反対して自分の住まいに戻るかと思うと、素直に息子は筆者の意見にしたがった。去年10月14日のことだ。昼を家族3人で食べた後、御香宮を訪れ、その足で筆者はさらに東の乃木神社に行く計画を立てていた。

息子はてっきり就いて来ないかと思うと、予定はないので一緒に行くと言う。それで大手筋通りを3人で東へと向かった。その果ては桃山御陵で明治天皇が眠る。そのすぐ南に乃木神社はあるが、場所としてはそこ以外に考えられない。乃木神社のホームページによれば、皇族の土地であったという。それが乃木神社用に払い下げられたのは、乃木将軍の神社を造るという民家の意志が認められたからだ。明治天皇は伏見桃山に陵を造ることを遺言としたが、生まれ故郷の京都、しかも秀吉が城を築いた伏見桃山に眠りたいと思ったのはどういう理由からか。京都が懐かしかったとしても、京都にはほかにも同様の小高い山はあるのに、伏見桃山というのは何か特別の理由があるのだろうか。それを考えると、五山の禅寺がまずあり、京都盆地を取り囲む山辺はなかなか寺社仏閣の密集地帯であるし、もっと静かなところとなると伏見桃山くらいしかないように思える。御陵なので神社よりも訪れる人は少ないだろう。先日書いたように筆者は10年ほど前にこの御陵に連なる森の中の道を歩いたことがあるが、途中で右に折れる道があり、そこを進んだように記憶する。そして乃木神社の手前でまた左折して東に向かったと思う。つまり、御陵前の長い階段の下にまでは至らなかった。今回もそうであったが、最初から乃木神社を訪れるつもりであったからだ。御陵というのは何となく接近することも憚られるような気がするが、河原町三条近くの書店の窓ガラスに歴代の天皇陵の位置を記した地図が貼ってあったと思う。京都ではほかにもそれを売る書店があるが、今でもその地図を片手に京都にあるすべての陵を訪れる人はいるだろう。また、どの天皇の陵も伏見桃山御陵と同じように大きいかと言えば、明治天皇や昭和天皇は別格ではないか。特に明治天皇の場合は山全体と言ってよく、それと同じ調子で今後の天皇の陵墓が造られて行くのであれば、いずれ適当な場所は枯渇するだろう。その意味で天皇が京都から東京に移ったことはよかったのかもしれない。狭い京都ではもはや伏見桃山御陵規模の適当な場所を探すことは難しい。西山ならありそうだが、もちろんそこにも天皇陵はある。その点、東京周辺ならまだまだ場所は探せるだろう。だが、現在の天皇はあまり大きな陵墓は望まず、今後はそれに倣って天皇陵は小さくなりそうだ。

伏見桃山は高級住宅地と聞いたが、まだ密集していない地域はある。今後は住宅地として利用され得る土地はどこも家が建つとして、自然保護の観点からもそういう開発がなされない区域があってしかるべきだ。それが天皇陵であることはひとつの理想的な手段で、あまり人が訪れない広大な場所はあるべきではないか。どこもかしこも民家だらけというのは味気ないものだ。筆者は伏見の隅々までは知らないが、伏見桃山は東の山手で、また全体にそこがひっそりとした森であるという雰囲気であることには何となく落ち着いたいい雰囲気を思い浮かべる。その山手がたとえば枚方の山辺と同じように段々畑状に民家が密集しているように見えるならば、もう伏見の魅力はないとさえ思う。大手筋商店街はその山手からはかなり低いが、そこが人の多く集まる場所であり、また山手に高級住宅地が密集するとなれば、全体として金持ちの住む山手と庶民の下町という図式が出来上がるが、伏見桃山御陵がある限り、現在も今後もそういう対比は鮮明にはならない。確かに山手には大きな家が多く、そういう住民は大手筋商店街界隈の庶民より家柄がよく、経済力もあるはずだが、それでも山のてっぺん、つまり御陵のある場所は緑で覆われているので、山の下に住む庶民は金持ちから見下されている思いをさほど感じない。つまり、天皇の前ではみな庶民ということだ。そういう効果から天皇が存続しているのではないが、そういう効果はやはりあるだろう。金をたくさん持った者が勝ちという価値観が大手を振る時代だが、それだけでは尊敬されないという現実を天皇が象徴している。そういう家柄は金ではどうにもならないもので、それで庶民はせめて金を誰よりも多くほしいと思うのかもしれないが、乃木神社を考えると人の価値は結局人柄ということを知る。では乃木希典は平民の出であったかと言えば、先祖は天皇の血を引くそうで、それを知ると、「やはり血筋が物を言う」と白ける人があるかもしれないが、天皇の血を引く人がみな神として崇められるかと言えば全くそうではない。乃木大将夫妻が祀られるのは、その人柄と行為による。乃木神社は日本各地にあるが、この伏見桃山御陵の南の麓にあるものは大正時代に出来た。先ほど同神社のホームページを見て知ったが、九州出身で関西の財界人であった村野山人が京阪電鉄の代表として明治天皇の葬儀に出席し、その翌日に乃木夫妻が殉死したことに衝撃を受け、私財を投げ売って現在の地に神社を造ることを決心した。乃木夫妻の死はそれほどに日本中に大きな驚きをもたらしたが、その殉死があったために夫妻が神格化されたのは事実として、やはり生前の乃木将軍の人格がよかったためだ。それを人格者と言うが、その点で並はずれていたと誰もが認めていたのだろう。そういう人はたまにいるが、残念ながら社会的地位にふさわしい人格者であることは稀ではないだろうか。その点、村野山人という人物も途方もない人格者と言うべきかもしれない。金より大切なものがあると、今の財界人のどれほどが考えているだろう。

一番大切なのは命、その次が金と、今ではあたりまえのように誰もが口にするが、筆者はその表現にいつも違和感を覚える。では命も金も惜しくないのかと言われると、確かに惜しいが、それだけがあればどのような人生を送ってもいいのかとなると違うと言いたい。殉死という言葉は今は死語となっているが、それは殉死したいと思わせる崇高な対象がないからだ。だが、ないのではなく、見つけようとしないからだ。それでだらだらと生きて、金だけを誰よりも多く集めようとする。乃木夫妻は質素な生活を旨としたらしい。そうであったろう。それは吝嗇というのではない。無駄は省くという考えは、美に対する強い意識だ。また、殉死というのもその最も強烈なものがあってのことで、明治天皇の崩御の後を追うというその行為は、命という誰もが最も大切に思うもの以上の何かをきっぱりと断つという、いかにも軍人、昔で言えば武士の鑑と言ってよい行為で、そういうものがまだこの世にあるのかという驚きを村野山人を初めとする当時の人々にもたらした。同じような激しさは三島由紀夫の死にもあったが、命を自ら捨てるという美意志は、何よりも大切なものが命で、その次に金という、現在の風潮からすれば狂気でしかも馬鹿げたものと見る人が多いかもしれない。また一方では自殺者は増加していて、命が軽んじられてもいるが、乃木希典や三島由紀夫はリストカットを繰り返して自殺する若者と同じように生に絶望して自殺したかと言えば、それは少し違うだろう。一番大切なものが命とは思っていなかったということだ。人間は絶対にいつか死ぬし、また軍人であればいつ死んでもかまわないとの意識を持たねばならないが、そうであれば死は恐くなく、いつ死ぬべきかが最重要事になる。自殺を演出すると言えば語弊があるかもしれないが、いつどういう形で死ぬことが最もふさわしいかを考え続けながら生きることは、大きな美意識、自意識を持ってのことで、そこには他者の目を意識した思いが見え透き、その点で乃木希典や三島の死を肯定しない人は少なくないだろう。だが、何か大きなことを成し遂げた人物には強い美意識があり、それに突き動かされて自殺を選ぶことは、一種の特権で、大多数の凡人には望み得るものではない。つまり、リストカットして自殺してしまう人物の死とは同じではない。同じ自殺でありながら、乃木夫妻は神として祀られ、無名の人は何も残らない。不公平かもしれないが、人間とはそのようなもので、人格や才能によって死んでも差がある。

さて、写真を少し説明する。1枚目は神門という。西向きに建っている。筆者らは大手筋商店街を東に歩き、JR奈良線の線路を越えて最初の信号を直進せず、右に折れた。すると線路沿いの住宅地に紛れ込み、そのまま進むと坂を上ったり下ったりしながらやがて右手に小学校が見えた。どの小学校も似た雰囲気だが、その道からは校舎が間近に迫り、外に出ている児童や先生の姿を何人も見かけた。地元住民しか通らないような狭い道で、サングラスをかけていた筆者は不審者と思われたかもしれない。小学校の敷地の端に至ると、目の前に道が横切っている。そこに出ると真正面が神社だ。表門は左つまり北へ少し行くとある。神門はかなり立派で、樹齢3000年の台湾檜で造られた。装飾がないところが軍人の乃木さんにはふさわしい。神門をくぐると、境内は南北に細長く、南に向かって歩く。奥の拝殿に至るまでに2枚目の写真の「さざれ石」があった。よく神社で見かけるものだ。乃木神社のホームページによれば伏見桃山御陵の墳丘は「さざれ石」で葺かれているという。ちょっと想像しにくいが、瓦のような厚みに削ったのであろうか。また墳丘全体となると、それほどの大量をどこから調達したのだろう。雨ざらしであり、またこの写真のように全体は灰色のはずで、グーグル・アースではその様子が見えるのではないか。そう思って今確認すると、確かに円形の御椀状の墳墓全体が灰色で、またその土台は前方後円形でやや色のうすい灰色となっている。3枚目の写真は拝殿で、その奥の南に本殿がある。それを写すには拝殿の右端に見える馬の銅像辺りに立てばよいが、本殿の背丈は高く、広めの敷地に建ち、また背後に現代の建物が全く見えず、空が大きく感じられる。その分、南から台風の風でもあると、被害を受けやすいように思うが、そこは充分考えられて建てられたであろう。本殿は北の御陵を向いているが、厳密には墳墓を向かない。もう少し東向きに建てればよかった気もするが、敷地の具合からそれは難しかったのだろう。4枚目は小さな家に等身大の像が3体置かれ、これが乃木将軍の子ども時代の家であることは誰にも想像出来る。藩士の機嫌を損ねて禄を半減、蟄居が命じられて山口県の足軽の家を借りて一家は住んだが、希典は幼ない妹に泣かされるほどの気弱で、父はそういう息子に毎朝家訓を教えることで精神の鍛練を図った。その様子を表現したのが3体の像で、これを彫ったのは希典の甥とのことだ。扉のない展示で、雨風で内部が風化しないか心配だが、夜には何かで覆っているのであろうか。5枚目は御香宮にもあった大きな蘇鉄の植え込みで、陽当たりのよい場所なので、今後ますます大きくなりそうだ。家内の帽子が中央に写り込んでしまった。