書いたことを次々に忘れて行くが、ごくたまに読み返すと、誤字以外はほとんど訂正するところがないと思う。われながらよく書けていると自惚れるつもりはないが、書いた時のことがまざまざと蘇り、それはそれで楽しい。

筆者の書いたことによってたとえば御香宮に行った気になる人があるかもしれないが、それもそれで否定しないが、実際に行けば自分で感じることがあり、読んだ文章は不要となる。そこで考えるに、こうした文章あるいは一緒に載せる写真は、自分も含めて読み手が楽しくなることが必要で、それにはそれなりの技術と、正直さが必要だ。そう思いながら、毎日書くと、いつも読んで楽しいことばかりになるとは限らない。面白くないことがあると、それに気分は左右され、そのことが文章に滲み出る。それでも筆者は面倒なので書き直すことはしないが、後々まで気がかりになっている箇所がないでもない。それらを削ってしまおうかと思いながら、どこに書いたかを忘れてしまってそのままになっている。恥晒しもいいところだが、読んで面白いことを一応は念頭に書いているし、またそういう部分の方が圧倒的に多いはずと思っているので、わずかに混じる消してしまいたい箇所はまあいいかと放置している。今日はいきなり神社とは関係のないことを書いているが、それは前述したように面白くないことがあったからで、そういう気分の時に昨日の続きを書くというのはしんどい。それでも御香宮の最終回を仕上げねばならない。さて、この神社は従姉は「ごこんさん」と呼ぶ。母の姉は昔伏見に住んでいたのだ。この神社よりもう少し北西だが、従姉は毎日大手筋商店街へ買い物に行ったそうだ。筆者は成人するまで大手筋商店街を歩いたことがなかったが、今は閉鎖中の伏見桃山城のキャッスルランドに幼い息子やまた息子の友人も連れて30代に何度か訪れた。そして、このブログに書いたと思うが、稲垣足稲の家を見ることが目的でもないが、ついでもあったので御香宮から少し東の南北を走る国道を、どこからか忘れたが、北から歩いて来て東に折れ、明治天皇が眠る伏見桃山御陵へと歩き、そして南の国道に出て今度は西へと歩んで京阪の観月橋駅から電車に乗った。確か菊の花が咲いている頃で、電車の扉が開いた時に不思議な感覚に襲われたことを書いた。その文章を探すのが面倒なのでこのまま続けるが、足稲の家はその玄関前まで行かずに遠目にそれを眺めた。もう足稲は亡くなっていたし、家の前まで行く必要は感じなかった。足稲の家は図書館の住宅地図で調べたが、今はネットでもわかる。それにネット地図を照らし合わせると、どこをどう歩けばいいかがすぐにわかる。それはともかく、「その3」に書いた桃山天満宮は、木幡山の月見の丘にあったというが、その場所はゴルフ場のある山手のことか、京阪の木幡駅から東へ2キロほどの天下峰辺りまで行くのか、ネット地図で調べてもよくわからない。だが、そんなに遠くから神社を移すことは考えにくく、伏見城のあった山から南すなわち稲垣足稲の家がある高台かその付近ではないだろうか。京阪の駅で言えば、桃山南口の少し北か北東だ。そしてその辺りを昔歩いたことを前述した。六地蔵や木幡は筆者はほとんど歩いたことがなく、どこがどうつながっているかがわからない。伏見区と山科区、宇治市にまたがった地域で、そこは親しい人が住むか、車で走ることが好きでない限り、馴染めないと言ってよい。秀吉もその辺りは開発もせず、無視したのではないだろうか。

本題に戻ると、今日の4枚の写真は御香宮の本殿の東側に位置する摂社末社だ。1、4枚目は末社を連棟にしたもので、これは幅があるので真正面からは原則的には撮らないことにしている。また、斜めから捉えた方が美しい。大きな神社にはこの手の祠があるが、住吉大社でも立派なものがあった。朱色に塗られているとは限らないが、白壁と木材に塗った朱色が巫女の姿を思わせ、筆者には神社の造形の最も美しいものに見える。これは複数の神様の同居と言ってよいが、仲良く並んでいるのがよい。それに鳥居はないが、神様ひとりに鳥居ひとつが原則となっているからかもしれない。その鳥居のなさがまた庶民的と言えば具合が悪いが、気安さを感じさせる。また、何の神様を祀るかは鳥居の扁額に書かれているが、鳥居のないこうした連棟式祠ではそれぞれの祠の扉に小さく文字が書かれているかと言えば、それは基本的にはないように思う。だが、どこかに何の神様であるかを書き示さねば拝むのに困るから、やはり文字はあるのだろう。またこうした連棟式祠は独立した祠よりも脇役的で、そこが庶民性を感じさせるのだが、そのおまけのように存在するところがまた好ましい。なぜこうした連棟式祠を建てるかだが、それだけ日本には神様が多いからで、人々の好みに応じるためであろう。御香宮では今日の1、4枚目のふたつだけがあるが、合計で8つの末社ではないだろうか。それらの名前を確認せずに次々と撮影して回ったが、ネットにはどういう神様を祀るかの情報はあるだろう。筆者はその点にはあまり関心がない。それは、こうした連棟式であれば隣り合う末社同士の多少の形の違いはあっても、それらは神様の格に応じたものではなく、参拝者が間違わないようにとの配慮からだ。同じ部屋の横並びのアパートでは誰がどこに住んでも同じであることに似ている。また、その一種の無名性が庶民的なのだが、立派な独立した神宮の建物よりも、筆者はこうした連棟式に魅せられるのは、造形的に面白いこととは別に、筆者が庶民であるからで、身の程をわきまえているということだ。目立たない無名性で充分との思いだ。だが、繰り返しておくが、この連棟式祠はとても美しい。仏教寺院にはこのような建物はなく、神社独自の造形で、筆者が郷土玩具の「松江のお宮」を4個横並びに飾っているのは、この連棟式祠を意識してのことだ。そして、自分で「松江のお宮」を作るなら、この連棟式でもいいかとさえ思っている。

今日の2枚目は豊国社、3枚目は太神宮で、1,4枚目はこのふたつの神社のすぐ近くにある。もう少し詳しく書くと、1枚目は本殿の背後、4枚目は豊国社に向かって右手、つまり南に位置して西を向いている。豊国社は秀吉を祀るが、本殿の北西で、これはあえてその場所を選んだのであろう。そちら方面に伏見城があり、秀吉が住んだ場所から最も近い本殿際となる。また、境内北端の東を向く東照宮より本殿に近く、微妙な力関係を伝える。家康にすれば秀吉を祀る神社が本殿のすぐ近くであることは面白くないかもしれないが、死ねばどちらも神で、仲良くこの神社で祀られることを徳川幕府は文句も言わなかったのだろう。太神宮は天照大神を祀り、伊勢神宮の摂社ないし末社ということになる。この太神宮の背後は境内配置図によれば背後に鎮守も森がある。その面積はさほど大きくないが、それでも今後も駐車場にはしないはずで、筆者は野鳥などがわずかでもその樹木群によって救われると想像する。昔はもっとその森は北へ広がっていたはずだが、今は道路があって、その向こうは民家が密集する。また境内の東は国道に接しているので、その道路拡張の際にも境内は削られたであろう。国道のすぐ東はJR奈良線が走っているが、面白いことに境内北東角でその線路は急カーヴを描いて東に向かう。奈良に行くのであればそのまま南下すればいいようなものだが、南方は巨大な小椋池があった。また、御香宮の境内北東角で方向を変えているのは、境内はその線路際ぎりぎりまでであったことが想像され、国道で削られたとしてもごくわずかであるかもしれない。さて、境内の南東に桃山天満宮が位置するが、その北に駐車場、参道を挟んで西に結婚式場や参集館などの新しい施設がある。そして目立つのは結婚式場の南、つまり境内の西南角に伏見義民碑が建つ。大きな碑で目立つ。これは江戸後期、伏見奉行の腐敗を幕府に直訴した7人が死罪になったことを慰霊するもので、伏見の住民のために権力に意見を申した人たちを忘れないという地元住民の反骨さを示す。飢饉のために民衆はどんどん死んで行くというのに、役人たちは私腹を肥やし、威張り散らしていたのだが、それは徳川幕府の終焉を予告していた。権力者の腐敗はいつの時代でもあるが、それが目立つようになると、民衆は黙っていない。今はどういう時代であるのかわからないが、書かれたことに注目する人が少なくても、完全に忘れ去られることはないし、御香宮の伏見義民を説明する立看板はステンレス製のようで、注目させる意識が強く感じられた。