兵力として息子を使うことにした。大晦日に息子が帰って来たので、正月休みの間に筆者のザッパ本を読んでもらうことにした。著者が読むより、誤字脱字が発見しやすい。
その任務を筆者から伝えられた息子はさほど嫌がらず、早速読み始めた。だが、そのことばかりに従事出来ない。昨日は終日家にこもって年賀状の宛名書きなどで時間を潰したが、今日と明日は年始参りに家内の実家と筆者の母親宅に出かけねばならない。それでまず今日は高槻であった。暖冬でしかも天気がよく、春めいているが、そう言えば12月27日に高松に行くと、もう白梅が咲いていた。少し早すぎると思うが、瀬戸内海はもともと陽射しがよく、京都よりかは開花が早いのではないか。それはさておき、高槻では6時間ほどいた。最初の3時間は義兄と飲んだ。それから義兄の長女夫婦が子連れでやって来て、話が弾み、また飲んだ。何年か前もそんなことがあって、その長女の夫がたくさん飲んで筆者が帰った後、泥酔したらしい。それで翌日の勤務に響いたと聞いたが、今日もそうであったかもしれない。明日は仕事と知ったのでお開きにしたが、筆者はまだまだ飲めた。筆者は最初は赤くなるが、それが収まるといくらでも飲める口で、かえって頭も冴えて来る。息子は筆者に似たのか、とても酒が強い。いくら飲んでも酔わないようだが、それは損だ。酒は酔うためにある。酔って気分がよくなるのがいいのに、そうなれなければ飲んだ酒はいったいどこへ行ってどういう効果を発揮するのか。酔わないのであれば水か湯でも飲んでいればいい。そうそう、明日が仕事というのは勤務医であるからだが、数年ぶりに見た彼の顔はかなり疲れているようであった。帰宅後に家内とそのことで意見が一致した。責任が重いのだろう。海外での論文発表もあり、働き盛りだ。筆者はいい話し相手とばかりにいろんな話題を持ち出すが、彼の仕事に関係することを訊くようにしている。筆者の関心事の芸術については相手は興味がないので、そういう話題はしないようにしている。そう言えば筆者は親しく話をする相手に合わせた話題をいつも持ち出し、サービス精神が豊かだ。それはそうと、今日の話の中でどう経緯であったか、筆者は本居宣長のことを口にした。その理由はおそらく12月24日に国学院大学の博物館を訪れたからだろう。もちろんそれだけではないが、上田秋成との論争に関心があり、どうしても宣長のことは気になる。それは筆者が20代前半だったと思うが、小林秀雄が本居宣長についての本を出したことに端を発している。筆者は読んでいないが、おそらく今読んでも面白いと感じるほどに前知識もない。それに本居宣長にいきなり入る前にまずは契沖かと思ったりするが、それにしても国学に関心を持つと残りの人生がそれでなくなる気もしているので、どこまで関心を持って何を読むかのところで右往左往している。そして、一方で宣長の故郷の松阪にも行かねばとの思いもあるが、こういった関心事は、20代に用意されていたことに気づく。あるいはもっと前の中学生だろう。たとえば、筆者は上田秋成の名前や『雨月物語』については中学の授業で知った。それらの名前が書かれた黒板を今でも記憶している。それからちょうど半世紀経って、秋成について詳しく知ったかと言えば、分厚い本も含めて5,6冊は手元にあるが、全部読んでいない。それでも秋成に縁の深い香具波志神社は去年訪れたし、その勢いで宣長の本拠地にも行ってみたいと思っている。
10代や20代で記憶し、気になり続けていることをその後の人生で少しずつ咀嚼するというのは、正しい生き方ではないだろうか。それほどに人生は狭く、短い。それに、成長期とその後をつなげたい思いがある。では、成長期のことが種子として、その後の人生でその成長を見届けるかと言えば、そんな単純なことではない。自分では成長していると思いつつ、実際は青年期とほとんど変わらないままの知識ということがよくある。人生には限りがあり、どんなことにも精通することは無理だ。それで青年期の関心事から最も優先すべきものを大人になって絞り込んで行くが、筆者の場合、そのひとつがザッパの音楽かと言えば、本を3冊も出したので他者からはそう思われるだろう。ただし、筆者はほかにも関心事がある。だが、そこで思うべきことは、あまりいろんなことで時間を取られると、本当にやりたいことが疎かになるとことだ。そこで昨日取り上げたシベリウスを思うと、彼は晩年作曲をしなくなった。それは創造の泉が涸れてしまったからだろうか。そして作曲以外にしたいことがなかったのかと思う。筆者は自分でやりたいことを見つけていつも時間が少ないことを感じているが、それもいい加減なもので、本当にしたいこと、またせねばならないと思っていることに全力投球しているかと言えば、恥じ入るほかない。たとえばの話、今後小林秀雄の『本居宣長』を読み、一方で国学の流れについてもっと関心を抱いたとして、何か言いたいことがあるのかどうかだ。それはあるにはあるが、その一種の先入観があって取り組むと大いに誤解するかもしれない。筆者が本居宣長に対して何らかの興味を抱くことになったきっかけはいくつかあるが、その時の興味の芽生えの本質を探ると、そこに何があるかを見定めておく必要がある。簡単に言えば、肯定か否定のどちらの心が大きいかだ。前にも書いたことがあるが、小林秀雄は『本居宣長』を音楽評論家の吉田秀和に献本したが、さっぱりわからないとの感想をもらった。小林はゴッホやモーツァルトを評論した人物であるから、音楽のみならず美術の本も書いた吉田秀和と通じるところがあるが、それでも吉田はわからないと正直に言った。
「わからない」とは「理解出来ない」か「同意出来ない」かのどちらの思いが大きいだろう。吉田は西洋人の奥さんで、小林ほどには日本の国としての源といったことには関心がなかったのだろう。筆者も吉田のように、「わからない」と最初から言えば気楽だが、まずは読んでからとの真面目な思いもある。だが、かじった程度で何がわかるだろう。その恐れがある。その一方、宣長はそんなに難しいことを研究したのかという思いもある。どんなに偉い学者であっても、その主張を誰にでもわかりやすく伝えることは出来るだろう。そういったこと、つまり宣長の思い、小林の思いが吉田はさっぱりわからないと言ったのだろうか。そうとすれば残念な話だ。だが、そういう残念は世間に無数に転がっている。それどころか残念ばかりと言ってよい。残念でないことはごくわずかに奇跡のように存在している。今日は久しぶりに大量の酒を飲みながら、若い医師相手に筆者の関心事の触りを伝えてしまった。それは案外これからの筆者の関心事への方向指示と思える。そう言えば去年夏から神社を片っ端から巡り、その写真をこのブログに投稿したが、手元には50か所ほどの神社の写真がたまっている。それをまたいずれ載せ始めるが、そういった何気ない関心の向きの中から本居宣長を思い出した。それはそうと、これは家内に行ったことだが、神社巡りを始めてからいいことがあった。そのことも宣長詣でをするつもりになったことかもしれない。今日の3枚の写真は、順に去年6月28日、9月7日、11月26日で、畑の小山は自然と崩れて来ている。前に立ちはだかる人生の山がこのように平坦になってくれればよい。だが、いつまた畑が掘り返され、新たな山の連なりが作られるかわからない。