるが、「松江のお宮」程度の大きさであれば、価格は2000円以上するだろう。どういう形でどういう彩色具合か実物を見たいが、地車型の本殿を捉えた写真からは、赤と白と黒の3色のようで、それならば「松江のお宮」と同じだ。さて、榎木神社は朱色の鳥居で稲荷系の神を祀る。明治末期に堀川戎に合祀されたが、この神社が出来たのは江戸末期で、堀川がさらに掘削されて現在の大川につながったことによる。ではこの神社はどこにあったかだが、堀川が掘り留められていた横に榎木の大木があり、そこに霊が宿ると人々は考え、小さな祠を造って祀っていた。掘り留めの場所は現在の地から200メートルほど北で、そこから北西つまり、斜めに運河を延長して掘り、淀川(大川)につないだ。その時幕府は榎木神社の設立を命じたというが、榎木の大木を切ったからかもしれない。祟りを恐れて神社を造ることはよくある。その江戸末期に開削された堀川は地図で確認すると、やはり現在は阪神高速道路になっている。川の底にトンネルを掘ればよかったと思うが、工事費節約のためには高架にするしかない。それはさておき、なぜ掘り留めから北西へと開削したかだが、大塩平八郎の乱でこの地域が大きな被害を受け、救民のために幕府は仕事を作った。せっかく掘った運河も100年少々でまた埋戻し、その上に高速道路を造ったが、それは救民のためとは言えない。適当に撮影した神社について投稿するとなると、いろんなことがわかる。今日の2枚目の写真は高速道路の下から堀川戎の本殿を臨むが、榎木神社は鳥居の右手に前面が見えている。手前に見えるのは家内だ。写真が暗いのは高速道路が空を遮っているからだ。
by uuuzen | 2016-04-16 23:59 | ●神社の造形
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