同じような写真ばかりとなっていることは自覚している。鳥居を前にその中央に立ち、真正面から捉えると、写真は左右対称になってどの神社も似たような感じになる。

神社を訪れる時は参道の中央ではなく、右寄りに歩くべきということを何かで読んだことがあるが、参拝者はあまり堂々としてはならず、神様に対して遠慮気味であるべきとの考えからか。筆者はそんなことを考えずに、まず鳥居の写真を撮り、そしてそのまま参道の真ん中を歩いて拝殿や本殿に向かい、それも左右対称で撮る。斜めから撮ればより立体感がわかり、またほかのものがいろいろと写るので、写真としては情報が多くなって変化に富む。「神社の造形」は神社の建物の内容の造形という狭い意味と、境内にある特徴的なものを含んでのこととしてもよいが、このブログではどちらかと言えば前者のしかも建物全体を捉えることとしている。それは一神社当たり一投稿を原則とし、またそうであれば写真はせいぜい4,5枚が限度であるからだ。となればどの神社も似た写真となる。だが、摂社末社をたくさん抱える大きな神社となれば話は別で、それで御香宮も4回に分けねばならないほどに撮って来たが、それでも多いとは言えないほど、境内には目を引くものがある。それらのほとんどを省略しての投稿であり、またその神社固有の造形を報告するというよりも、筆者がいつどのようにして訪れたかを中心に述べるもので、神社ファンには何の益にもならない文章となっているが、それは筆者が書く文章であるからで、神社の由緒などはネットにいくらでも情報があるからだ。ま、言い訳めくが、このカテゴリーの写真がいつも変わり映えしないのは以上の理由による。それでも真正面から左右対称にならないように撮影する場合もあって、そのことについては「その4」に書く。

さて、今日は息子と一緒に四半世紀前に訪れた時にとても印象深かった蘇鉄の写真を2枚載せるが、これは拝殿の西側にある。そのすぐ南に能舞台があるが、これは今回知った。投稿の順序は逆になったが、同じような巨大な蘇鉄は高松城の披雲閣の庭にもあって、それ去年12月下旬に見た時は、御香宮の蘇鉄より大きいと思った。栗林公園にも大きな蘇鉄があり、気温のせいか高松は京都より立派に育つだろう。それに御香宮ではもうこれ以上は大きく育つことは無理という限られた空間いっぱいになっている。そのため、間近で見ることになって圧倒されるが、いつ頃に植えられたものか、もちろん当初はもっと小振りであったはずで、また高松辺りから持って来られたものではないか。2枚目の写真の蘇鉄はまだ若いが、百年か二百年先には3枚目の写真のように大きくなることを見越して植えているようだ。筆者は巨大な蘇鉄を見るのが好きで、近所を散歩していても庭先の蘇鉄に目が行く。わが家の裏庭にも四半世紀前から育てている鉢植えがあるが、光の当たりが悪く、成長はとても遅い。蘇鉄に申し訳ないが枯らすよりはいいかと思っている。御香宮の名前は京都人なら誰もが想像するように、伏見すなわち伏水とつながっている。伏見は酒で有名だが、それほどに水質がよく、付近の井戸から涌く水は水道水よりはるかに安全でまた味もよかった。だがそれは50年ほど前までの話で、今ではほとんどの井戸はそうはなっていないはずだ。7,8年前に月桂冠に勤務する知り合いを訪ね、そこで湧き出る水を飲ませてもらったが、水質検査は当然しているはずで、まだどうにか安全な地下水を汲み揚げることは出来るのだろうが、御香宮で湧き出る水はどうなのだろう。水御籤用の水は工業用水程度の水でも充分だが、人々が飲料水として汲みに訪れる「御香水」は、筆者はそのまま飲む気にはなれない。それはこの神社の周辺を見ればわかる。山裾のようなところであればまだしも、周囲は民家に取り囲まれ、地下にどのような物質が流れ込んでいるかを館上げると恐くなる。クリーニング店も当然あるし、そういうところで汚れ落としに用いる薬剤は発癌性が後になってわかったものが繰り返し使われて来た。そんなことを考えるとこの神社が「御香宮」の名を誇ったことが眩しく、また誇らしげに感じられる。水がなければ人は生きられないが、自然の恵みのそれを人間が汚し、かつてあった香りもなくしてしまったことを、常に反省すべき拠りどころとして、この神社は存在すべきで、伏見を代表する神社としてもっと注目されてよい。能舞台については1月に彦根城でも見たが、写真の投稿はそれが先になった。つまり、今頃になってようやく御香宮を訪れた感想を書くが、筆者は四半世紀前に訪れて以来二度目ではなく、その間に少なくても二度は訪れている。その正確な日を調べられなくもないが、資料をひっくり返さねばならず、このまま書く。

今日の最初の写真は蘇鉄の北西、本殿の西にある。神馬の木像は伏見稲荷大社にもあって、昔色鉛筆で描いたことがある。その画像は「おにおにっ記」に載せた。今調べると、
2007年2月5日の初午に出かけている。「今日は初午です。マニマンは電車に乗って大きな稲荷神社に参拝に出かけました。神社づいているマニマンですが、お参りして頼み事をするわけではないのです。ふしだらを自覚するマニマンは、生活にちょっとした節目がほしいのです」と書いていて、「神社づいている」の表現にわれながら驚いた。ということは、このカテゴリーは降って湧いたものではなく、10年ほど前から予期されていたことになりそうだ。それはさておき、御香宮の神馬を見て筆者は伏見稲荷大社で描いた神馬かと錯覚した。10年ほども経っているので伏見稲荷大社で見たことを忘れ、描いたことだけをよく覚えているからで、そのことからは、ただ見るだけではなく、描くなり文章にするなりして記録しないことには記憶に残りにくいということがわかる。だが、初めて神馬を描いた10年ほど前と今を比べると、10年でひととおりのことは経験し、後は繰り返しに過ぎないことも思う。つまり、感動が少ない。またそのことから言えるのは、30歳で死ぬことも40歳で死ぬこともあまりかわらず、ましてや90で死ぬことは無用の長生きではないか。それはともかく、神馬は去年9月に岡山の吉備津神社でも立派なものを見かけた。それは伏見稲荷大社や御香宮のように狭い建物の中に閉じ込められておらず、本殿裏手の廊下のような雨のかからないところにあった。その写真を撮ったが、ブログには載せなかった。その理由は写真の枚数が多いとそれだけ長文にする必要があるからで、今回のように「その1」や「その2」と分けて投稿することを考えていなかったからだ。神馬はまた大阪の住吉大社にもあったはずだが、2年前の11月に自治会住民の大志万さんとそこに行った際も写真は撮らなかった。なお、その時に同大社を訪れた時のことは
1か月ほど後に2回に分けて投稿したが、その頃はまだ「神社の造形」のカテゴリーは作っていなかった。そのため改めて同大社に訪れてもいい気がしている。それはそうと、住吉大社では木像ではなく、本物の白馬がいたかもしれない。それをどこで見かけたのか記憶にないが、どこかで見たことは確かで、その時、世話するのが大変だなと思った。それでかどうか、実物大かそれに近い木像を境内に置いているのだと思うが、実際は別の理由もあるだろう。神社では仏像のような拝む対象としての神像はないことはないが、あまり多くはない。その点、この神馬は華やかに飾り立てられ、お釈迦さんの誕生日に誕生仏とともに主役になる白い象のようだ。ひょっとすればその影響があるかもしれない。奈良の春日大社では鹿を神の使いとして祀るが、それでは絵馬の代わりに絵鹿があるかと言えば、絵馬は鹿の形をした絵馬があって、鹿絵馬と呼ばれる。馬鹿をひっくり返して間に絵を入れてどうにか馬鹿絵にならずに済んでいるが、実物大の馬の木像を境内に置くと、観光客はそれと本物の鹿を写真に収めて「馬鹿」だと嬉しがるかもしれず、神馬の木像はない。