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●「SYMPHONIE No 2 in D major, Op 43」
が深まると聴きたくなる曲がある。散歩中にふと思い出し、そのメロディを口ずさむが、長い曲となると、当然最も印象深い箇所で、しかも実際の曲に出て来る順とは限らない。



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長い曲とはたいていLP1枚ほどで、交響曲だ。秋にはそのハーモニーが似合う。今年は暖冬で真冬なのに晩秋の感じがするし、まだ黄色の葉を地面にすっかり落とし切らない銀杏がある。東京ではそんな木をよく見かけた。同じ秋でも京都の愛宕山では1か月早いと、隣りの自治会の住民でしばしば愛宕山に登っているYさんからつい先日聞いたが、北欧ではどうだろう。1か月どころか2か月ほどは早いのではないか。となると、今は日本の2月頃を思えばいいかもしれない。さて、今日は長年取り上げようと思っていたフィンランドの国民的音楽家のシベリウスの最も有名な交響曲第2番を取り上げる。昨日YOUTUBEで全曲を聴いたが、ここ数日来、ずっと思い出している。LPもCDも何枚か持っているが、今日の写真は最初に買ったLPだ。いつ買ったのか忘れたが、たぶん20か21の頃だ。阪急東商店通りの中古レコード店のDUNで買った。その50メートルほど先に有名なレコード店があったが、DUNの方が早く店を畳んだ。その先の有名なレコード店はくせのある店主がいて、よく海賊盤を奨められた。当時3000円台で、公式のレコードより利益が大きかったのだろう。筆者はその店主が気に入らず、あまり足を運ばなかったが、TVでついに閉店になったニュースを見て、それはそうだろうと思った。客に対して愛想が悪すぎた。そんな店はさっさとなくなればいい。LPが時代遅れになったので商売上がったりになったことだけが廃業の理由ではなく、店の雰囲気がよくなかったからだ。筆者はそう思っている。一方、DUNは親子で経営していたのか、当時50代後半らしきおばさんがいて、その人から今日の写真のレコードをお金と引き代えに受け取った。ロックの中古レコードだけではなく、クラシックも置いていたのは、幅広い客層を狙っていたからだが、それでも経営が難しくなったのか、いつの間にか閉店した。今は古本屋も消えてどこも飲食店になっている。家賃の割りに収入の少ない商売は成り立たなくなっている。
 さて、筆者はへそ曲がりなのか、あまりみんなが騒いでいるものに同調したくないところがある。ビートルズは例外だが、当時クラシック音楽で言えばビートルズ並みの人気があったカラヤンは、その演奏をろくに聴かないのに、何となく敬遠した。カラヤンはレパートリーがとても広かったが、当時の日本では何と言ってもベートーヴェンだ。そこで筆者はカラヤンとベートーヴェンからなるべく遠ざかろうとした。とはいえ、全く聴かないのではない。レコードはそれなりに買った。ただし、カラヤンのは1枚もない。ずっと後年、カラヤンやチェリビダッケといわば争った形になってチェリビダッケがベルリン・フィルから去ったことを本で知った。そして彼のレコードをほしがったが、その頃は録音がほとんどなかった。彼が録音嫌いであったからでもある。それがどういう経緯か、日本で読売交響楽団を指揮することになり、その様子がFM放送で確か生中継された。当然それを録音したが、その音の鳴り方にびっくりした。日本全体がそうであった。そしてチェリビダッケのブームがそこから始まったが、カラヤン人気が去った後、彼の演奏がふんだんにTVやCDで紹介されるようになって、筆者は世の中は平等に出来ていると思ったものだ。チェリビダッケはカラヤンのように男前ではないが、そのふてぶてしい貫禄はそれはそれでその演奏と相まって存在がある。それはいいとして、カラヤンを好まない筆者が、ひとつ驚いたのはシベリウスの交響曲2番だ。それがとてもよい。その演奏でカラヤンを見直した。そのLPは家内が買ったものを借りた。家内はピアノやヴァイオリンをやっていたこともあって、クラシック音楽のLPは筆者より早く、またたくさん買っていた。そしてカラヤンのものが多かった。それは仕方がない。それほどにレコード会社の宣伝がうまかったし、またその男前ぶりを強調した写真は、若い女性にレコードを買わせようとすることにとても効果があった。いわば芸能人だ。だが、もちろん指揮が下手ならば世界的名声は得られないから、その才能は飛び抜けていたのだろう。だが、指揮者は世界にたくさんいる。カラヤンだけ聴いて世界一の名指揮者と思うのは滑稽だ。
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 それでも、そういう人は自分なりの直観を信じてのことであろうし、カラヤンから始まっていろんな指揮者を聴き、そしてやはりカラヤンが最もよいと思う人は多いだろう。というのは、筆者はシベリウスの交響曲第2番をいろんな指揮者で聴いて来たが、結局最初に買ったLP,アンセルメ指揮のスイス・ロマンド管弦楽団の演奏で、1964年のデッカ盤で、発売後6,7年で聴いたことになる。このアルバムが最も好きだが、それが単なる擦り込みであることはわかっている。だが、限りある人生の中で最初に誰の指揮のどういう盤を買って聴いたかということは、一種の運命で、そこに好みが大きく入り込んでしまうのは致し方がない。また、そういう盤に数多く出会えることは人生の楽しみで、運命というか、出会いと言えばいいか、筆者はそれを信じる。そうそう、少し脱線するが、年末に出た音楽本で、とある小説家が書いたクラシックの入門盤の紹介がある。筆者はその小説家が大嫌いで、才能もないと思っているが、クラシック音楽のファンであることを知って意外であった。そして4、5万枚のLPやCDを持っているとのことにまた驚きながら、クラシック音楽通と言われるからにはそれくらいの数は持っているだろうと思い直した。だが、4、5万枚のアルバムを全部じっくり聴いたことがあるとはとうてい思えない。1枚1時間として1日10枚聴くと、1年で3650時間、10年でも4万時間に満たない。そして多忙であればせいぜい1日に2枚程度の割合で聴くのが限度だろう。それはいいとして、所有数を誇るより、どういう聴き方、そして幸福な愛聴盤との出会いがあったかだ。筆者はこのブログで毎月1回、そういった曲を取り上げているが、それらは名曲であろうがそうでなかろうが関係がない。どのように出会い、今どのように思い出となっているかが大切で、それを書き留めておきたい。そういうきわめて個人的な思い出などどうでもいいという人があることは知っている。だが、データ的なことや、誰もが知っているようなことを改めて書いても仕方がない。そういうものを筆者は無味乾燥と思っている。自分がかつてどういうように好きな曲に出会い、それを今なおどのように愛着を抱いているか。それは他人には関係のないことだが、作品との出会いやそれに愛着を抱き続けることは誰にでもあるはずで、その点で筆者の文章ないし思いに多少とでも同意出来る可能性はある。そして、たとえばシベリウスの交響曲2番と言えば、彼の代表作であるから、筆者の音楽の好みはごく平均的であることを示し、先にカラヤンを好まないと書いたことと矛盾しそうだが、カラヤンの盤ではなく、アンセルメを買ったところが筆者らしい。
 とはいえ、意識してアンセルメを買ったのではない。DUNに入ってシベリウスのLPを探していると、1000円という手ごろな価格で見つけたのがアンセルメ盤であった。そのLPを先ほどようやく探した。たぶん30年ほどは聴いていない。盤はやや重めで、一見傷がなさそうだが、B面の最初の方に大きなノイズが入る箇所がある。そんなことまで覚えているのは、当時よほど聴いたからだが、レーベルの芯穴周囲にターンテーブルの突起に差し込む際に出来る傷がほとんどない。それほどレーベル面を傷つけないように注意深かった。YOUTUBEでは本曲が何人かの指揮者の演奏が紹介されているが、アンセルメのものはないのではないか。これもつい先日、NHKのTVでフィンランド指揮者がこの曲を演奏した様子を見たが、アンセルメの演奏と同じほどの速度で、聴いていて安心感があった。筆者がこれはかなり違うと思ったのは、10数年前に買ったレナード・バーンスタインの演奏だ。重厚な演奏で貫禄充分だが、2楽章の最初の方だったか、アンセルメの演奏に比べてかなり遅い箇所がある。倍ほどに引き伸ばしているような感じで、どうもそこに違和感がある。だが、その演奏を何度か聴くと、アンセルメのものが早過ぎるように感じるから不思議だ。このようにクラシック音楽は指揮者、演奏者の違いによってどのように違って聴こえるかを知って行く楽しみがある。そして、先に書いたように、最初に聴いた盤はかなり影響が強い。筆者の場合、20歳頃の1000円は今では1万円ほどに相当する感じで、それだけ大事に何度も聴いた。これがたとえば高齢になって時間が少ない時に、溢れるほどのCDが安価で手に入ると、音楽がえらく軽くなった気がする。それでたいていは一度か二度しか聴かない。それも何かほかのことをしながら、考えながらで、若い頃のように熱心ではない。それはわずかに聴いただけで直感で判断出来るようになっているからとも言えるが、若い頃と違って何事も味気なくなっているのは確かだろう。
 だが、そんなことを思う時、若い頃に聴いたクラシック音楽の曲をまた聴くと、自分が年齢を重ねたことが実感出来ず、聴いている間は若い頃のままの気持ちになれる。そのことは、少しでも若い頃にクラシック音楽を聴く方が人生が楽しくなることを意味している。そして、筆者は20歳の頃に誰に教えられるのでもなく、シベリウスを聴こうとしたことは、直感として正しかったことを思う。以前に書いたことがあるが、当時シベリウスの評伝も買って読んだ。それはかなりショックな内容で、有名なヴァイオリン協奏曲や交響曲第2番を若い頃に書き上げた後、作風が変わり、内省的と言うか、韜晦さを帯び、しかも晩年に2、30年は作品を書かずに隠遁生活を続けたからだ。その頃に筆者は芸術家の老年に関心を抱いた。老いるほどに才能が枯渇することは自然なことかどうかだ。体力や気力が落ちて、若い頃のような溌剌とした作品は書けなくなる、あるいは書くつもりがなくなるとして、では晩年に意味がなく、その頃の作品もそうだと言い切れるか。その答えはまだわからない。20歳の筆者は今64になったが、自分ではまだまだと思っているからだ。それはさておき、筆者はシベリウスのLPをその後買い続け、交響曲は全部持っているが、それらはカラヤンの指揮のものだ。それもあってほとんど聴かなかったかと言えば、そうでもない。交響曲の1,2番はとても聴きやすいのに、その後はどうも様子が違う。フィンランドの深い森を連想させると言えばそうかもしれないが、2番にある圧倒的なうねりがなくなる。そんなことを去年、これも隣りの自治会のKさんと地元体育祭の時に立ち話すると、Kさんはシベリウスの4、5番がとてもいいと言った。それで筆者も考え直して、LPを引っ張り出すのは面倒なので、YOUTUBEでそれらを繰り返し聴いてみた。だが、圧倒的な感動はなかった。それで定評となっている2番をまた聴いてみようと思うが、それではシベリウスの後半生は意味がなかったのかどうかだ。才能は命のある限り涌き出るものかどうか。特に音楽ではどうなのかと思う。シベリウスと言えば、禿げ頭で眉間に深い皺を寄せた顔が思い浮かぶが、2番を書いた時の若い頃は全然別の顔をしていたであろう。聴き手は勝手なもので、たとえばシベリウスの交響曲第3番や4番が面白くないと思うと、さっさと別の作曲家の作品を聴く。シベリウスの専門家ではないのであるし、誰もがより好きな曲を聴こうとする。そして、筆者は40年ほど前にせっかくなけなしのお金で買ったシベリウスのLPをほとんど聴かず、相変わらず交響曲2番やヴァイオリン協奏曲を思い出すが、よさがわからないでいることは癪なので、いつかじっくり聴き込みたい。
by uuuzen | 2015-12-31 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
●『ROXY THE MOVI... >> << ●山また山、なおも

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