ネット上でDVDと同じ映像が見られる仕組みになっているので、DVDの売り上げで生活する作家はネットは敵になり得る。ブルース・ビックフォードのアニメ作品は最新作の『CA‘S’L』以外のほとんどはYOUTUBEで見られるようだが、いずれ『CA‘S’L』もそうなるだろう。

そうなった時ブルースはどのように収入を確保するのかと心配するのは間違っているだろうか。メディアアートで生きる者はメディアによって食べるのであるから、一方でそのメディアが自分の作品を無料で世間に晒されてしまう心配をしなければならない。だが、そのことは何十年も前からあった。カセットテープが流行った7、80年代、レコードやFM放送をそれで録音し、レコードを買わない人が増えると心配された。今はCDが売れないというが、ダウンロードで購入する人やYOUTUBEで手軽に楽しめるようになったからだ。そうなると、一方では物としてより重厚感のあるレコードやカセットが見直され、またミュージシャンの姿が見えるライヴが歓迎され、現実的な物に対する信頼はなくならないと思わせられる。ブルースが手作りした粘土細工を携えて来日することも、DVDやYOUTUBEの映像だけでは満たされない人の思いが多少は反映しているだろう。となると、メディアアートというものも手で触れる実在の物と無縁であることが出来ないと言えそうだ。ステラークが自分の左腕に生えた耳に向かって語りかけているような写真にしても、その本物の腕かあるいは耳が移植される映像を見ない限り、合成写真と思ってしまうから、映像や写真というメディアだけでは芸術性はうすっぺらいもののように思われる。これは視覚だけで足りるのではなく、触覚性が必要ということだ。ブルースの粘土細工はその双方に支えられているもので、本展の展示室に並べられたどれも思った以上に小さな作品を前にして感じることは、ブルースが両手を使って作ったものというリアルさだ。ただし、鑑賞者は作品を見るだけで、今日の写真にあるように触ることは出来ないから、視覚から触覚を想像するのだが、DVDを見ているだけではそういう思いにさせない。昨日の最後の写真の右端と今日の最初の写真の左端はつながり、合計で同じキャラクターが大小20個ほども並ぶが、昨日の写真の左下に小さなかけらが見える。土居さんによれば、展示中に一部が外れた。ブルースがその様子を見ないのにそのかけらを処分することは出来ないから、そのままそばに置いているとのことだ。小さい作品をTV画面いっぱいに見せるからには、細部を緻密に作らねばならない。今日の最初の写真の右側の黒い人形は、写真ではわからないが、櫛状のものでつけた細かい筋が全面にたくさん入っている。そうした細部へのこだわりはブルースの人形やアニメの特徴で、それはアメリカの娯楽映画には欠かせない手法でもあって、ユーモアとも関連が強い。

そう言えばブルースのアニメはアレックス・フェアへーストの映像作品のようにヨーロッパ的な死の匂いはなく、ザッパの音楽と同じでアメリカ西海岸の明るさがある。血の吹き出る残虐な場面が多いが、それもアメリカの西部劇やギャング映画のようにからりとしている。ステラークには感じられるSM性もなく、グロテスクではあっても粘土細工の人形アニメという手法によってそれは泥遊びのはちゃめちゃぶりを見る感覚に近い。だが、陽気ややユーモアを表現することがブルースの最大の思いではないだろう。そういう作品なら大手の制作会社がやる。つまり、『星の王子さまと私』のようなアニメ映画ではまず表現しない世界で、となれば非商業的となるが、そのことについてブルースはそうありたいと思っているのでもなく、ただ好きなように制作して来た結果、子どもが喜ぶような作品にはならなかったということだ。子どもを喜ばせようと思って作った作品は、大人が見ればどこか嘘っぽい。子どもに近づこうとして見え透いたことをあれこれするからだ。子どもはとても敏感で、完全に子ども向きと大人が思って作ったものをそのとおりに判断する。そこで、却ってブルースのようなアニメの方が子どもは素直に反応するかもしれない。ただし、その強烈な印象を抱えたまま成長し、その後どういう大人になるのかは予想がつかない。心配は無用と思うが、その子どもの親が見ることを許さないだろう。そして親は自分が教育ママとして描かれた『星の王子さまと私』と子どもと一緒に見る。子どもは大人になって何かのきっかけでブルースのアニメを知り、そして今まで見て来たアニメと比較し、そこに今まで知らなかった世界があることに驚く。話を戻して、本展で展示されたブルースの作品は、どのように選ばれたか。『キャスル』や『プロメテウス・ガーデン』など、すぐにどの作品で使われたかわかるものが多いが、そうでないものも混じる。だが、ブルースが重要作として選んだものばかりだろう。展示作品の8割ほどを撮影し、残り2割に含まれるものの中に、アルカ・セルツァーの薬のキャラクターである「スピーディ」が1体あった。前にも書いたように、これはブルースが影響を受けたストップ・モーション・アニメのTVコマーシャルで登場したキャラクターで、『キャスル』のジャケットにその姿が見えるが、本編には現われない。昨日の3枚目の写真「クーン・チキンズ・イン」の黒人を顔を看板にする宿もどの作品に使われたかわからない。黒人を差別的に表現したそのような顔は60年代前半の日本でもよく見かけた。ブルースはその表現を面白いと思ったが、そこには人種差別の思いはないだろう。筆者が最も見たかったのは、一昨日の2,3枚目の写真の、70年代初頭のモンスター・ロード沿いの堤に会った廃墟だ。そこにはホームレスが住んでいた。その様子が忘れられないらしく、そっくりそのまま粘土で再現してアニメに登場させた。ブルースの作品の発想の源には自身の体験や映画、それに尊敬する画家などがあるが、高松にやって来て披雲閣の庭などを見て新たな着想を得たであろうか。一昨日の最後に載せた写真は中国か日本か、東洋の建物や塔、それに庭が表現されている。『プロメテウス・ガーデン』には登場しなかったと思うが、ブルースが世界のいろんな地域のいろんな時代の特徴ある造形物に関心があることが想像出来る。来月は東京でどのような場所を見て歩くだろう。また展示は今回と同じようにガラス・ケースの中に収められるのではないことを願うが、大勢の人が押し寄せるのであればそうも行かない。ブルースはザッパの映像作品によって世界的に有名になったので、東京展ではザッパの人気が高まる機会になればと思う。本展は後3回投稿する。