ドキュメンタリーの映像番組が作られるほどに誰でもドラマティックは人生を歩むだろうか。昔『平凡』という雑誌があった。筆者が小学生の頃にはもうあって、その表紙の題名を見ながら、その雑誌に紹介される俳優や歌手がなぜ平凡なのか理解出来なかった。
今ふとそのことを思い出し、平凡なのはその雑誌を買う人たちのことではないかと納得した。芸能人に憧れる、眩しく思う大多数の人がいるお陰でそういう雑誌は売れる。つまり、世の中は大多数が平凡だ。だが、それはいいことだ。平穏無事と言い代えてもよい。『平凡』のような雑誌が売れる時代は世の中が平和だ。筆者のこのブログも平和ならばこそ書き続けられるもので、また書いていることももちろん平凡で、最初の言葉を使えば、ドキュメンタリー番組のネタになることはあり得ない。そういうものは退屈で、世間的には無価値であることを筆者はわかっている。そのため、改めて思うに、筆者のブログを読むために訪れる人があることがちょっと信じられない。それはさておいて、今日は1月に何度か連続投稿した高松のメディアアート祭の会場となった玉藻公園内の披雲閣という江戸時代の建物の中から眺めた庭の写真を使う。これら3枚は1月のそのアート祭の展覧会の投稿の際に載せてもよかったが、展示作品とは直接には関係がないので見送った。なぜ今日は冒頭にドキュメンタリーと書いたかと言えば、この披雲閣の内部から庭を見ることは、江戸時代ではごく限られた人に許されたことで、そしてその様子を報告することは、大勢の人が見るドキュメンタリー作品のように珍しかった。だが、当然今はそうではない。誰でも入場料を支払えば隅から隅までじっくり眺めることが出来るし、撮影も可能だ。そのため、今日の投稿はドキュメントする価値はなく、全く平凡を絵に描いたような内容になる。それでもこうして投稿するのは、せっかく撮った写真であるし、筆者にとっての節目を記録しておきたいからだ。その節目はごく個人的なことで、他者にはどうでもいい。そこで思うことは、たとえば小説だ。これは他者に読ませ、しかもなるべく大勢に読んでもらうために、他者が面白がることを書かねばならない。そこにあざとさが出るが、技術も必要で、やはり金になることに挑戦することは平凡な人間には無理だ。何を言いたいかと言えば、筆者のブログは無料でもなかなか読んでもらえないほどに、他者のことを何も考えていないし、技術と呼ぶべきものもない。
それで本題に入ると、今日の写真を撮った時、筆者は何を思っていたか。最初の写真は青空を見てほしいが、黒っぽい点がふたつほど写っている。これはガラス越しに撮ったからだ。寒い頃であり、ガラス扉は閉まっていた。江戸時代はガラスはなく、全部障子紙を貼っていたはずだが、それでは庭は見えにくい。ガラスになってよかった。筆者の写真ではわからないが、このガラスは昔の手製で、ところどころに泡や歪みがある。そういうガラスはとても少なくなっている。ガラスなので割れるが、割れてしまえばもうそんな昔のガラスを調達することは出来ない。それで京都の古い寺では、せっかくその古いガラスが大半であるのに、ところどころに味気ない今の平凡なガラスが嵌っていたりする。それはそのガラスのみ割れたことを伝え、なおさら味気ない思いにさせられる。静かな寺でどうしてガラスが割れることがあるのだろうかと思うからだ。披雲閣の全部のガラスを確認していないが、何枚かは今のガラスが混じっているかもしれない。そんなことを思いながらシャッターを切り、そして今でも昔のガラスのように歪みのあるものが作られるのかどうかと思った。それは無理ではないだろうが、今の普通の透明ガラスの何十倍もの価格がするのではないか。そうであってもそうしたガラスを使うべきで、またそのための技術を失くしてはならないと思う。なぜ歪みがある方がいいのかと言えば、面白いからだ。つるつるで全く歪みもないガラスは、それはそれでそれにふさわしい場所に使えばよい。披雲閣という古い建物には似合わない。どうせ透明なガラスであるからどっちでもいいではないかと主張すると、何でもそのようにかまわない主義が蔓延し、平凡と非凡の区別がなくなる。非凡な披雲閣には非凡なガラスが似合うのだ。そしてもちろんそのガラス越しに見える庭の眺めもだ。最初の写真は絵はがきのようだが、実によく手入れがなされ、また後方の天守の形をした建物がよい。その前の石燈籠の配置も絶妙で、こういう立派な庭を江戸時代の庶民は見ることが許されなかった。そう考えると、筆者が今日ドキュメントしておきたい気持ちもわかってもらえるのではないか。2,3枚目は別の部屋から見た庭の蘇鉄だ。同じように立派な蘇鉄は栗林公園にもあった。そのことを思い出しながら撮った。これほどの蘇鉄が育つには200年や300年は要している。庭の全面を占めるほどに成長すれば部屋の陽当たりが悪くなって鬱陶しいという意見があろうが、部屋はたくさんあり、庭の蘇鉄の見栄えを優先すべきだ。わが家にも蘇鉄はあって、息子が小学1年か2年の時に学校で苗木をもらって来た。それから四半世紀ほど経って、2株に分けたが、鉢が小さいこともあってなかなか大きくなってくれない。筆者は蘇鉄が割合好きで、散歩中に見かけると何だかうれしくなる。松は常緑を尊ぶが、蘇鉄もそうで、今日の2,3枚目のように巨大に育つと、松をはるかに超えた迫力がある。現代のメディアアートもいいが、こうした植物園でも珍しい立派な植木を見ることは、印象がもっと長く持続する。今日はそのことをドキュメントしておきたかった。ま、年齢を重ねた存在を侮るなということだ。