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●彦根城にて、その4(城の内部)
んてこまいの繁盛ぶりと言ってよい天守閣の内部で、これは階段がとても急で危険なことと、内部が狭いために人の流れがうまく進まないからだ。



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天守閣前は人影がさほど多くもなかったのに、内部は熱気でむんむんするほどで、麓ではなく、天守閣内部で入場券を買うのであれば、さらに混雑度が増すだろう。内部に入っても前が進まないのでしばらく待たされるというのを数回繰り返し、ようやく最上階に至ったが、その部屋は10畳はなかったのではないか。とても小さな部屋で、その中央に殿様が座っている姿を想像したが、実際はそうではなかった。戦が起こればそうしたかもしれないが、殿様は普段は城の下の平坦な土地の屋敷で寝起きしていた。それが博物館に隣接して復元されていて、撮って来たその写真は数日後に載せる。天守閣は上の階ほど部屋が狭くなるのは当然で、また遠くまで見通すことが出来る。その眺望を想像しながら誰しも天守閣に上るし、またその眺望をしばらくは楽しみたいから、客の列が長くなる。後がつかえているので、順に下へ降りてほしいと係員が言っても、その言葉に耳を貸す人は半分ほどか。またたいていは眺望は一瞥で充分と思い、係員に促されるまでもなく、下の階へと向かう。最上階での滞在時間はまちまちで、列を作っている間に前や後ろなど、それなりに覚える顔は天守閣に至って一気に散り散りばらばらになる。満員電車と同じことで、人が密集しながら待っている間は、人間観察が出来てさほど退屈しない。今日は3枚の写真を載せるが、撮った順で、最初の写真には遠くに琵琶湖が写っていて、これは天守閣の北西の窓からということになる。つまり、階段を上がるのは北西の玄関からかと言えばそうではない。階段はいくつかあって、また内部に設けてある順路は入場者のために決めたもので、江戸時代からその順で内部を歩くようになっていたのではない。3枚目の写真は家屋の建込み具合から反対の南東であることがわかる。2枚目は誰も注意を払わず、筆者はゆっくりと撮影出来たが、この井伊直弼の木造はいつ頃のもので、またいつ設置されたのか知らないが、向いている方角に意味があるのかもしれない。角にあったと記憶するが、1枚目と3枚目の間に撮ったので、北東角か南東角だろう。後者であれば琵琶湖の方を向いているので、あまり意味はない。やはり北東角に陣取って京都を見ているのだろう。だが、記憶をたどると、この写真を撮って写真の左手に進んだから、そっちは1枚目の撮影場所方向となる。1枚目を撮って3枚目を撮ったのであれば、筆者は時計回りに天守閣最上階の四方の廊下を歩いたことになるが、それでは2枚目の写真を撮った後、なぜ反時計回りに歩いたのだろう。2枚目には順路の矢印が写っていて、それは反時計回りだ。まさか最上階で順路が一部で逆になっていることはあり得ない。では、井伊大老の像は1枚目と3枚目の間にあって、東北を向いているのかもしれない。
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 それはともかく、この大老の像は筆者の眼前に突如現れたといった感じで、不意を突かれて少々驚いた。井伊大老については中学の歴史で学んだが、筆者は別のことで中学生の頃から知っている。それはまさにこの像と同じ姿で、切手に描かれていた。「日本開国100年記念」の10円切手で、1958年に発売された。当時筆者は7歳でまだ切手を蒐集していなかったが、どことなくアメリカの星条旗を思わせる青と赤の2色刷りで、中央に井伊大老の像が赤で印刷されている。この像と彦根城天守閣内部の小さな木造は同じ格好だ。この記念切手とは別に「日米修好通商100年」の切手が2年後に10円と30円、そして2枚を組み込んだ小型シートが発売された。筆者が記念切手に関心を持って集め始めたのが小学5,6年生で、その頃は封書は10円で、30円切手がえらく高額に思え、またどういう時に使うのか疑問で、「日米修好通商100年」の30円切手は敷居が高かった。それはともかく、日本が開国するかどうかという問題が起こった時、井伊大老はそれを推し進め、反対者を粛清した。それが安政の大獄で、そのような強硬手段に出たので、結局大老は反対派の浪人たちに殺されてしまう。そういう人物についての評価は今後も揺れ動くのではないか。アメリカとの関係が良好であれば、井伊大老はよくぞ断行したと言われるし、また今ではその意見が大きいので、先のような記念切手の図案に採用された。鎖国から開国し、そして今の日本があるという見方をすれば、井伊大老は英雄で、また彦根市は鼻が高いが、それで天守閣内部にも像を飾っている。昨夜気づいたが、彦根城には大老の大きな銅像が建っている。筆者らはその場所の前を歩かなかったので、それがあることを知らなかった。その銅像の向きと天守内部の像の向きは同じになっているのだろうか。切手の図案にあった大老の像は横浜にあるらしいが、開国の象徴が井伊大老ということで、それで義務教育でもそれを教える。それなのに、城内部のこの像は前述したように、筆者が見た限り、誰も立ち止まらず、注意を払わなかった。それほど開国が遠い昔で、もうどうでもいいことになっているのだろう。それに、筆者は安政の大獄の血生臭さは嫌いで、それがあったので大老が桜田門外の変で残酷な死に方をしたのかと思ってしまう。そうそう、安政の大獄で死ぬ吉田松陰も記念切手に登場したことがある。「日本開国100年記念」や「日米修好通商100年」は凹版だが、吉田松陰の肖像が描かれる1959年発行の「松陰100年祭PTA大会記念」は茶色のグラビア印刷で、かなり地味だ。また「松陰100年祭」と「PTA大会」がどういう関係があったのか、この抱き合わせは、井伊大老とは各段に扱いが悪い。それでも大老を切手に使ったからには、松陰もという声が上がり、それで翌年発行したのではないか。子どもの頃はそういうことは思わなかったが、今ならそのような大人の事情を察する。それはともかく、政治をするには命がけで、いつ暗殺されるかわからない恐怖があったので、粛清もあえてやったということなのだろう。そういう殺す殺されるの時代を経て、今の平和があるが、今の政治家は暗殺の心配はほとんどしなきうてもいいようで、その分、政治に真剣さもなくなったかもしれない。ということは、切手の図案に登場する政治家はおらず、誰が総理になっても同じで、今は国を代表する著名人はどういう分野の人がなっているのだろう。それに、もはや切手を貼って手紙を出す人がとても少なくなり、切手の図案はどうでもよい時代になった。
●彦根城にて、その4(城の内部)_d0053294_1383538.jpg

by uuuzen | 2016-02-19 23:59 | ●新・嵐山だより
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