晩になるまで彦根にはいなかったが、つい先日TVであまり有名でないお笑芸人ふたりが彦根を訪れる番組があった。車で各地を移動するようで、彦根の場面はほんの少し、たぶん10秒ほどしか映らなかったが、そのふたりの言葉がとても印象的であった。

夜の何時か知らないが、冬場のことであり、午後5時にはもう暗い。そんな夕刻ではなく、8時頃であったと思うが、どっちにしてもその通りは全く人影がなく、ふたりはそのことに驚いていた。その通りとは、
「彦根市内を歩く」に載せた4枚目の写真だ。城下町にふさわしい通りで、どの建物も洒落た木造風の外観になっていて、観光客は必ず歩くだろう。そこが日暮れになるともう人影がないというのは、観光客を相手にしているからで、みんな夜になる前に車や電車に乗って帰ってしまう。外国人観光客が大量に日本にやって来ても、彼らの目当ては電化製品や薬など、自国に持ち帰って重宝するものがほとんどで、飲食に関してはさほどお金を使わないのではないか。嵐山ではそうだと聞く。高級な料亭で食事するより、コンビニで適当に買って食べ、その足で大阪に出て爆買いをする。京都でそうであれば、彦根がどういう状態かは明らかだ。それで昼間の観光客を対象に商売その他を考える必要がある。彦根城を夜間にも解放したところで、訪れる人の増加はまず見込めない。そういう施設が夜間の開いているというのは、夜も営業している飲食店が集まっている繁華街がすぐ近くにある場合で、それは京都は最適だが、それでも京都の繁華街は夜8時にはもうどの店も閉めてしまう。大阪と大きく違うのはそこだ。それで、筆者らも彦根を訪れた日は、夜に大阪に出たが、使ったお金は大阪での方が多いから、彦根はいつまで経っても日暮れになると誰も歩いていない街のままであり、大阪は相変わらず大勢が夜が更ける頃になっても歩いている。それをわかったうえで、彦根のよさもあると思えばいいが、先に書いたように、めったにTVに映らない彦根が、わずか10秒ほどで、しかも無人の街と言われると、何だか彦根は立つ瀬がなく、かわいそうではないか。だが、無理をして先の通りのどこかの店に入って雰囲気を紹介したところで、どれほどの人が夜間に彦根を訪れるか。TV番組もシヴィアに出来ている。よりたくさんの人が訪れ、お金がより動くようにと、飲食店も紹介されるから、彦根にある店が積極的に取り上げられることはない。そういう店がなくては人はその街に行かないかと言えば、そうとは限らない。

彦根と聞けば、美術通は有名な彦根屏風を思うだろう。中学生の美術や歴史の教科書でそれは今でも紹介されていると思うが、筆者は20代後半に勤務していた染色工房で、その屏風の人物を抜き出してキモノの絵柄にしたことが何度かある。親会社の呉服問屋から求められたからだが、画集からの模写作業がそれなりに面白かったことを覚えている。彦根屏風は国宝になっていたと思うが、そう言えば70年代の切手趣味週間の切手図案にもなった。風俗図屏風で、若い女性や伊達男たちが着るキモノの模様が華やかで印象的だ。彦根にあるので彦根屏風と呼ばれるが、彦根で描かれたのではないだろう。それはともかく、彦根城の天守閣、そして玄宮園を見た後は、また天守閣に向かう元の道にぐるりと回って戻って来た。そして、今度は博物館を見る番と思いながら、工事中の馬屋の付近できょろきょろしていると、博物館の場所がわからない。それですぐ近くにいた60歳くらいの係員らしき女性に訊くと、すぐそこだと方向を指示された。天守閣に向かう急な山道のすぐ右手にある木造建築風の大きな建物がそうであった。つまり、時計回りに城と庭園を見た後、元の場所に戻って来た。博物館はさほど古い建物ではない。ネットで調べると、市政50年記念として1987年に開館で、筆者が染色工房で彦根屏風から図案を作り出していた頃はまだなかったことになる。その頃、彦根屏風がどこでどう保管されていたのだろう。井伊家伝来の膨大な美術品や古文書などもそうで、よくぞ散逸しなかったと思う。博物館は明治に取り壊された表御殿のあった場所にそれを復元する形で建てたとのことで、なかなか落ち着いた雰囲気のやや奥まった場所に、理想的な形の建物として建っている。これが立方体の味気ない現代的なビルとして設計されなかったことに安堵する。美術品を展示する建物は鉄筋コンクリートだが、外観は木造風で、外から見る限り違和感はない。城付属の美術館であるので、また昔の建物の復元を考えたので、そうなったが、そうでない美術館でも木造風に鉄筋コンクリートで建てることはいいと思う。韓国の青瓦台もそういう設計になっているが、日本では木造は純粋に木造であるべきで、外観のみ木造風はあまり歓迎されないのではないか。大阪城がそうで、そのために姫路城や彦根城のようには重視されない。また、広い庭園が隣接しないでは木造風鉄筋コンクリートの美術館、博物館はかなりキッチュを思わせ、かえって立方体のビルの方がいいかもしれない。建物は周囲との環境との調和が大事で、彦根城博物館はその点、理想的な設計となっている。

館内に入ると、靴を脱ぐが、その時左手にまず目に入ったのが彦根屏風だ。ただし、複製だ。この国宝はいつも展示されているのではない。それで筆者らが訪れた時も展示されておらず、複製で我慢するしかなかったが、井伊家伝来のさまざまな美術品は当然全部展示し切れるものではなく、いろんな企画展が随時開催されるようだ。館内はかなり暗めだが、展示ケース内は明るく、また全体にとても広々として落ち着いた空間は、国立博物館と比べても劣らない。撮影してもよかったようなので、何枚か撮り、それがこれを投稿する理由になっている。ただし、カメラの調子が悪く、せっかく撮ったのに、写っていない数枚がある。それで投稿は今日と明日の二回になるが、明日は鉄筋コンクリートの天井の高い展示室とは違い、それと隣接する大名が寝起きしていた建物の写真を載せる。話を戻して、井伊家伝来として有名なのは能装束で、これは特別に展覧会が開催され、筆者は昔見て図録も所有している。展示品に能装束があるのは当然だが、驚いたのは、能舞台もあったことだ。それが今日の4枚目の写真だが、手前に座席がいくつか見えているように、たまに能が催されるのだろう。ただし、その時でも館内のガラスが嵌ったままであろうか。写真には2本の太い柱が写っているが、座席によってはそれが邪魔で舞台の様子が多少遮られる。これが鉄筋コンクリートでなければこういう柱はなかったかもしれない。京都岡崎の観世会館は、建物の中に舞台があって、雨天でも関係なく上演されるし、鑑賞も出来るが、彦根城のこの能舞台は昔のように復元したのに、鑑賞者側の場所がガラスで閉じられた空間で、何とももどかしい。鉄筋コンクリートは耐震のために必要であることはわかるが、味気なさはどうしようもない。だが、舞台には御幣が下がり、鏡餅も飾られているので、上演用ではなく、鑑賞目的の建物と考えればガラスの向こうにあるのは納得が行く。今日の3枚目は矢羽に注目して撮ったものだが、羽根にはいくつかのパターンがある。たぶん雉の尾羽と思うが、どれほどの数を確保したのかという哀れさと、こうした武具にも美意識を発揮した当時の人たちの思いの双方を感じる。野鳥もこのように自分の羽根が使われれば本望だろう。この博物館でとても感心したことのひとつに、各コーナーに詳しい展示作品の説明リーフレットが置いてあったことだ。全部集めて帰ったが、たぶん30枚はあった。どれもびっしりと説明されていて、教育的効果としては最上級のもので、それだけ彦根市が誇りを持っていることを示す。そう言えば、館内に男性の説明ボランティアがいて、外国人に笑顔で話しかけていた。展示室の順路は反時計回りで、確か最後の部屋に京都出身で藩儒となった龍公美の書の軸があった。龍公美は能筆家としても知られるが、その作品はかなり多く、筆者も持っている。彼は還暦過ぎであったか、京都に戻って詩社を開くが、彦根から京都に戻るには1日で歩くのは無理かといったことを考えながら部屋を後にした。