ニュースと言えるほどの目立った出来事ではないが、近場であっても初めて訪れる土地は印象深く、その分よく記憶している。それでこうして5か月経っても思い出を書くことが出来る。

とはいえ、5か月も経つとニュースとは言えない。去年10月19日は阪急高槻駅で下りてJR高槻駅方面に向かい、「がんこ寿司」店で家内と昼を食べたが、前日に地図を印刷し、今城塚古墳とその周辺の神社の位置を確認しておいた。とはいえ、それはあまり役立たなかった。地図があっても道に迷うとは筆者は救いようのない方向音痴だ。陽射しから方角が確認出来そうなものなのに、目的地へ急ぐあまり、また自分の勘を信頼するあまり、全然違う方向に行ってしまう。昨日取り上げた素盞嗚尊神社から400メートルほど真西に今城塚古墳があるのに、筆者は今日の最初の写真を撮った後、その写真の奥へと走った。それは正しいのだが、ひたすら西へ向かえばいいものを、地図を確認せず、途中で左に曲がり、そして直進した。後からやって来る家内は小学生の時に大阪市内から高槻に住むようになったが、芥川から西方面は全く土地勘がない。それでどこをどう走っているのかわからないから、筆者が道に迷っていてそれがわからず、文句を言わない。今地図を確認すると、素盞嗚尊神社から西100メートルほどの四辻で南下し、また西国街道に入った。そして西へ進んだのは正解だが、しばらく筆者はそれが西国街道とは気づかなかった。ところが急にデジャヴ感が襲った。「先に同じ道を走ったな」という思いだ。実際はそうではないのだが、西国街道はどこに似た雰囲気ということだ。これは実際にそのとおりで、大山崎の西国街道も共通した雰囲気がある。またデジャヴ感を覚えたのは、ところどころに古い家並みがあり、道幅もほとんど同じで、適当に曲がりくねっているということのほかに、何と言っても陽射しだ。その傾きが素盞嗚尊神社に行く前に駅近くから走った西国街道のそれと同じで、そのことで西国街道と気づき、それと同時に道を間違ったことを悟った。家内もそうで、筆者に近づいた時、「これ、西国街道と違うのん」と言った。遠回りにはなるが、全体的な方向は間違っていないので、筆者はそれにまともに答えず、地図を見ながら「もう少しや」と言った。記憶が曖昧だが、古墳の南辺沿いの道ではなく、西国街道を真っ直ぐ進み、川に突き当たった後にその川沿いの道を北進したような気がする。つまり遠回りだ。それでも自転車であるので多少遠回りでも苦にならない。ようやく古墳の周囲を走っていることに気づき、ぐるりと時計周りに回って古墳の北西角から古墳内の公園に入った。その後のことや撮った写真は去年12月13から15日に載せた。古墳の外観や埴輪を見た後、資料展示室に向かうと休館日で、せっかく来たのに筆者の下調べが悪いと家内は文句を言った。仕方がないので、次の目的地に向かった。それが白山神社だ。

さきほど調べると日本全国に同じ名前の神社は2700もあるという。大阪では多いのかどうかだが、白山信仰で思い出すのは池大雅だ。白山に登ったことがあって、江戸時代の京都では白山信仰がそれなりに盛んであったのだろう。筆者は登山に全く関心がないので、もちろん地図で調べるまでこの神社が高槻にあることは知らなかった。古墳の近くにあればどんな神社でもよいと思って丸印をつけておいただけのことだが、それも何かの縁と思えばそれなりに未知の場所に行く用事が出来てちょっとした探索気分だ。家内はいい迷惑かもしれないが、文句を言いながらでも就いて来る。高槻市内は神戸ほどではないが、JRの線路から北はすぐに山が迫る。そのため、北に向かうと上り坂だ。当然自転車を漕ぐのはしんどい。それで家内はますます文句を言い、白山神社のある山手に向かった時、筆者は振り返ると家内は自転車から降りてこちらを睨んでいた。「こんな坂道を上れと言うのか」といった顔だ。実際白山神社は地図で見ると名神高速道路のすぐ下で、坂は急に角度が大きくなる。名神高速道路に向かって行き止まりという場所で、高速道路を造る時にその神社を避けるのに往生したのではないか。あるいは神社の境内を一部削ったかもしれない。というのは、訪れてはいないが、500メートル西に、今度は高速道路のすぐ北側に闘鶏野神社があり、そのふたつの神社を実にうまく避けながら高速道路は走っている。直進すれば闘鶏野神社にぶつかるので、少し南寄りに造ったようで、1キロ先には茶臼山古墳があるから、そこにぶつかるほどのカーヴでも具合が悪い。それはともかく、高速道路のために高槻はそれ以南と以北とが分断された。下にトンネルはそれなりに掘られたはずでも、高速道路がなかった時代に比べれば南北の往来は不便になったはずで、筆者も高速道路を越えて北の神社までとは全く考えなかった。北側はニュータウンで、それらは高速道路が出来た後に開発されたと思うが、神社はそもそも少ないかもしれない。ともかく、車がなくては生活出来ない地域で、神社探索のためにそこまで入り込むつもりはない。白山神社付近も比較的新しい開発地域のようで、民家は密集し、古いものと言えば神社しかないが、何せ坂の上のしかも長い階段を上がったところに祠があるので、地元住民はほとんど訪れないだろう。白山信仰となればなおのこと馴染みはないであろうが、そう思えばこの神社はどのようにして経済が成り立っているのかと思う。

今日の2枚目の写真に自転車は写っていないが、停めたのはずっと下の石段が始まる道路際だ。そこは神社を訪れる人しか歩かない場所で、鍵をかけなくても盗まれる心配はない。そう判断して筆者はひとりで写真撮影のために急いだ。最初の写真の奥の鳥居をくぐると、正面の拝殿らしき建物の左手にまた細い石段があった。そこで撮ったのが3枚目で、そのてっぺんで撮ったのが4枚目で、そこには小さな祠があった。名前がどこにもなく、この祠が何の神社のものであるかは不明だ。2枚目の写真の鳥居の奥の建物が拝殿と本殿であるはずで、さらに上にあるこの小さな祠はまた別の神様を祀るのではないか。すぐ背後が崖で、その上は高速道路だ。工事中はどのような具合であったのか。工事中はこの祠は撤去され、工事が終わって据え直されたのではないか。右の燈籠に西日が差しているので、高速道路は陽射しの邪魔をあまりしていないのかもしれない。また高速道路の防音は完璧に行なわれているようで、全く車の音はしなかった。トラックが高速で走るとそれなりに低音が下まで響くように思うが、この神社の境内は静まり返っていた。またこの小さな祠のある場所はとても狭く、光のある間はいいが、夕方には陰鬱な感じがして人は近づかないだろう。神社のと言う在は民家が密集するが、等高線に沿ったように整然と区画された道からして、高速道路が出来た後の新しい町だ。ということは神社はもっと広かったかもしれない。土地を売った金で神社は維持出来るだろう。この神社の少し西に大きな道が南北を貫き、その道の西が氷室町だ。その名前からわかるように、昔は氷室が造られるほどに年中日陰になる場所があるのだろう。氷室町に知り合いが住むが、住所録を調べると2丁目だ。今城塚古墳に至るまでの西国街道を走っていると、氷室町の表示があった。そこでその知り合いを思い出したが、筆者が氷室町を訪れるのは初めてのことで、さっぱり土地勘がない。地図は印刷したが、道に迷ったため、まさか氷室町を自転車で走るとは想像していなかった。氷室町2丁目は今城塚古墳の西200メートルで、筆者らはそこを自転車で走らなかった。芥川ほど太くはないが、同じように市内を北から南へと流れる川が今城塚古墳の西南端に接していて、その川の左岸を北上して古墳公園に至ったことは先に書いた。そして白山神社も左岸側にあり、筆者は氷室町2丁目のある右岸には入り込まなかった。それでもそこがどういう雰囲気かは多少は想像出来る。そう言えばその知人に今年の年賀状で「去年の秋に初めて氷室町近くを少し自転車で走りました」と、新しくもないニュースを書くことを忘れた。