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●『エッケ・ホモ 現代の人間像を見よ』
太利の現代美術は先日『モランディ展』を取り上げたが、彫刻家は別として、画家ではその後世界的に有名な人物を輩出しているのだろうか。にわかには思い浮かばない。今日書く展覧会は昨日見た。



●『エッケ・ホモ 現代の人間像を見よ』_d0053294_134249.jpg副題にあるように、現代美術を通じて現代の人間像を見るものだが、期待して出かけたのに、どの作品もかつて見たものばかりで、国立国際美術館の所蔵品展であった。それが悪いとは言わないが、この美術館では通常それは地下2階の常設展示に並べられる。それを地下3階の企画展示に移動し、ある切り口でまとめて見せるもので、同じ傾向は他の美術館でも近年しばしば行われ、それだけもはや珍しい作品ばかりを並べる機会が減って来たということだ。それはひとつには金がかかるからだが、一方ではもう展示すべきものはたいてい日本に持って来たとの考えにもよるだろう。だが、実際はそうではない。日本では観客動員がある程度見込めない限り、わざわざ外国から作品を借りて来ない。たとえば黄金を見せるとある一定の客が動員出来るが、考古資料として地味ではあるが重要なものをたくさん持って来てもまず人は入らない。それでそういう展示品に必ず黄金の発掘品を混ぜる。日本は黄金好きと外国からは思われているが、ツタンカーメン展がいい例であろう。黄金に価値があるのは確かとしても、たいていの人が喜ぶのは美術品的価値よりもお金を連想させるからだ。ともかく、美術展は人がたくさんやって来るほど成功とされるから、企画する人にとっては悩ましいところがある。ごく一部の人のために税金を使うわけには行かないとの考えは支配的であろうが、いつもそれでは熱心な美術ファンにそっぽを向かれる。また宣伝すればするほどたくさんの人がやって来るとしてもそれには経費がかかる。まことに現代の人間像を見るには、街中を歩いてごく普通の人を見ればいようなもので、さて現代美術を通じてどのように現代の人間像が見えるかだが、その答えが本展にあるのではないかと学芸員は考えたのであろう。
 「エッケ・ホモ」で筆者がまず思い浮かべるのは、このブログに何度か書いたドイツのロヴィス・コリントの「赤いキリスト」だ。これはまだ日本には来ていないし、コリントの展覧会もない。日本向きではないと考えられているのだろう。それはコリントの風貌にもよる。男前ではなく、やや太った体格のごく普通の男で、まずその点でその作品が大きな人気を得ることは日本では無理だろう。ちょうどホルスト・ヤンセンがそうだ。通好みのところがある。ヤンセンの場合はまだ北斎を敬愛し、日本人の心をくすぐるところがあるが、コリントは日本美術とは関係がない。それに代表作の「赤いキリスト」はまことに凄惨な印象を与える宗教画だ。では本展はそのキリストに因む「エッケ・ホモ(この人を見よ)」の題名を持つからには、宗教画を中心に並べるかと言えば、全然そうではない。これは現代においてはルオー以降もはや宗教画は死んだも同然との意味合いからではない。またルオーの絵画はモランディと同じように、本展が示す狭義の意味での現代美術ではなく、本展の「エッケ・ホモ」はコリントの「赤いキリスト」のような伝統的なキリストを描いた絵として限定せず、現代美術家が戦後どのようにして人物を表現して来たかを多角的に見ようとする。これは、風景画や静物画でなければどのような作品でも該当すると言ってよく、鑑賞者は自由に味わい、考えればよい。それはどのような展覧会についても言えるが、本展は戦後の混沌とした現代美術界を概観するというところに意味合いがあり、前知識があればそれに越したことはないが、なければないで作品に対峙して何かを感じ取ればいい。だが、美術に普段馴染みのない人は戸惑いが多いだろう。そしてそれも戦後の現代美術の真実の一端と言えるから、とにかく見ることだ。だが、筆者が思うに、たとえばチラシやチケットに印刷された女性の顔の一部が崩れたように見える写真は、報道写真ではよく見かけるタイプのショッキングなもので、わざわざ美術作品にして見せるほどのものかとの考えを抱く人もいるだろう。この写真は大きな10数枚の組写真で、整形手術を受ける女性を、その手術前から手術中、そしてその後と順を追って撮影したもので、メスで顔が切り刻まれる様子がクローズアップで撮影されている。グロテスクな写真だが、整形美容がそういうものであることは今では誰でも知っている。その事実を記録した組写真が美術作品であるかどうかだが、写真家はその意味合いで提示すればそうなるし、報道写真と言えば人はそう見る。そこに現代美術の危うい立場もある。つまり、もはや美術は死んだとも言える。
 現代美術のひとつの大きな特徴は、写真や映像が増えたことだ。本展でもそういう作品は目立った。誰でもカメラを手軽に使える世の中になったので、そういう傾向は現実を反映して当然と言えるし、また多くの人の目にもつく。油彩画や彫刻となると手間を要し、ごく一部の人が携わるという印象が強い。その点、写真は即座に誰でも撮れる。そして発表の場にも困らない。にもかかわらず、やはりプロという存在があり、また本展の展示されるようにその作品は美術館に購入される作家がある。間口が限りなく広くなりはしたが、美術として多くの人が認める作品を写真や映像で生み出すことはさほど簡単ではないだろう。それは絵画や彫刻と同じで、現代美術はそれ以前の美術と強くつながっている。そのことを示すのが、ある程度の美術ファンなら知る作家の作品が本展に並べられたことだ。たとえばジャン・フォートリエやジャン・デュビュッフェ、ジャコメッティ、フランシス・ベーコンといった現代美術の古典格だ。チラシ裏面にはこれらに続いてヨーゼフ・ボイスの名が挙げられているが、一時が絶大な人気を誇ったボイスも、ここ10年はほとんど作品が展示される機会はないのではないか。それはさておき、そのほかにジョージ・シーガルやアンディ・ウォーホル、ゲルハルト・リヒター、インメンドルフといった辺りまでは作品が思い浮かぶが、以上と同程度の外国人作家が取り上げられ、筆者は作品は見たことはあっても作家名は思い浮かばない。日本の作家も30名程度が選ばれ、さらに筆者は名前を知らない。そして、彼らの作品が今後50年、100年後に今以上に多くの人に記憶されているかどうかは全く保証がないだろう。それは生き残りレースのようなもので、展覧会で漠然と作品を見ることの裏に熾烈な戦いのようなものがあるだろう。それも現代の人間像と言えるが、そういう美術界のあり方を作品とする作家は本展には選ばれていない。現代美術でも作品を何度となく見ると、「ああ、これか」といった条件反射をすることになるが、それは作品を深く知ったことではなく、いわば消費されたも同然で、またそのことはある意味では古典化することにつながるが、現代特有の美術という観点からは、棘を剥ぎ落とされたようで、簡単に言えばもはやわくわくさせる面白さを失ったことになる。つまり、本展のような展覧会は、どきりとさせる度合いが大きい作品ほど価値があるとみなすべきだが、一方ではすでに画集がいくつも出ているジャコメッティのような巨匠に連なることを当の作家たちは夢想しているであろうから、どこか安心して見ることの出来る前衛作品が並ぶ。それでは展覧会としては面白くならないので、まだ価値が定まっていないような、それでいて胸をざわつかせる作品を混ぜる必要があるが、そういうところは抜かりなく行なわれている。
 さて、本展は三つのセクションから構成され、1「日常の悲惨」、2「肉体のリアル」、3「不在の肖像」となっていた。ある作家をこれらのどこかに分類するのは無理もあるが、「悲惨」「リアル」「不在」と、なかなか生々しい言葉が並ぶ。特に「悲惨」はそうだが、ここに展示された作家の最初はフォートリエで、これは納得出来る。浜田知明の銅版画もそうだ。ウォーホルのマリリン・モンローの顔を色違いのシルクスクリーンで刷った例のシリーズもここに含まれたが、マリリンが悲惨な死に方をしたからであろうか。このセクションは日本の作家が多く、ちなみに名前を挙げておくと、荒川修作、工藤哲巳、北山義夫、靉嘔、鶴岡政男といった有名どころのほかに、石井茂雄、山下菊二、中村宏、尾崎豊、桂川寛、芥川沙織、池田龍雄、吉仲太造、村岡三郎で、筆者には作品と名前が一致させられない。「肉体のリアル」部門の筆頭はベーコンの油彩画だ。それは「日常の悲惨」に展示されてもよかったが、人体を著しくデフォルメすることで、その肉体のリアルさを表現した画家と言える。このセクションで最も印象に残ったのは木下晋の大きな鉛筆画だ。洲之内徹に見出されたと言ってよい木下の作品はとても怖い印象をいつも覚えるが、それは「リアル」という言葉にぴったりする。紙と鉛筆1本でも現代美術が出来ることを示すよい例だ。もう1点大がかりな作品として15分ほど座って見入った作品がある。小谷元彦の「Terminal Inpact」で、一部屋を占めていた。基本的には映像作品だが、映像に映し出される物体が横長の巨大スクリーンの傍らに並べられている。映像はひとりの若い女性が登場するが、彼女は大腿部から下がなく、義足をつけて歩く。だがその姿は堂々とし、悲惨なイメージはない。やはり「リアル」として捉えるべき作品ということだ。もう1点、ローリー・トビー・エディソンの作品はもはや自分で動くことが困難ではないかと思われるふたりの女性が笑顔で裸のままソファに向かい合って座る白黒写真で、彼女たちは自分たちの姿に大いに満足しているとのキャプションがあった。肉体美の常識は人によって違うということだ。「不在の肖像」は、最初にジョージ・シーガルの「煉瓦の壁」と題する彫刻作品で、これは説明するまでもない。シーガルの作品は滋賀県立近代美術館にもある。最後はジャコメッティの作品で、それに挟まれる形で順に書くと、小林孝亘、内藤礼、ノデラユキ、ブライス・ボーネン、ミヒャエル・ボレマンス、ジャン=ピエール・レイノー、森村泰昌、バセリッツ、トーマス・ルフ、インメンドルフ、ミリアム・カーン、フィオナ・タン、田口和奈。北野謙、島袋道浩、ボイスとなかなか多様で、フィオナ・タンに関しては去年春に同じ美術館で大きな展覧会があって筆者は見たが、このブログに感想を書く機会を逸した。今さら書く気はしないが、なかなか充実した内容で、またワールドワイドな活動によって映像作品をものにしていることに驚いた。それは彼女の混血具合によることなのだが、その意味で日本からは生まれにくい才能と言える。
by uuuzen | 2016-03-20 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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