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●『小川千甕―縦横無尽に生きる』
覚がかなり衰えて来た母は、TVを大音量でつけている。それに話す声も大きい。筆者もここ1,2年はステレオをほとんど鳴らさないので大音量で音楽を聴くことはなくなったが、TVの音量は家内に言わせると大き目だ。



●『小川千甕―縦横無尽に生きる』_d0053294_0494295.jpgこの調子では母のようになるかもしれない。親子であるので似ているだろう。さて、今日取り上げる画家は、名前くらいは知っていたが、まとまった数の作品を見る機会はこれまでなく、没後初の大回顧展だ。京都生まれだが、28で東京に転居し、死ぬまでそこにいた。1882年に生まれて1971年に亡くなったので、享年89だ。最晩年の笑顔の白黒の肖像写真が飾ってあった。優しさと骨のある感じが同居し、また高齢であるので自画像よりかなり痩せて見えたが、笑顔は満ち足りた様子で、楽しい人生を過ごして来たことがよく伝わった。好きな絵で90近くまで生きられたのは幸福だ。京都に住んだ年月よりも東京で暮らしたことが長かったので、東京人と言っていいが、29まで京都にいたことは、京都のことを忘れようにも忘れられなかったであろう。今手元に展覧会のチラシがあって、その裏面の中ほどに目立つ活字で赤で大きく「京はたまらない程、昔なつかしい故郷である」と印刷されている。本展は福島と東京を回って京都文化博物館で開催されたが、福島と千甕が関係があるかと言えば、何もなかった気がする。去年12月8日から今年1月末までが会期で、筆者は1月23日に見た。図録は買わなかったが、求龍堂が販売していて本屋でいつでも買える。千甕の評価はまだ定まったとは言い難く、まだ安価で買うことが出来る。どれほどたくさん描いたのかわからず、また画風が次々と変わったので、本展の副題にあるように、縦横無尽で捉えどころがない。流行に非常に敏感で、デザイナー的な才能があった。もう半世紀遅れて生まれていれば、有名な漫画家か、横尾忠則のようなグラフィック・デザイナーになったであろう。だが、千甕の年齢でもそういう生き方は出来たにもかかわらず、商業美術には進まず、いわゆる純粋な画家として生きた。そこが横尾とは違うところで、明治生まれの風格がある。とはいえ、重厚な印象はなく、むしろかなり軽い。軽いので親しみやすいが、賤しさはない。それが明治生れだと言うのではないが、あれこれと画風を変えながら、そこに共通した千甕らしさがある。ただし、縦横無尽は誉め言葉として使われるかもしれないが、まとまりのなさと言い換えることも出来、どの画風も器用にこなしながら、これぞ千甕の本当の画風というものがない。それほど明治生まれの画家は優れた才能がひしめき合っていたということだ。出揃っていたと言ってもよい。
 京都から東京に移住する画家がいる一方、京都にやって来て住みついた冨田渓仙がいるが、ふたりは同世代だ。千甕が3歳下だが、ふたりの画風は似たところが多少ある。素早く描く漫画タッチで、軽さで言えば渓仙もそうだ。だが、渓仙のそれは生き急いだかのような、憑かれたかのようなところがあり、また仙厓の影響もあってのことで、一本の芯が通っている。千甕はその点、仏画から初め、陶器の絵つけや洋画、その後南画というように、ハイカラな面が強かった。これは決して渓仙が田舎者というのではない。渓仙の画風はドイツ表現主義の匂いを敏感に感じ取って吸収したところもあり、時代の先端を行くという意識は持っていた。だが、千甕は東京に移ったことが、もっと世界的に視野を広げようとしたところがあって、ヨーロッパをしばらく回り、ルノワールに面会もしている。そういう行動は京都で浅井忠に洋画を学んだことで説明出来るが、行動力が旺盛で、そこに江戸時代の文人趣味が見られる。そのために洋画から南画へと転向するのだが、南画は鉄斎が最後の巨匠と言われていたから、その改めて京都が生んだ大きな才能に気づいたということだろう。ただし、千甕は少年の頃から鉄斎に憧れがあって、いろいろと遠回りをして鉄斎風と言えばいいか、絵と詩文を同居させる南画に落ち着いた。つまり、やはり京都の画家であったということだ。また、鉄斎の衣鉢を継ぐような南画となると、洋画にも手を染め、実際に欧州を歩いてみるということも必要であったと言える。そうでなければただの鉄斎の小粒が生まれることは目に見えている。では千甕が鉄斎に連なる文人画家かと言えば、その評価はまだ早い。今後そういうことはさらに同時代の画家が発掘されたり、見直されてから定まる。
 ほとんど知られない画家の回顧展で思い出すのは玉村方久斗だ。8年前に展覧会が開催されたが、その後評価が高まったかと言えば、あまりそうは思えない。あまりに前衛過ぎた日本画で、京都では受け入れられず、今もそのように思う。もう100年ほど経てばどうかと言えば、それは誰にもわからない。方久斗は千甕より11歳下で、1951年に死んでいるが、千甕は方久斗よりもう少し温和で、またていねいな描き方だ。それに1951年以降20年も生きた。その間に描いた南画は鉄斎とはまた違った面白さがある。だが、方久斗はそれを見れば否定したかもしれない。前衛とはもっと厳しいもので、何者にも寄らない。方久斗はそう考えたのではないか。そのため、方久斗の絵は千甕の南画のように床の間に飾って楽しむという味はない。それでも似たところはある。どちらも風俗画が好きであったようで、人間が面白く表現されている。千甕は風景画もたくさん描いているが、必ずそこに小さくても人間を描く。そのことは20代半ばで描いた「貴船風景」にも表われている。この絵は水彩で、京都の貴船の陽射しの強い道ばたで描かれたもので、こちらに向かってふたりの荷を担いだ人物が描かれ、その向こうにも小さくふたり描かれる。浅井忠ばりの細かな描写で、1,2時間を要して描いたであろう。今なら誰しも写真に撮ってそれを元に描くが、千甕は人物は鉛筆で軽くデッサンし、後から風景に釣り合うように細かく彩色したはずで、素描の技術がかなり達者であったことを感じさせる。今はそういう画家は少ない。ともかく「貴船風景」は風景と人物が違和感なく同居していて、一瞬の映像を目に焼きつける才能に優れていたことをよく伝える。同じ頃、京都市立陶磁試験場からの帰り、賀茂川の五条辺りを描いた鉛筆画があったが、とにかく手を動かし、印象を素早く描き留めておこうという努力を怠らなかった。そのことが後年大きく開花するが、風景だけを描くのではなく、必ず人物もというころが、浅井忠との違いと言えるかもしれない。だが、そう書けば浅井は人物画が苦手であったことになるが、決してそうではない。千甕は浅井が描いた大津絵に興味を抱き、それをそっくり模写し、欧州を旅してからは、西洋の職業人をスケッチして、西洋大津絵と言ってよい絵をたくさん描いた。それらはまさに大津絵の西洋版で、日本にはない服装に面白い意匠性を認め、またどの人物も職業に応じた動きがあり、そのままヨーロッパに定住すれば、オペラのコスチューム・デザイナーにでもなれたのではないかと思わせられる。それは千甕がカラリストであるということで、その色彩感覚は方久斗の地味さに比べてもっと楽しい。そして、鉄斎の華麗さともまた違い、やはり軽いのだが、戦争を挟んで生きたというのに、その楽天性はどこに由来するのであろう。
 似た画家でまた思い出すのは同じ小川の芋銭だ。芋銭は千甕より16歳上だが、漫画を手がけたことで通じるし、また川端龍子や芋銭と珊瑚会という日本画の会を結成したことでも交流があった。龍子も子どもの雑誌に挿絵を描き、それから本格的な画家になったが、明治大正期は漫画や挿絵で収入を得ることは、画家を目指す者にとってひとつの手段であった。これは漫画といえども、決して卑俗さに流れないという意味でもあって、戦後の漫画とは一線を隠す。今は開き直りではないとしても、卑俗であって何が悪いという思いが漫画家にあるだろう。売れて有名になればそれで勝ちであるという価値観が大手を振るようになった。そして金も名前もつかめば、後は何に兆戦しても認められるという思い上がりもある。千甕はまだそういう時代の画家ではなかった。それは少年期に鉄斎の絵を見ていたからであろう。文人意識が知らず知らずのうちに刷り込まれ、それが最晩年にまで影響したのが千甕であった。もちろん紆余曲折があり、それが千甕の縦横無尽と評される画業となっているが、一本貫かれているのは、南画精神ということに尽きる。だが、その精神は同時代の画家はみな大なり小なり共有した。それがすっかり消えたのは戦後だ。それはさておき、千甕の画業は10代からの仏画に始まる。今回そうした作品が展示されたが、まだ筆を持って文字を書くという時代に生まれた人物であることをよく伝える。今の中学2,3年生で同じ線を引ける者はいないだろう。展示されたのは墨一色の骨描きのみで、彩色を施した作はなかったが、当然そうした絵も描いたであろう。そしてそこにカラリストとしての萌芽が見られたのではないか。それはともかく、中京の書肆に生まれたことで、鉄斎の姿を見たり、本に馴染んだりすることが出来て、文人画家への憧れは自然と培われたと思える。「昔なつかしの故郷である」と語ったのがいつか知らないが、本展の最後のコーナーに並んだ、これまでの画業を総括するような南画は、まるで京都で描かれたように感じた。なぜ京都に戻って来なかったのかと思うが、もう居場所はなく、またどこにいても絵は描けると思ったのであろう。京都にいながら前衛に進んだ方久斗とは違って、遠くで京都や鉄斎を思い、そしてこれまで歩んで来た道のりで蓄えたものを自在に取り出して組み合わせた南画は、南画の国際化と言えばかなりおおげさだが、それほどに鉄斎の呪縛も全くないもので、また独特な画風を持っている。若い頃の作は、前述のようにいかにも大正時代、昭和初期の流行の画風に染まり、印象に薄く、またどこか混濁した画面を感じさせるが、晩年の南画は千甕独自のものとして、鉄斎の晩年作が人気があるのと同じように、高く評価される時代が来るように思う。そして千甕のような才能が京都から生まれたところに、京都の貫禄を今さらに思う。方久斗のように比較的若くして死ぬより、90近くまで描き続けると、聴覚が衰えても視覚がしっかりしている限り、また認知症にならない限り、本当に放縦遊戯の世界で描けるという身本が鉄斎であり、また千甕ということだろう。千甕の甕は陶磁に携わっていたことによる号だが、これを「ちかめ」すなわち「近眼」と読んで眼鏡を生涯用いたが、画家はやはり目が大事で、耳が少々遠くなった方がいいのかもしれない。そのように楽天的に考え、筆者も長生きしよう。
by uuuzen | 2016-03-04 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
●『書家 金澤翔子 十年の軌跡』 >> << ●『琳派400年記念 新鋭選抜...

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