低価格という感じがするのは何割り引きからだろうか。スーパーではその日のうちに食べねばならない商品を夕方から値引きすることが多いが、半額以下になることはない。それでも半額で買えれば得した感じが誰でもするのではないだろうか。
3割ならやめておこうかという場合でも半額なら不要なものまで買い込んでしまいかねない。それで半額で得っしいたと思ってもよぶんに買い過ぎて、却って無駄使いする。スーパーはそういう心理をよく心得ている。それに半額で売っても利益はある。ならばもっと安くしろと言いたいが、9割引きや無料となれば、今度は買い手は食べては病気になるかもしれないと心配になる。そこで最も売れ行きがよい割引は半額ということだ。はたとなぜこんな話題なのかと思い直したが、そうそうMIHO MUSEUMの内覧会が2月29日にあって家内と行って来た話を今日は書くが、それと半額が関係ある。展覧会そのものとは無関係だが、今日は「低」という文字を冒頭に使うことが決まっていたので、話題を強引に本展に結びつける必要がある。そこで思い出したのが、美術館内での食事だ。食事というのは多少おおげさで、若者なら腹2分目くらいにしかならない量だが、内覧会では皿1枚に載った少しの食事が出る。それは2,3年前までは無料で、また食べ放題であった。飲み放題でもあり、中には持参した水筒にジュースを入れて帰ろうかというおばさんがいたりもした。そういうサービスぶりであるから、レストランはバーゲン・セール会場並みの混雑で、みんな腹いっぱい食べようと大変な騒ぎであった。それはあまりにはしたないと美術館は考えたのか、招待状と引き換えに食事券をひとり1枚与えることにした。つまち1人前だけ提供するとのことだ。ところが、去年からはその券で半額で提供するということに方針が変わった。半額なら安いと思うので、みんな以前と同じように食べているようだが、何でもいいことは長く続かないということだ。そのうち半額も終わって、逆に寄附金を求められるようになるかもしれない。誰よりも先に展覧会が見られるのであるから、その特別待遇に見合った寄附は当然ではないかと、館側が考えても、そこには一理はあるだろう。ともかく、今は半額で、筆者も家内もスーパーの半額商品を買う時のようにお得感があるので、招待のたびに出かける。だが、以前のように、つまり食事が無料であった頃のようにはもう他人を誘うことは出来ない。お金を払ってまで見に行きたいとは思わないだろう。佳き時代はすぐに過ぎるということだ。数年前に死んだNはよくそういうことを言っていた。たとえば新生銀行が他行に何度入金しても当初は無料であった。それで筆者はネット・オークションの入金によく利用した。その頃Nは、そういうサービスはある日突然停止になる可能性が大きいので、無料の間にせいぜい使っておくべきだと言った。その言葉どおり、無料は月1回のみとなった。ところが、ゆうちょ銀行が、ゆうちょ同士であれば口座振替は無制限に無料という方針を打ち出し、新生銀行に頼らずに済むようになった。郵便局へ出向く手間は運動と思えばちょうどよかった。だが、今度はヤフーのかんたん決済が今までは一回の振り込みに105円徴収していたのが、どういう仕組みになったのか、無料となった。しかも何度入金してもそうだ。これはゆうちょより便利で、筆者はもう家から一歩も出ずに入金出来るようになり、パソコン画面のクリックひとつで家に物が届くようになった。未来都市が出現した感があるが、実際は何人もの人がバトンタッチして物を運んでいる。その様子は太古の昔と同じで、人間はそう進歩しないということだ。見せかけが便利になっただけで、裏では相変わらず汗を流す人がある。
さて、いつもならこの美術館の春季展は3月に入ってからだが、今回は1か月ほど早くなった。建物の外装か内装か知らないが、改修工事が行なわれるとのことで、まだ新品に見えるのに、どこかふつごうな箇所が生じているのだろうか。あるいはより化粧を施すのか、そのところの説明はなかった。また本展は館長の辻惟雄が退官することになったので、その記念展として、氏が専門とするところの装飾美術のまとめ展のような形となった。また挨拶の話にあったように、装飾という言葉は硬いので、氏はかねがね「かざり」という言葉で表現し、今回もチケットたチラシには「KAZARI」と大きく印刷され、この言葉を国際的に通用するものにしようとの考えが見られる。昨日も書いたように、装飾美術と言えば京都で、また琳派となるが、「RIPNA」ではなく「KAZARI」と言う方が、もっと包括的な日本美術という捉え方が出来る。つまり、狭い意味での光悦、宗達、光琳、そして抱一や雪佳に至る琳派から、もう少し広く京都画壇を含める立場、それよりもっと広く日本美術全体という大きな輪を想定するのが「KAZARI」ということだ。となれば日本美術は飾ることに特質があり、MIHO MUSEUMが改修工事をするのもその意識の表われと言えるかもしれない。また飾りと言えば西洋では本質的なものではなく、たとえばバッハの音楽でも装飾音という、いわばよけいなもの、省いてもあまり本質が変わらないものという意識があるが、さてそれが本当かどうかを日本美術は突きつける。たとえばの話、縄文人やもっと古い時代の人間にも飾るという意識はあったはずで、そのことによって他者とは違うことを主張した。同じことをやるにも、ちょっとした工夫で飾る意識を持つと、それを身につけた姿は愛らしくなる。そういう意識は小さな動物にもあるはずで、昆虫や鳥を見てもわかる。きれいな羽を持つのは、飾る思いの表われで、他者の目を引くことは生物の本能だ。そしてそういう見方をすると、神仏の考えが入り込む。あるいは神仏を表現するところに飾りの意識が入る。華やかに飾り立てると、非日常を感じさせ、晴れやかな思いになれる。飾りにはそういう効果がある。飾りを取り去った本質こそが大事という言い方があるが、それはそれとして、飾る思いにもいじらしさはあり、それも本能、本質と見ることは出来る。女性の化粧をいやがる人があるが、女でも男でもきれいな方がいいに決まっている。きれいな服を着れば心も明るくなるもので、飾りは本質をまやかすとばかりとは言えない。
本展の目玉は若冲の桝目描きの屏風2点で、これが揃うのは1997年以来であるらしい。会期の最初の1週間だけがそういう展示で、内覧会でも当然2点を同時に見ることが出来たが、隣り合うのでなく、広い部屋の両端に向かい合わせで、中央に立てば右目と左目で両方の作品がそれぞれ見えた。視力の悪い筆者のような者にとってはぼんやりと色彩が違うなと感じるだけだが、それを知るだけでも価値がある。この2点は明らかに全く違う顔料を使っていて、どちらかが真作なら、片方はそれが疑問視される。辻氏はプライス・コレクションの方が後に描かれた進化形との考えを持っているが、東大の佐藤氏は全く反対で、プライス本は出来の悪い贋作としている。これは難しい問題で、それほどに若冲の最晩年はまだ謎が多く、今後の研究に委ねるしかないところがある。だが、ふたつの屏風を見てプライス本が進化形とするには、進化すなわち何らかの改良された部分があるべきだが、佐藤氏は稚拙な表現でそれはないとする。筆者もその考えに同意するが、ひとつ注意しておかねばなならないことは、進化をそのように優れた造形とだけ捉えてはまずいところが最晩年の若冲にはあるかもしれないという疑問だ。高齢であり、技術力が減退したというのではないが、何か新たな挑戦を試みて、それが空振りに終わったということが考えられるからだ。若冲も人間であり、壮年の気が張った頃とは違い、80代になればやる気はあっても作品の質が若い頃のようには思ったとおりにならない場合があっても当然だ。だが、どっちにしろ、プライス本は佐藤氏が見るように、静岡本より各段におそまつな絵で、大人と子どもくらいの差がある。それを辻氏が進化形と言うのは理由がよくわからないが、所有者のプライス氏にとっては自分の眼力を否定されれば立腹はするだろう。それはわかるが、そこにコレクターの悪い面がある。目が曇りがちになるのだ。利害が絡むからで、これが全くそうではない人では、より本質を見抜くだろう。だが、筆者がいつも思うのは、絵を描く人の意見だ。辻氏もプライス氏も佐藤氏も、たとえば写生を頻繁にし、自分の名前を入れた作品を世間に見せたことがあるだろうか。絵のことは画家が専門であるはずなのに、画家や絵画を判定し、位づけすることを、絵を描けない者が行なう。それに、たいていの画家は名もなく貧しいままに生涯を終わるが、絵画を鑑定したり、ああやこうや言う者は肩書きがあり、公的な仕事に就き、年金ももらって偉そうな顔をし、人から尊敬されると勘違いする。だがまあいい。評論家など生きている間だけ有名で、死ねばみんなすぐに忘れる。
それはともかく、本展も若冲人気にあやかったところがあるが、ふたつの屏風は本展の副題の「信仰と祭りのエネルギー」にいちおうは沿った内容だ。それに若冲画に信仰と祭りのエネルギーを見るというのはいい視点だ。そして、辻氏の最後の展覧会としては、どうしても若冲を出さないわけには行かない。若冲を省けば、神仏に関する美術で、滋賀らしく日吉山王祭礼図屏風など、わざわざMIHO MUSEUMにまで行って見るというご当地ならでは出品を考慮している。だが、総花的と言うか、あるいはそれにもならずあれこれとあまりに多彩な出品作で、まとまり感に欠ける。それは昨日書いた『琳派降臨』とよく似ているが、本展は古美術中心なので、まだ何となくありがたみが大きい。もっともそう思わない人もあるが、概してこの美術館は古い時代のものを並べる。古色を帯びたものは侵しがたい貫禄があるもので、美術品は特にそうだ。仏像や仏画、お経、伎楽面など、何となく奈良国立博物館がやりそうな展覧会だが、奈良まで行かずとも自前で充分充実した展示が出来るという気概がこの美術館には見られる。だが、本展は何となく以前にあったものの焼き直しに感じられ、今後の企画展次第ではマンネリ化と思われるかもしれない。ここ数年は若冲人気に沸いたので、一気にこの美術館の知名度が高まったが、若冲生誕300年を過ぎた後、次に大きな話題となるものがあるかどうかだ。それは次の館長の腕次第という面もあるが、筆者が去年から感じることは、あまり美術展が開催されないことだ。不況が響いているのか、もうあらゆるものを持って来て展示したので、食傷気味になっているのか。ともかく展覧会にあまり見たいと思うものがない。聴きたい音楽がなくなって来ていることと同じで、それだけ筆者が老化して精神が鈍っているからとも言える。あるいは、もはや美術の時代ではないということかもしれない。美術館に足を運ばすに、ネットの画面を見ることで絵画でもわかった気になる。実物を前にする必要を感じなくなれば、実物のアウラというものを信じなくなる。アウラなどあるかという思いもあるだろう。幻滅の時代ということかもしれない。だが、そういう時こそ、古い、誰が作ったかわからない飾りを意図した作品を間近に見ると、いい仕事をしているなと素直に感じるのではないか。本物をやはり眼前にする必要がある。それと、自分の手を動かして何か作ることだ。頭だけいくら働いても、賢くなるとは限らない。わかった気になっていても、何もわかっていないことはたくさんある。ああすればこうなると理屈ではわかっても、実際にやることとは大違いだ。そこを筆者はしばしば侮られることがある。精魂傾けた作品がまるでゴミのような低い扱いだ。偉そうなことを言うなら同じものを作ってみろ。あんたなら100年かかっても出来ない。文句は言わせてもらうが、実際に作りもしますよ、わたしは。ははは、話は半額で聴くべし。