賀状の束が去年より薄く、今年はついに下2桁の切手シートが1枚も当たらなかった。郵便局が発売する切手に関心を失っているのでそれでもかまわないが、ここ60年ほどの年賀切手の小型シートを持っているので、それがついに途絶えることになるのはさびしい。

昨日は従姉夫婦がやって来て、年賀状の下1桁に1のつくものがないかと言った。4枚出て来たので手わたすと、1枚で洛西のとあるスーパー銭湯の700円分の券がもらえるらしい。確か大人ひとり1000円の入湯料であったから、それが300円で入れることになる。年賀状はハンコを押してもらった後に返してくれるとのことで、切手シートは当たらなかったが、役に立った。話を切手に戻すと、一昨日郵便局で北斎の切手を4枚印刷した小型シートが8000円で販売されることを知った。1枚2000円の計算だが、切手の額面は1000円だ。1000円切手4枚がなぜ8000円で売られるかと言えば、どの切手も本金箔を使用しているとの理由だ。4枚の切手に使う金箔の価格は100円ほどのものだ。もっと安いかもしれない。それが4000円分しか使えないのに8000円で売るというところに、日本の郵便の金儲け主義が露骨に見える。郵政省があった時代はそんなことは絶対になかったが、株式会社になるととにかく金儲けだ。それで記念切手がやたらと発売され、筆者に届く郵便物に貼られる切手は同じものがないほどに多様になっている。先日の骨董品を鑑定するTV番組に登場した70代の男性は切手収集が趣味であったのが、熱が冷めて今はどんどんゆうパックを送るのに使っていると言っていた。筆者もそうで、長年集めて来た切手がとても軽いものになってありがたみを覚えない。だが、それは何でもそうなる可能性がある。長年コレクションして来た郷土玩具を、70代半ばになった収集家は筆者の知る限り、手放し始める。どこかに寄贈して展示公開してくれればいいが、受け取ってくれる機関がない。ならば金に換え、好きな人に所有してもらう方がいい。それで万単位の数を集めた玩具が少しずつ手元を離れる時にどういう気持ちになるかと言えば、案外さばさばするのではないか。何でもたくさんたまり過ぎると圧迫感がある。それを処分することでまた新たな人生が始まるような気がするようにも思う。

筆者はと言えば、収集はみな中途半端で、誇るべきものがない。それで気も楽だが、関心事が多く、それなりに物が溢れている。従姉の旦那さんは、それらをそのまま残して死ねばどうせがらくたとして無料で処分されるから、生きている間に換金して気楽に暮らせと忠告してくれる。気楽にというのは、多くの物から解放されるという意味よりも、売った金で窮屈に暮らすことから解放されると思ってのことだ。それだけ価値のある物を持ってはいないので、生活が楽になることはあまりないが、それよりも筆者はこれからの老後を気楽に過ごしたいとは思わない。これまでもそうであったようにこれからも暮らすだけで、これまで気楽を目指さなかったから、今後もそれを第一とは考えない。だが、気楽とは人によって受け留め方が違う。大金持ちであれば気楽になれると思って誰しも宝くじで億単位の金が当たることを夢想するが、金がたくさんあればあったで、それも物と同じで圧迫感があり、それに囚われて気楽にはなれないだろう。筆者が気楽で思い出すのは牛だ。のんびりと草を食んで牛はいかにも気楽そうだ。その一方、TVでは牛の肉は高価で、部位ごとに味が違うなどと、人間に食べられる運命にある。牛がそのことを知っていないことはないだろう。それでも生きている間はのんびりだ。同じことも人間に言えるかもしれない。人間は牛のように食べられるために殺されることなないが、死から免れないのは同じだ。そして、死ぬまでは牛のように気楽に生きることが出来るし、またそれが理想と思われているだろう。筆者の場合の気楽は、好きなように時間を使うことだ。そう決めて今まで生きて来たが、そうなると収入をどうするかの問題がある。女性なら適当に男をつかまえて奥さんの座に収まればいいが、夫の収入が少ないことになれば同じように働いて金を儲ける生活を強いられる。それは気楽とは言えないだろうが、それでもどこかで気楽と思う心の余裕がなければ生きている意味を感じにくい。この場合の気楽は、いつか本当に気楽な生活が送れるようになるという期待を持つというより、生きている今を牛のようにゆっくりと噛みしめることだ。同じように時を過ごすのであれば、少しでも物事をいいように思う方がよい。それは将来に夢を持てというのではない。現状にあまり不満を持つなということだ。そういう考えはかなり怠惰と思われるだろうが、自分を惨めに思えば心がすさぶのであって、世間の平均とか、人並みといったことを思わないに限る。

どうでもいいことを長々と書いている。今日は今月撮った冬薔薇の写真を4枚載せる。冬場は薔薇をあまり長く咲かせず、さっさと枝を切ってしまうのが正しい育て方と思うが、時々手入れを忘れられた薔薇を見かける。そして陽当たりのいいところではしっかりと開花して思わず立ち止まらせる。今日の4枚はそうして撮ったものだ。もう2枚あるが、それらは花がすっかり萎れた状態で、ここに載せる意味があまりない。美しくないとは言わないが、薔薇の方でももっときれいに咲いている時の姿を見てほしいと思っているに決まっている。それで今日の3枚はみな枯れた様子はないが、4枚目はいかにも冬薔薇で、これ以上は花弁が開かず、またそのまま花弁の先から茶色に変化して行く様子を示している。最初の2枚は9日、後の2枚は20日に撮ったが、どれも京都市内だ。陽当たりがよいことはこれほど見事な花を真冬でも咲かせるのかと、何やら人生になぞらえたくなるが、人間で言えば陽当たりは金のことか。そうとは限らない。栄養の源であることは確かとして、それは金のみとは限らない。大金持ちの高齢者が必ずしも幸福でいつも笑顔だと思うのは下司な考えで、むしろ金の多寡を考えず、自分の楽しい時間を持てる人の方が朗らかで、人も寄る。話は変わるが、これも先日TVでクリスマス・ローズの鉢植えをどう手入れすればよいかを伝えていて、日陰を好む植物であることを初めて知った。クリスマス・ローズはわが家にもあって家内が手入れしているが、花が下向きに咲き、また薔薇とは全く似ていない花の形で筆者は好きではない。冬場には花が少ないので愛好されるが、筆者は真冬でも大輪の花をつける薔薇の方がはるかによい。そういう薔薇は遠目にも目立ち、花が少ない季節だけによけいに心を温かくする。そんな思いでシャッターを切ったのが今日の4枚だ。どれもたまたま見かけたもので、それだけに街中で見かけてもう二度と会えない美女のように印象深い。さらに言えば、放ったらかしにされているところがまたよい。植えている人も忘れていて、手入れが行き届いていない。その自然さがいいのであって、管理し尽くされたような薔薇園の薔薇にはないアウトロー的な味わいが漂う。もっと言えば、これらの薔薇は気楽に咲いている。管理されていないからにはそうだ。野生の薔薇とは言えないが、陽当たりのいい場所で放置され、すっかり萎れてしまっても切られることがない。あるいは誰も見向きもしなくなった状態になってやっと家人は気づいて茎を切るのだろう。その呑気さがよい。