京都に文化庁が移転するとして、どこにどのような建物を造るのだろう。府庁の近くが落ち着いた雰囲気だが、病院や警察でいっぱいで、風格のある府庁の建物に同居することも難しいだろう。

平安神宮辺りとなると公園をつぶす必要があるし、京都駅付近は芸大が移転するのでもう適当な敷地はないだろう。となると八条口より南となるが、斬新なデザインの建物にし、京都駅南の開発の大きな糸口を京都市は目論むかもしれない。だが、文化庁の名前からして、京都市内の文化の香りが大きく漂う地域がいいのに決まっているから、二条城か御所界隈をどうにかするかもしれない。また文化庁が引っ越して来ると、どのように京都市が活気づくのかそうでないのか、今ひとつピンと来ないが、京都に移転することに反対する京都人はいないのではないか。徳島にも政府の機関の一部を移転する話が出て、先日のTVでは徳島市長が笑顔で大きなことを言っていた。それは京都の人がだいたい思っていることで、天皇が住むべき場所は京都というものだ。明治天皇が明治時代に東京に移ってからこっち、京都はいつかまた天皇が戻って来ることを願っているところがあるようだが、原発事故で東京が危なくなったことや、これから予想される大地震を思えば、京都の方がまだ安全ではないかと、京都人でなくてもうすうす思っているだろう。南海トラフの大地震が起こっても京都市内は大阪ほどの被害を受けないであろうし、皇居を京都に移すことは密に考えられていることかもしれない。その前にまず文化庁をというのでもないだろうが、京都に来ればもう東京に移ることはないと考えられ、関西の重要性は次第に高まって行くのではないか。それはさておき、筆者は先月東京に行き、関西と何が最も違うかを考えた。それは古い歴史的建物が少ないことだ。奈良や京都に比べると歴史が浅いので当然で、東京に生まれ育った人は物足りなさをさほど感じないかもしれないが、筆者はつまらないと思った。もうひとつ思ったことは、明治天皇の存在感の大きさだ。明治天皇が東京に移ったことで東京は世界にも稀な近代的な都市になって行ったが、皇居を除けば明治神宮が都内の大きな緑の穴のような状態で存在していて、住民は普段はさほど意識しないだろうが、筆者のようにめったに東京に行かない者にとって、明治天皇の大きさというものを感じないわけには行かない。とはいえ、それもこのたび初めて明治神宮を訪れ、また表参道を車で走り、さらには多少歩いたので実感しただけのことで、明治神宮界隈を訪れなければ意識することはない。
明治神宮はザッパ・ファンの大平さんに車で連れて行ってもらい、そのことについては今後の「神社の造形」の投稿で写真とともに書くつもりでいるが、今日はその後に訪れた明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館だ。この施設については昔から知っていたが、今回は明治神宮を参拝したかったので、その後に訪れる予定を立てた。想像していた以上に建物も内部の壁画も立派で驚いたが、再確認したことは明治天皇への賛美だ。明治天皇と昭憲皇太后の御事績を日本画と洋画それぞれ40点ずつで描いたもので、これほど讃えられる天皇は初めてであろう。また今後もないはずで、それほどに明治時代は日本が大転換を果たし、近代国家になり得た重要な半世紀との位置づけだ。この施設については大阪や京都ではあまり知られていないと思うが、それは大阪や京都が東京に対して競争意識が根強いからだ。また明治神宮が東京にあっても、明治天皇の御陵は京都伏見にあり、そのそばには乃木大将を祀る神社もあるし、生まれも育ちも葛飾柴又の寅さんではないが、明治天皇の生まれは京都であることを思っているからだろう。とはいえ、その後の天皇は東京生まれの東京育ちで、天皇が京都に戻って来る可能性は低いのではないか。話を戻して、聖徳記念絵画館はパッと見は国会議事堂と似ていて、厳めしい。建物のデザインは公募で決まったが、中央部の頂上が円屋根のドーム状であるのは設計変更で、公募の図面ではそうではなかった。頂上部を丸くしたことで幾分厳めしさが減少したが、この建物の真正面には両脇に銀杏が並ぶ車道が真っ直ぐに続き、都内のどの美術館や博物館よりも落ち着いたたたずまいになっている。それは言いかえればやはり厳めしさだが、そこにこの建物が建てられた大正時代の人々の明治天皇に対する思いがうかがえる。また、名前のとおり、内部は壁画を見せるためだけの空間で、喫茶コーナーやほかの展示に使える場所はない。ということは、80点の壁画の大きさや配置が想像出来るが、またそれに匹敵する絵画群を展示する空間は日本においてこの施設以外になく、そこでまた明治天皇の大きさを感じさせられるが、その威圧感とでも言える雰囲気を好まない人もいるかもしれない。絵画はもっと自由なもので、また寛ぎをもたらすべきと考える人は、この館を訪れても楽しめないだろう。
だが、一度は見ておくべきで、それだけ有名な画家が総動員して壁画を描いている。壁画と呼ばれているが、壁に直接描いたのではなく、日本画では絹地、洋画では麻に描いたものを額装し、それをしかるべき壁に嵌め込んでいるのだろう。どの画家がどういう場面をどう描くかはどの程度最初に決められたのか知らないが、調和が重要であるのは言うまでもなく、かと言って画家は自分の個性をある程度は表現したいはずで、史実に基づいた考証を厳密にすることだけは絶対条件で、それ以外は画家の裁量に任されたのだろう。また1点ずつ、誰が、あるいはどういう団体が寄贈したかを記した立て札が設置されていて、画家に描かせるための資金を多くの人や団体が集めたことがわかる。画家個人が自分のお金を使って描き、作品を寄贈したケースがあるのかないのか、それを確認しなかったが、何しろ絵はみな同じサイズながら、縦横3メートルほどあり、また写真のように精緻に描かれているので、気軽に筆を走らせたという絵は1枚もなく、描くのに1、2年以上は要したはずで、自己負担出来る金額ではないだろう。先に国会議事堂に似た外観と書いたが、大きさはその3分の1ほどだろうか。幅は112メートル、高さ32、奥行き34で、館内の右手が日本画、左手が洋画であったと思うが、日本画と洋画をちょうど半々にしているところに、また明治時代らしさが出ている。これが江戸時代ならば洋画はなかったから、明治になっていかに西洋文明が日本で圧倒的な力を持ったかがわかる。文明開化とは西洋化のことで、明治維新以降アジアで最も早く近代国家を築き上げたことは、それだけ西洋文明を吸収することに抵抗がなかった。そのことがこの施設の日本画と洋画が拮抗している様子がいみじくも示す。だが、面白いのはやはり日本画で、また筆者が作風や名の知る画家が多かった。それに引き替え、洋画では今では知られない画家が目立ち、またどの絵も写実的であるのは当然として、そのことが洋画の多様性を無視していて、窮屈な印象を与える。それを言えば日本画も同じかもしれない。やまと絵調が基本で、たとえば鉄斎のような文人画調はない。この建物は鉄筋コンクリートで大正8年の着工で、同15年に竣工しているが、当時の西洋の洋画は表現主義が登場していて、この建物の壁画のムードはもう時代遅れとなっていた。つまり、日本画も洋画も同時代のさまざまな流派を網羅するものでは全くない。そのため、芸術性で言えばあまり見物ではないだろう。史実に忠実と言うのであれば、写真でもよかったが、当時のその技術では縦横3メートルでカラーということは不可能で、また写真には撮影出来ないことの方が多かった。
そこで思うのは、明治天皇や昭憲皇太后の実像をはっきりと示す絵がほとんどないことだ。当時は天皇は神で、画家が描くためにお顔をまともに凝視することはとても無理な話で、おそらく限られた肖像写真を元にするしかなかった。その写真もかなり修整されたものがあり、理想化が施されたが、そういう写真が使えたとしても、それとそっくりに克明に描くことは憚られたはずで、絵の中心人物として、誰が見ても明治天皇や昭憲皇太后であるとわかるような構図だけが求められたであろう。とても印象深かったのは、鏑木清方であったと思うが、昭憲皇太后を大きく捉えた一種の美人画風の作品で、そのお顔は幕末から明治にかけての浮世絵の美人そっくりであった。その様式化は清方の個性を一方で示しながら、昭憲皇太后のお顔がよくわからず、理想化したものと言ってよく、また清方は昭憲皇太后を描くように命じられ、そのように描くことも強いられたのではないかと想像する。他に印象に強かったのは、日露戦争を描いた中村不折の大砲が砲弾を撃つ軍艦を大きく描いた洋画で、日本画も描いた多才な不折らしいところを感じさせた。この絵は圧倒的な勝利に終わったことを伝えるためには欠かせない主題だが、80点の中でほとんど唯一大砲の炸裂の火花を描き、明治時代の暗部を感じさせる。それは昭和時代にはもっと大きくなり、原爆の惨禍ももたらすが、それもあって昭和天皇の事績を描く同じような壁画を連ねた施設はまず無理な話だ。仮にそうした悲惨な出来事を省いて、1964年の東京オリンピックや、70年の大阪万博などを中心に昭和時代を描くことも出来るかもしれないが、日本画家と洋画家の数を等しく選んで風格ある絵を描かせることはまず不可能だ。そう思えば、大正時代はまだこの館に並ぶような力作を描く画家がよくぞ揃っていたと思う。入館の際に館内が寒いからとの思いから、袋入りのカイロを1枚手わたされた。入場料のみでこの施設がどうやって維持出来るのか不思議だが、寄付する人が多いのだろう。作品はどれも保存がいいが、一度まとめて修復されたようで、それにも金がかかるから、重要文化財になっている建物とともに、肝心の内部の壁画も東京がある限りは開館した当時のまま保存して行くとの考えだろう。館内は撮影禁止なので今日はそれがないが、見終わって外に出て撮影した写真も1枚も写っていなかった。外観は少し大阪市立美術館も思い出させたが、ほとんど1,2年しか竣工が変わらない。国会議事堂は両館より10年ほど後に建てられた。そうそう、日本画と洋画を展示する建物の両翼に挟まれる格好で、中央の頂上部のドーム下の奥に、明治天皇の白馬の剥製が置かれていた。それが立派で、神社によくある白い神馬を思わせた。