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●『魅惑の17-19世紀 フランス絵画展』
副題は「南仏モンペリエ ファーブル美術館所蔵展」だ。いずれにしても月並みで長い名称であるから、印象にややうすい。そのためか、目玉作品として、チラシやチケットにはクールベの有名な「こんにちはクールベさん」が大きく印刷されている。



●『魅惑の17-19世紀 フランス絵画展』_d0053294_19432775.jpg『吉原治良展』をじっくり見た後、ATCミュージアムのあるワールド・トレード・センター内のレストラン街を見て回り、適当な店を見つけて遅めの昼食を取った。その後、ニュートラムと地下鉄で元の難波方面には戻らず、ぐるりと南港を一周して住之江駅まで行き、そこから地下鉄に乗り継いでこの展覧会が開催されている天王寺に出た。ニュートラムを全線乗ったことになるが、地上からかなり高いところを走るので見晴らしがよい。高層アパートが林立し、樹木が紅葉していた。ニュートラムでこのように一周したのはもう十数年ぶりだ。当時、ある人を見送りにフェリー乗り場に行った。埠頭からバスがなく、タクシーを利用するしかなかったが、このタクシーの運転手がヤクザ紛いの人物で困った。それでもどうにか最寄りのニュートラムの駅まで運んでもらったが、ふとそんな昔のいやなことを思い出した。それに住之江は競艇で有名で、ニュートラムからは広大な競艇場が見えた。これはもっと昔だが、家内や友人と住之江の駅の階段をのぼっている時、前からやって来た男が家内(当時はまだ結婚していない)のおっぱいを鷲づかみにした。キャッという声がして、何事かと振り返ったが、事情を聞いた時には、その痴漢は競艇場に向かうたくさんの男たちに紛れて姿が見えなくなっていた。このように住之江は全くろくな記憶がない。それはさておき、予想以上に天王寺に出るのに時間を要し、駅に着く頃には4時15分を過ぎていた。それからほとんど駆け足で市立美術館に急いだが、会場に入ったのは4時半ちょうどで、閉館まで30分しかなかった。たった30分ではろくな鑑賞は出来ないので、館内に入った時には、「12月25日までまだ1か月以上あるので、もう一度見よう」と決心していた。京都からわざわざ2時間もかかって天王寺にまで同じ展覧会を見るために二度訪れるのは、よほど暇な人間であることを証明しているが、この展覧会だけではなく、別のものを見るついでに来ればよい。だが、いつもそのついでがよくないようだ。吉原治良展の会場、あるいはレストランをもう少し早く出ていれば、30分が40分か50分に増えたはずだが、もう仕方がない。図録は買わなかったので、以下に書くことは簡単な感想だ。
 まず、チラシ裏面を確認しておくと、「ファーブル美術館は画家フランソワ=グザヴィエ・ファーブル(1766-1837)のコレクションをもとに1828年に開館した美術館です。その後もクールベの後継者として有名なアルフレッド・ブリュイアス(1821-1899)をはじめ寄贈者に恵まれ、フランス美術を中心に充実した収蔵品を誇ります。本展覧会は同館の至宝であり日本初公開となるギュターヴ・クールベ(1819-1877)の代表作「出会い、こんにちはクールベさん」を含む6点のクールベ作品をはじめ、プッサン、ダヴィッド、ドラクロワ、カバネル、コロー、ミレー、バジール、マティスなど17世紀から19世紀にかけてのフランス絵画90点を展示し、知られざるファーブル美術館の魅力を紹介いたします」とある。ファーブル美術館は日本では馴染みがない。老朽化のため改装中で、その間にコレクションを海外に巡回することになったそうだ。また、南仏を訪れる日本人観光客にモンペリエに来てもらいたいという思いも見える。南仏はパック・ツアーでも人気の場所だが、地中海にほぼ面していると言ってよいモンペリエは、東100キロほどのマルセイユや、さらに東のニースほどの知名度はない。マルセイユやニースはイタリアとの国境近いプロヴァンス=コートダジュール地方でヴァカンスの地として有名だが、そのすぐ西隣のモンペリエを最大の都市とするラングドッグ地方は、『朝日百科「世界の地理」』によれば、多少の例外は除いて、同じ地中海沿岸を持つとしても蚊やブヨが多く、ほとんど人の寄りつかない場所であった。160キロにわたる海岸をもうひとつのコートダジュールにする国家計画が1960年代に持ち上がり、その結果、自然保護区とは完全に切り離された地区に海水浴場や宿泊施設など、斬新なデザインの建物が何もなかった海岸に未来都市のように出現した。日本から海水浴に訪れる人がモンペリエに立ち寄り、そして美術館を訪れることは充分に考えられる。そしてそんな時のための理解の一助として今回の展覧会は機能していると言える。
 油彩画90点の出品はそう多くないようだが、説明を読んだり、また人混みを考えると、1点1分を費やしても1時間半かかる。30分では1点20秒しか見られない計算だが、次の絵に移動したり、メモを取るを時間を引くと、1点10秒ほどか。絵はぱっと見ればわかるというものかもしれないが、今回のように大きくてしかも緻密に描いた絵が多い場合、たった10秒で絵の全部が把握し切れるはずがない。ところで、近年の展覧会は必ずセクション割りがあって、単に絵を見せるのではなく、その絵が歴史的にどういう流れの位置にあるかを端的にわかるようにしてある。これはありがたいが、絵とはそうしたひとつの枠の中にとどまるものではないし、企画する人が変われば、また違う文脈に置かれる。そのため、同じ所蔵作品でも他に持って来る作品との関連で、企画展は無限に違う構成が可能だ。そして実際そのとおりになっているが、今回のように、日本ではあまり有名でなくとも実力のある画家のいい作品がたくさん持って来られると、教育的効果も大変大きく、チラシの文章にあるコローやミレー、マティスよりもむしろ目が行きやすい。この展覧会の見所はそこにこそあった。だが、ごく普通の美術ファンはコローやミレー、マティスの大作を期待するであろうから、そんな人にとっては拍子抜けに感じられるのではないだろうか。まだ始まって1週間といった時に出かけたので何とも言えないが、この展覧会は宣伝の割りには多くの客を集められない気がする。目玉が「こんにちはクールベさん」のみというのは、日本でのクールベ人気を考えても大きな話題になるとは到底思えず、結局モンペリエはやっぱり田舎の二、三流の美術館かと失望されないか心配だ。
 このことで思うのは、巨匠とは何か、そしてどういうように評価が定まるのかだ。そのいい例がクールベでもある。「こんにちはクールベさん」はクールベを出迎えているブリュイアスが一応画面の中央に犬と立ってはいるが、右にいるクールベが顎を突き出し、より手前に描かれ、どこか傲慢な様子に見える。金持ちより、画家の方が偉いと言わんばかりの素振りで、そういう強い思いや態度、つまり自信があったからこそ、クールベはクールベになった。才能があって、抜群に上手でなければならないのは当然だが、それとは別に画家の一種鼻持ちならないほどの自意識がなければ有名にはなれない。有名とは人が有名にしてくれるものだが、有名になりたいと本人が思っている必要がある。クールベがたとえばファーブルという、今回何点か絵が来ていた画家と比べてなぜ世界的に有名であるのかは、この自意識がとんでもなく大きかったからではないかと思う。もちろんクールベはファーブルより絵がうまいからと反論はあるだろうが、どっちもそれなりにうまいし、甲乙のつけられない作風と言ってよい。それで、このことからさらに思うのは、今後ファーブルの評価がクールベ並みに高まって、その名前がもっとポピュラーなものにならないとも限らないということだ。絵とはそんなものであると思う。評価は時代の好みもあってある程度変わって行くものであるし、仮に100年、200年と経って世の中が今とは全く違った時、人々の鑑賞眼にも変化が生ずる可能性はある。その導き手のひとつは美術評論家の存在とも言えるだろう。それで思うのは、今回のような珍しい画家の作品がふんだんに来る展覧会は、絵をその有名無名とかかわりなく見つめるには最適の場ということだ。人々は絵を見る前に、まずその画家が自分の知っている者かどうかを確認するが、これは本当は正しい鑑賞方法ではない。眼が曇るからだ。名のある他人が下した評価を鵜呑みにし、世間一般に流布している価値基準を自らの中にそのまま据える人はつまらない。そこには自分で判断して形づくったものや個性がないから、無機質のロボット同然と言える。他人がどう言おうが、自分が感動して名作だと思うことがまず大事ではないか。そのようなことの地道な集積で、埋もれた作家が脚光を浴び始めることはある。だが、それには自分の眼で無数の作品に接する必要がある。
 会場は次のように展示が分けられていた。1「プッサンと17世紀の物語画」、2「ルイ15世の時代から大革命までの絵画」、3「新古典主義の諸相」、4「ドラクロワとピトレスク絵画」、5「バルビゾン派とアカデミズム派」、6「クールベと南仏の画家」、7「バジールと印象派の時代」。何と盛りだくさんな内容だろう。3世紀を90点で、しかもひとつの美術館の所蔵品だけで眺めるのはかなり無茶な気もするから、上記の展示分けは便宜上のものと考えた方がよい。印象に残った作品としては、まず3に登場したファーブル(1766-1837)を挙げたい。この3における最初の作品がジャック・ルイ・ダヴィッド(1748-1825)であるのは当然で、貴族的なロココの反動として、合理的で古典様式の芸術が復活した時期の代表的な画家だ。彼は新古典主義者の創始者であるジョセフ=マリ・ヴィアン(1716-1809)の弟子だが、今回ヴィアンの作品も来ていて2に展示されていた。ダヴィッドの後に続くのがファーブルやテオドール・ジェリコー(1791-1824)だが、あまりに有名なダヴィッドとジェリコーの谷間にあってファーブルの知名度は低い。ファーブルはモンペリエの生まれでそこで学んだ後パリに出てダヴィッドのアトリエに入った。1783年にローマ賞を得てローマに留学、そしてフィレンツェに移って社交界の貴族階級を顧客にして、物語画(歴史画)や風景画を描いた。美術品収集にも力を注ぎ、これが今のファーブル美術館の基礎になった。作品としては18歳当時の自画像がまずあったが、モーツァルト風の鬘を被ったその表情からは並々ならない自信が溢れて見えた。実力も充分で、歴史にそれなりに残る画家というものは10代でこれだけの絵を描く必要があることを痛感した。だが、男前ぶりはクールベと比較すればかなり劣り、それがファーブルの人気が今ひとつの理由かもしれないと言えばあんまりか。自画像の隣には大作「アベルの死」があった。横たわる若い男性が画面いっぱいに描かれ、バロック絵画風のダイナミズムと、劇中の一場面のような、新古典主義特有のどこか冷たい雰囲気が濃厚な作品だ。このほかルイ・ゴフィエ(1762-1801)の「パラディジノから見たヴァロンブロザ修道院とアルノ渓谷」は小品だが、イタリアの小高い丘の夕暮れ近い光景を象徴主義風に緻密に描いて印象深かった。これはトスカーナ地方を訪れたことのある者にとってはなおよく味わえると思う。トマ・クテュール(1815-1879)の「アルフレッド・ブリュイアスの肖像」、オーギュスト=バルテルミー・グレーズ(1807-1893)の「アルフレッド・ブリュイアス(通称ビュルヌス(アラブ人の頭巾つき袖なし外套))」の2点は特に興味深い。前者は絵のたくさんかかる部屋の中に立つ数人が描かれ、その中心にブリュイアスがいる。この絵の中の絵のうち、今回実物の2点が持って来られた。それらは同じ展示室の右手にかかっていて、何度か見比べたが、同じ絵かなと思う程度で、はっきりとは確認出来なかった。後者は大きな絵で、ブリュイアスひとりがきわめて写実的に真正面から捉えられている。右手には大きな赤い宝石の指輪が嵌まっており、これはそのまま「こんにちはクールベさん」でも見られる。よほどの金持ちの名士で、しかも美術愛好家であったようだが、こうした形で肖像が伝えられて、それがそのまま故郷の美術館に保管され、遠い日本にまで運ばれて風貌から人柄を推察されるのであるから、金持ちは画家には援助の手は差しのべておくものだ。何しろ時間があまりに少ない。時間切れの形で最後の部屋はほとんど眺めわたすことも出来なかった。また訪れるつもりでいるので、その時にはさらに詳しく書きたい。
by uuuzen | 2005-12-05 23:45 | ●展覧会SOON評SO ON
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