Z級にオンボロな自転車でも乗り慣れたものの方がよい。あばら家であってもわが家が落ち着くのと同じだ。さて、今日から3日間は去年10月19日に高槻で撮った神社を紹介する。

ヤフーの地図を印刷して持参し、阪急の高槻駅前から散歩のつもりで歩いて行くつもりであったが、歩き始めると貸し自転車屋を見つけた。2人乗りのタンデムでもあればそれにしたが、全部同じ形のひとり乗り用で、しかもハンドルは横一文字でこれが家内には慣れなかった。家内はサドルをかなり下げてもらったが、それでもかなりバランスが悪かったらしい。筆者はドロップ・ハンドルの自転車に乗っているかのように尻を高く上げ、胸は地面と平行という姿になったが、走っている間に慣れた。去年12月13日から3日連続で同じ日に訪れた
「今城塚古墳」について投稿したが、今日の神社は同古墳に行く前、明日と明後日に書く神社は見た後という順序で、また自転車を運転している間に見かけた飛び出しボーヤについては後日書く。同じ日の写真をこのように5か月もかかってばらばらに投稿するのは本意ではないが、ま、仕方がない。古墳の投稿でも書いたが、当日は家内の誕生日であった。高槻の「がんこ寿司」から家内宛てによく案内状が届き、そこに誕生日には何かプレゼントがあると書いてあった。それ目当てでもないが、久しぶりに同店に行くことにし、またその昼食後は時間がたっぷりあるので、筆者は行ったことのない高槻市内の神社をいくつか見て回ることにした。ただしそのことは家内に言わない。阪急高槻駅に着いた時、今城塚古墳の宣伝があった。それでなおさら古墳見学の気分が高まった。「がんこ寿司」で食べた後、すぐ近くの民藝店が閉店セールをしていて、そこでまず少々時間を潰し、古墳や神社を見て回り、自転車を返却した後、またその民藝店に訪れ、同じように20分ほど店主と話した。そのことも今城塚古墳の投稿に書いたが、その後同店の前を歩いていないので、どうなっているのかは知らない。気になることがひとつあるが、店に誰もいないとなると、店主とは連絡が取れない。さて、高槻に立派に整備された古墳公園があることはTVでも見たことがあるが、たとえば堺にまで出かけなくても古墳やまた復元された埴輪群が見られることはなかなか面白い。今城塚古墳は阪急高槻駅から真西に3キロで、徒歩で往復すれば散歩にちょうどよい距離だが、歩いたことのない道であれば長く感じるし、また家内はそのような距離を歩くと筆者が言えば絶対について来ない。ともかく、貸し自転車屋が見つかったことは幸運であった。選んだ道が違っていれば歩く羽目になった。今地図を確認すると、今城塚古墳の西1.5キロにやや小さめの茶臼山古墳がある。どちらも西国街道沿いの北側で、この西国街道は古墳時代からあることが想像される。そう言えば家内の兄は娘と一緒にこの街道を自転車で高槻から嵐山まで往復したことがあり、それが何となく羨ましい筆者はいつか逆に嵐山から高槻まで自転車で往復したいと思っているが、家内の自転車はZ級のオンボロなので、まずそれをどうにかしないことには筆者ひとりで出かけねばならない。西国街道は高槻から西へは箕面まで続いているが、さすがそこまでは行く気にはなれない。だが阪急電車を利用すれば高槻から箕面までは、まず大阪に出てそこから乗り換えるが、そのために箕面はかなり遠方の気がしているが、地図で西国街道を見ると高槻からすぐのような感じで、実際そうなのだろう。電車は便利なようで、周辺から周辺を結ぶ路線はなく、中心部に一旦出てまた外に向かわねばならず、時間も金もかかるようになっている。

高槻市内を南北に芥川が走り、南方の淀川に注いでいることは知っていたが、芥川の流れをまともに見たことはない。最初に入った設計会社の隣りの課の数歳年長の上司が結婚して新居を芥川のすぐ近くにかまえ、そこに一度だけ行ったことがあるが、40年ほど前のことであり、どこであったかわからない。JR高槻駅から西に芥川があるのでそこまで歩いたのは確かで、また川のすぐそばであった。とはいえ、その時も川の流れをしげしげとは見つめていない。その流れを今回すなわち去年10月19日に初めて見た。川沿いをしばし自転車で走ったからだ。そして、どこであったか記憶にないが、その川沿いに桜並木があって、それが有名であることを知った。貸し自転車屋はJR高槻駅の南端際にあり、そこから地図片手にまずは今日書く神社に向かった。それには同店から細い道を北上し、西国街道に突き当たり、それを西へと進む。その突き当たった場所の右手に郵便局があり、そこから300メートルほど北の西側のマンションに10年ほどになるか、ある人を訪ねたことがある。JR高槻駅北側で筆者が歩いたことのあるのはそこと、そこから西北の真上町の4丁目だが、駅前からバスに乗ったので歩いたことにはならない。地図で真上町の南に芥川が流れていることを今知ったが、今城塚古墳や筆者が同じ日に訪れた神社は、東は芥川、南は西国街道、北は名神高速、西は茨木市の境界に囲まれた範囲で、田畑が残るのどかなところだ。古墳があるからにはそれも当然かもしれない。芥川の右岸側は川の西なので川西町という名がついているが、そこから西は郡家(ぐんげ)という地名で、今城塚古墳もそこにある。「郡」は奈良時代のそれで、素盞嗚尊神社は鳥居の扁額に「神郡社」とあり、当初はそのように呼ばれ、また郡寺が廃されて神社が建ったという。同寺は芥川廃寺跡として土器など瓦などが出土している。同じように白鳳時代の遺跡が高槻にはほかにあるのかどうかだが、西国街道沿いの古墳近いこの郡家が代表格ではないだろうか。この神社は田畑の真ん中にぽつんとあって、すぐ東に大きな道路が走っているが、その歩道を自転車で走るのは何とも殺風景で、高槻駅前の喧噪が嘘のようだ。いわば日本中どこにでもあるような田舎の車道際の田畑で、そこに素盞嗚尊という何とも立派な名前の神社が忘れられたようにある。今後も神社周辺の田畑に民家などが建て込まなければいいが、道路沿いに大きな建物があるので、30年後、50年後はわからない。

ネットで調べると、スサノオノミコトを祀る神社は各地にある。そして牛頭天王を祀り、祇園の八坂神社が総本社という。スサノオと言えばヤマタノオロチ退治の物語を子どもの頃に絵本や漫画で知ったが、それが牛頭天王とどういう関係があるかと言えば、神仏習合による。神社の以前に寺が建っていたというのであるから、仏教の守護神を日本の神になぞらえたのだろう。今日の最初の写真は正面に拝殿を捉えるが、西日によって鳥居が逆光になっている。この鳥居は真東を向く。3枚目は最初の写真の鳥居の奥、左手に見える小さ目の鳥居だが、2枚目の鳥居はそれらとは違うもので、狭い境内に3つもある。しかも石燈籠も多い。3枚目の向こうに緑色のフェンスが見えるのは川西小学校だ。本殿は拝殿の奥にあって見えず、また本殿背後はかなり背の高い樹木が鎮守の森の雰囲気で並ぶ。このちょっとした森のたたずまいによって遠目からでも神社だとわかるが、小学校からは車道を挟み、また建て込む住宅地は南に200メートルほど離れ、この神社にはほとんど人が立ち寄らないのではないか。嵯峨の広沢池西方の田畑が広がる地域を思い出させるが、高槻にこのような古代からそのままのような場所があることは意外であった。3枚目の鳥居前の細長い立て看板の文字が読み取れないが、不良が集まって悪さをするにも四方から丸見えといった感じで、地元の人たちにどれほど知られているのかと思う。これが朱塗りの鳥居で商売繁盛の神でも祀れば人は集まるだろうが、スサノオノミコトといっても今はぴんと来ない人が多いのではないか。神社は山手にあればどこか陰鬱で近寄り難く、また町中にあればせせこましくて拝みたい気になりにくいのに対し、この神社は朱色が多くて派手な京都の八坂神社と違って幟旗も立てず、その地味さがよい。まるで無人の野菜売り場のようなそのたたずまいに、初詣客があるのか、また祭りはどうか、それに世話する地元住民がいるのかなど、あれこれ思わせられる。この神社を含めて一帯は国の史跡となっているそうで、田畑は今後もそのままであろう。また社殿がZ級のオンボロになれば、その修理は国が行なうのだろうか。考え始めるとわからないことだらけだ。