行き着いた最後の部屋に展示されていたのが、今日の3,4枚目の写真であったと思うが、誰の作品かわからない。たぶん水の入ったガラス・コップを並べただけのインスタレーションで、これがどういうスピリットを媒介するのだろう。
筆者は襖の金砂子による雲の文様が薄暗い部屋に映えてとても優美に思えたので写真を撮った。これが明るくて白い壁面の美術館であればもっと味気ないインスタレーションとなったであろう。よく見ると部屋の違い棚にも何か置かれていて、それも作品の一部かもしれない。暗いうえにコップを倒してはならないとの思いが働き、コップの手前1メートル以上は前に進む気になれなかった。この近寄り難いという思いを惹起させるのが作家の思惑かもしれないが、作品として披雲閣側によくぞ求められたと思う。危うさを感じさせる点ではこの作品が一番であった。さて、最初の写真はそのひとつ手前の部屋の展示で、宇川直宏とやくしまるえつこの共同作品だ。誰でもすぐにわかるように、マネキンは夏目漱石のだ。顔はそっくりだが、体躯がぎこちなく、また痩せ過ぎで女性っぽいのが気になる。このマネキンの斜め前の円柱のガラス容器の中に入っている脳が漱石のものであることも即座にわかる。漱石を初め同時代の有名人の脳は東大であったか、保存されている。それらが並んだ写真が昔の芸術新潮に載ったことがある。筆者はそれを即座に思い出したが、近寄って見ると不自然で、作り物であることがわかった。ちょうど大勢の学生を引率して来た大学の先生らしき人がみんなの前でこの作品について説明していた。やはりそうで、本物は借りることが出来なかった。それはそうだろう。芸術作品の一部として使いますので貸してくださいと頭を下げてもそれは無理だ。それに漱石の霊も怒るのではないか。マネキンの横にTVが置かれ、手書きの原稿が朗読されていた。その声がやくしまるえつこではないか。映し出されていた原稿は校正箇所が多いもので、漱石が書いた本物かどうかわからないが、その原稿の小説がこのマネキンと脳の展示にどう関係するのだろう。マネキンと脳だけで充分と思うが、それでは夏目漱石のアイデンティティが保証されにくいと作家は考えたのかもしれない。
夏目漱石がなぜ選ばれたかと言えば、日本の代表的文化人としてかつて千円札で馴染んだことが大きな理由と思うが、ならば野口英世の方が今はふさわしいのではないか。ただし、野口ではその業績が今ひとつよくわからず、こうした展示の場合には困る。それはともかく、この作品はチラシによれば「憑依×こっくりさん×人工知能」と題された「スペシャル3」のひとつだ。この漱石のマネキンと脳は憑依でもこっくりさんでもないようなので、人工知能を表現していると思うが、ひょっとすれば漱石の書いた原稿は今はすべて大型コンピュータ内に入っていて、どういう言葉をどれくらい使ったのか、あらゆる研究が行なわれ、漱石の小説のように新たな小説が生まれ得る状態になっているのかもしれない。だが、それは無理に決まっている。同じ考えは昔からあるし、筆者も中学生の頃に思ったことがある。たとえばビートルズの全曲をあらゆる面から分析すればどう聴いてもビートルズという新曲が生まれるとの想像だ。それは実際に行なわなくてもビートルズ以降の特に日本のミュージシャンがやり続けて来ているが、ビートルズ的にはなってもビートルズと区別がつかない曲は出来ない。それはなぜかと言えば、ビートルズはアルバムごとにそれまでのどのアルバムにもない新しいアイデアを投入したからで、ビートルズの全曲をどう分析してもその新たなアイデアを紡ぎ出すことは出来ない。それは時代やまた各メンバーの生活と関係して生まれ出て来たもので、巨大コンピュータといえどもそこまで分析予想は出来ない。それはビートルズがもはやとっくの昔に解散しているからでもある。将棋などのきわめて限定的な規則の中では人工知能は人間以上の能力を発揮するが、芸術作品はそんな簡単なものではない。それでもコンピュータが作り出すたとえばCGやまた音楽があるではないかとの指摘があろうが、そうしたもののどこか味気なさは人間はよく知っている。また、百歩譲って漱石のすべての原稿をコンピュータが把握し、そこに現在の何かの主題を放り込めば、それを核にした新たな漱石的な小説は出来るに違いないが、それが漱石の書いた小説以上に意義や価値のあるものにはまずならない。得られる成果は漱石の二、三流の小説どまりで、名作は絶対に生まれない。それを求めるには、漱石の原稿だけではあまりに不充分で、漱石が考えたすべて、つまり漱石が生きていた間に思い浮かべたすべてのことや、感じたことなど、それに無意識も含めて把握する必要がある。だが、過去の人間ではそれは無理だ。それで生まれてすぐの赤ちゃんの脳に何らかの端子をつけ、その赤ちゃんが大人になって死ぬまでのすべての思考や感覚を数値化してコンピュータに取り込むことふが出来れば、肉体は死んでもその人の人格はコンピュータに保存され得るかもしれない。人工知能の開発者はそこまで考えているのかどうか知らないが、それをしたところで、やはり得るところは少ない。その赤ちゃんに限ってのデータが得られるだけの話で、人間はみな違うということを忘れている。したがって人工知能はごくごく限られたことを担うだけで、そのごくごく限られたことを個々の巨大コンピュータが受け持てば、その先に全人格性を担う人工知能が誕生するということもあり得ないと筆者は考える。そこで改めて凝視するのは漱石の保管されている脳だ。どういう理由でそれを取り除いてアルコール漬けにしたのか知らないが、遠い将来に脳の研究が進めば、物としてのその漱石の脳から生前の漱石が考えたあらゆることがわかるかもしれないと考えられたためではないか。つまり脳に何もかもが刻印されているという考えだ。このことに関しても筆者は否定的で、仮に漱石の脳が生き返ったとしても、漱石は自分の顔や体躯がないことに激怒するだろう。人間は脳だけではないのだ。
さて、「スペシャル3」の「憑依」については今日の2枚目の写真が相当する。これは宇川がネットなどで拾った有名人のサインを模倣した1000枚で、簡単に言えば贋作行為だ。アラン・ドロン主演の映画『太陽がいっぱい』では、ドロンは金持ちのぼんぼんのサインを偽造してなり済ます役として登場する。サインをスライドに撮って壁に拡大投影し、その上に紙を重ねて何度も練習するドロンの姿はとても印象的で、サインは偽造しやすいことを筆者は中学生の時に知った。そのため、宇川の1000枚のサインを見てもさして驚かないが、本物の偽造と疑われるのはまずいので、宇川はどの色紙にも自分のハンコを押している。これも学生の引率者の説明を小耳に挟んだのだが、宇川は他人のサインを精巧に模造すると、その他人の人格が自分に憑依することを感じるとのことだ。もっとほかの言い回しもあったが、先に書いたように、こういう行為は大昔からある贋作行為であって、新しいものではない。また本物と見紛うほどの贋作は、それを作った人が原作者と肩を並べ得たと自惚れるはずで、つまりは原作者が自分に憑依したと思う。有名人のサインをそれらの有名人と区別がつかないほどに模倣する行為は実は今でもよく行なわれていると聞く。ある骨董商から聞いた話だが、昔の有名な力士のサインを専門に模造している人物がある。そういうサインを田舎の相撲好きは喜んで大金で買う。サインの贋作は簡単なのだ。宇川のサイン模造行為は1000枚という量に圧倒されるが、模倣するのがきわめて困難な名画に挑戦してほしいものだ。あるいは1000枚も模倣する時間があれば、自分だけの個性ある書を見せてほしい。その方が実はもっと困難だが、それだけにより歴史に長く残り得る。夏目漱石のマネキンの部屋には、宇川とおぼしき男性がカメラを据えて何かを撮影していた。作品を鑑賞する人をつぶさに撮っていたのかもしれない。そしてそれは次の作品の素材になるとの考えか。本展のしめくくりとして書いておくと、「ウルトラ・フィーチャー」で取り上げられたブルース・ビックフォードとヴィヴィアン・メイヤーのふたりは、美大を出てそこでまた学生に教えるという人生ではなかった。そういう人物に本展が最大の敬意を払っていることは見上げたものだ。美大を出てどう食べて行くか。たいていの人はそこで挫折し、美大で学んだことを最大限に活かす生き方を諦める。そして、ごくごく一部の者が美大の先生になり、そこからまた一部が教授になる。そうした人は権威を持っているから、たとえば本展のような展覧会を企画することが出来る。絵や彫刻は徒弟制度の中で技術が伝えられて来た。それが美大が担うようになったが、4,5年で技術は伝えられるものではない。それで、頭でっかちになって知識と自惚れだけは多少増えたが、肝心の技術はさっぱりという芸術家が増えた結果、アイデア優先の時代となり、悪趣味でも何でも人の眼により多く留まった方が勝ちとでもいった作品や作家がもてはやされる。しょせん芸術は見世物で、ほんの一時人々を楽しませれば充分という、TVタレントと同じような商売になっている。