正義が勝つ物語はいつの時代でも人気がある。それは正義がしばしば踏みにじられるからだろう。それどころか、正義の定義は曖昧で、正義を自称する者が実は悪の権化であったといった見方をする大人が多く、正義は子どものための言葉で、大人になってそれを振りかざすのは無粋な奴と思われかねない。
真面目や正義という言葉は口に出すことがはばかられる恥ずかしいもので、それを口にした途端、自分がまるで真面目や正義とは正反対の人間であることを披露するようなものと思う人は多いだろう。それはさておき、今日は去年の7月に京都市右京図書館で借りて見たDVDの映画について書く。なぜ今頃からと言えば、パソコンのデスク・トップ画面にこのDVDのケース裏面の画像のアイコンを去年7月から載せたままで、しばしば目につくからで、今日はまたそうであった。もうひとつの理由は、先日京都文化博物館のフィルム・シアターで見た『青い山脈』に今日取り上げる映画の悪の主人公である三島雅夫が、高校の理事長として同じような悪役を演じていたからだ。三島雅夫は筆者が小学生の頃に時代劇でよく見かけた。一度見れば忘れられない個性的な顔で、また悪役を演じる時の憎たらしさは圧倒的なものがあるが、こういう脇役がいて映画は成立するもので、それだけ三島の才能が優れている。先ほど初めて三島についてネットで調べたが、なかなか骨のある人物で、舞台俳優から映画に進んだ。左翼思想の持ち主であったらしく、何度か投獄されていて、そんな俳優が本作では田舎街を支配している議員を演じるのであるから面白い。本当なら本作ではその議員を追い詰める正義の味方である新聞社の記者を演じるべきであるのに、そういういい役はもっと男前か有名な俳優が演じる。それで損とも言える悪役を三島は本作で演じたが、一丸となってこの映画を作るという目的はどの俳優たちも持っていた。つまり、三島も心は正義なのだ。だが、正義が勝つ様子を描いた物語は、安心はするがあまり面白くない。本作もそう言ってよい。だが、本作は現実にあった事件をドキュメンタリー的に描き、しかもその事件があった埼玉の本庄という街の人たちをエキストラとして起用し、作りものの映画とは別の生々しさが付与されている。見所はそこだ。そして、見終わって暗澹たる気持ちにもなる。それは本作を作った監督や俳優たちも同じ気持ちであったはずで、そのことが映画の最後に語られる。つまり、同じような事件はいつどこでも起こり得るとの考えで、実際そのとおりだ。
本作の題名は最初『ペンは偽らず』であった。新聞記者の活躍によって街から腐敗分子が一掃されたからだ。だが、どの新聞社も同じであるかと言えばそうではない。三島演じる大西は、地元の新聞社や警察、検察庁まで丸め込んでいて、もちろんやくざを使って自分に楯突く者を震え上がらせている。それは金の力だ。大西は前科6犯というワルだが、そういう人物が陰で悪いことをして金を儲け、その金で権力者をすべて味方につけて街中を黙らせているということが、本当に日本であったのかといぶかる人があるだろう。筆者もそうだが、本作は1950年で、戦後から立ち上がろうとしていた当時ではそういうことは珍しくなかったようだ。騒然かつ混沌とした時代で、多少の悪いことをしてでも金を儲け、成り上がった者がその後の高度成長期で大きな会社を作って行ったと言ってもいいのだろう。地元の新聞社までが大西の言いなりであれば、大西は敵なしで、どこからも自分の城を崩される心配がない。大西のようなワルではないとしても、そのような地元で有名な人物はどの街でもいるだろう。本作で面白いのは、戦後日本の田舎街にもよそ者が入り込んで来た様子だ。大西の城が崩れ去る最初の徴候は、朝日新聞社の記者が5年前に本庄に赴任して来たことだ。5年経てば街のだいたいの様子はわかるが、地元の新聞社からは煙たがられるはずで、街の膿である大西の悪行についての情報はなかなか得にくいだろう。それがある日、ついに朝日新聞社の記者は嗅ぎつけ、記事にする。すると早速大西はさまざまな手を使ってその記者を追い詰めようとする。記者だけではなく、家族を脅し、また同僚にも牙を剥く。そういう状態ではたいていの記者は大西の不正を暴くことを諦め、その街から出て行きたくなるだろう。ところがその記者が赴任する前にいた同じ新聞社の記者も同じような目に遭っていたことが映画の後半でわかり、そしてその記者は応援に駆けつける。「ペンは偽らず」というのは、大西のことをありのまま記事にすることだが、次第に街の人たちはその記事に同調するようになる。やくざに脅されていた弱者たちが束になって大西を追い詰めることになるが、大西の勢いが次第に弱まると大西になびいていた連中は弱気になる。そしてついに大西は街から去るところで映画は終わるが、人間が本来持っている浄化作用がうまく働いたと言える。
だが、常にそうなるとは限らない。この映画でも大西が追い詰められて行く様子がどこか出来過ぎた漫画の筋立てのようで、粘り強い正義が結局は勝つという結論は、『青い山脈』と同じように、どこか見ていて気恥ずかしくなる。大西は地方の小さな街のボスだが、これが国会議員であれば警察や検察庁との慣れ合いはどれほどかと思ってしまう。大西が街では悪の頂点のように描かれたが、実際はさらに大物が背後にいたとされ、それは国会議員だろう。日本の戦国時代の武士はやくざのようなものと筆者は思っているが、ならばその後の幕府もそうなるし、明治維新後から現在までの国会議員も似たようなものだ。そのことは本作を見てより思わせられるようになった。たまたま本庄では悪が一掃されたが、その後どうなったかと言えば、大西と似たような人物が出て来たのではないか。同じことは日本中の街についても言える。本作で呆れるのは、大西やさくざはもともとワルを任じているのであるからまだいいとして、警察や検察庁、それに新聞社までが大西に便宜を図り、大西の悪行を見て見ぬ振りをすることだ。「ペンは偽らず」ではなく、ペンは金の力の前では平気で偽るということだ。それで本作は『暴力の街』という、もっとわかりやすい題名になったのだろう。このペンが偽ることは今でも行なわれているはずで、朝日新聞であるから信頼出来ることはない。そう思っておいた方がよい。また新聞社だけではなく、放送局もだ。国会議員がNHKに注文をつけ、NHKもそれにしたがう時代で、マスコスが正義の権化と思っていると大間違いだろう。確かに悪事は毎日のように白日の下に曝されるが、小悪事の暴きの陰で、国会議員の大悪事は揉み消しにされているのではないかと、誰でも思っている。つまり、正義は勝つという話は、小学生の子ども向きの道徳教育としてであって、大人になれば誰でも多少はずるいことをしてうまく生きて行く者が正直で賢いとされる。となれば、本作は子ども向きの映画かと言えば、子どもには難し過ぎる。それに大人が見てもかなり退屈な場面が多く、最後に近づくにつれて結末はわかり、映画としては成功しているとは言えないと思う。だが、それでも本作が1950年によくぞ撮影されたと感心することしきりで、またもはや日本はこのような映画を撮るような力も正義もないことに思い至る。映画を娯楽と割り切ってしまうと、監督も気楽だろう。本作も娯楽と言えるが、その枠からはみ出た部分が多く、そこに監督や俳優の正義感、意気を感じて襟を正したくなる。
本作は東宝の労働組合が会社から出させた1500万円で制作された。東宝以外に大映や松竹、それに劇団やフリーの人たちも加わったが、そのような例はほかにあるのだろうか。また、俳優陣が豪華になりはしたが、出番が少ない俳優も多く、主役がわかりにくい。労働組合が出させた資金によったのであるから、それは必要ないとの監督の考えだろうが、強いて主役を挙げればやはり街の一番の大物の大西で、悪に立ち向かう弱い正義の集団がもう一方の主役で、この世は巨悪の個人はいても、巨大な正義は弱者が勇気を持って結束した時にしか生まれないことを示唆している。そして、ペンの力の大きさを言いたいのだろう。だが、それは悪が使う道具でもある。同じ理屈で言えば、映画は悪の道具として機能もする。本作は労働組合が力を持っていた時代の産物だが、アメリカではソ連との冷戦が始まって、1948年にはマッカーシー議員が赤狩りを唱え、ハリウッドの映画業界から有名な監督たちが追放される。そして日本ではそれと同じ時期の1950年にマッカーサーによる共産主義者やその支持者の公職追放が行なわれ、また朝鮮戦争勃発のために共産主義の脅威とともに共産主義を嫌うムードが広がった。現在の日本の共産党が伸び悩んでいるのは、その頃から始まっていると言える。それはともかく、本作はレッド・パージが始まる直前に撮られ、その点でもきわめて稀な作品となっている。監督の山本薩夫は東宝の組合の代表を務め、本作以前に、本作にも登場する宇野重吉らの左翼系の俳優を積極的に起用したが、本作を撮る以前に労働紛争から会社を辞めている。商売替えをしたがうまく行かず、会社から振り込まれた1500万円で本作を撮り、制作費以上の興業収入を得た結果、独立プロを立ち上げ、社会派の作品を撮り続ける。60年代に入ってまた大手の映画会社に復帰し、娯楽性と社会性を持った作品を撮り続けるが、筆者はあまり注意してこの監督の作品を見て来なかった。日本の映画監督の多彩さを改めて知った。