模様を扱う職業の最たるものは染織と言ってよい。昨日は女性の絵本作家を取り上げたので、それにつながる意味からも今日はアグネータ・フロックという、今回初めて名前と作品を知った女性作家の展覧会を取り上げる。

彼女はスウェーデンの国立芸術工芸デザイン大学のテキスタイル科を卒業し、40年以上テキスタイル作家として活動した。その後に本展の中心をなす切り絵を制作し始めたので、切り絵歴はまだ10年そこそこだ。1941年生まれで筆者より10歳年長だ。女性らしい優しい雰囲気の作品で、またいかにも北欧的なところを感じるが、当人はそういうことを意識していないだろう。日本の文様に触発され、鶴や青海波の文様を用いた切り絵もあって、それらは北欧的でありながら日本的という奇妙さが先立ち、成功しているとは言い難いが、それも本人は意識していないだろう。ともかく、北欧らしさ、彼女らしさがよくわかる展覧会で、予想外の収穫と言える内容であった。というのは、チラシやチケットのデザインがよくなかったからだ。彼女の切り絵の部分をそれらのデザインに使っているが、色合いやトリミングがとても田舎臭く、また平凡で、下手な学生の切り絵を見せられるのかと思った。ところが会場に入って作品を見るとその先入観が一掃された。どれも素朴で、どこか素人を感じさせるが、それは素人であるからではなく、そのような表現を求めた結果だ。では巧みな技術を隠し、また計算高い、つまりわざとらしい嫌味が見えるかと言えばそうではない。ほとんどの切り絵作品はA2ほどの大きさで横長画面にしているが、縁取りをし、左右対称感が強い。それで紙をふたつに折って切り進み、左右対称にしたくない部分のみ紙を広げ直してから片方ずつ切っているのだと思うが、画用紙ほどの厚さがあるのに、紙の縦中央に折れ目は見えなかった。その点がとても不思議だが、切った後に絵具で色を塗っているので、それで折り目が隠れているのかもしれない。
筆者は年末になると年賀状の図案を毎年切り絵で作っていることもあって、本展に注目したのだが、筆者の切り絵が左右対称であることも、より彼女の作品に親近感を抱かせた。だが、作品の大きさや紙の厚み、また絵具で彩色するなど、筆者の切り絵との共通性は左右対称性のみだ。それともうひとつ、画面の四方を輪郭として残し、そこにその内部の絵とのつながりを持たせる点だ。このつながりを持たせることを「つり」と言うが、1枚の紙を切り抜いて、切り絵が完成してもやはり1枚の紙として成立している必要がある。そんなことを重視しない切り絵作家もあるかもしれないが、普通は切り絵は絵が全部つながっていて、1枚のままであることが条件だ。その制約は絵を工夫する楽しさが一方にあり、またその不自由さの中で美が宿るが、アグネータの切り絵は筆者のそれのように完全な左右対称ではなく、より自由な絵の表現が出来る。物語性と言ってもよい。左右対称の厳格さの中での物語性で、見る者に安定感とともに、それを多少崩す動きを伝える。その点、筆者の左右対称の切り絵は、厳格性のみ強調され、かなり窮屈で、また題材の変化に限界がある。筆者も最初の頃はごく一部を左右対称でないような切り絵を作ったが、その例外性を導入すると際限がなくなる気がしたし、今でも思っているが、アグネータの作品を見て思ったのは、童話のような物語性をより作品に持ち込みたいのであれば、左右対称性のみとこだわらないのがよい。物語性を日本でもっとわかりやすい言葉で言えば、メルヘン的で、それは子ども、女性に馴染みやすく、男性はいわゆる「女子ども」のものとして重視しない場合が多い。ということは、筆者の左右対称の切り絵は男性的ということになるが、筆者は「女子ども」のためのものを見下げる気はないし、それどころか筆者の切り絵はそういったものにある詩情に欠けると思っている。だが、筆者は男であり、アグネータは女であるということの差が、同じように左右対称性の切り絵を作りながら、左右対称性を筆者は厳格に守り、アグネータはその枠組みを重視し、その内部での非左右対称性を目指しているところに出ていることを思う。

さて、筆者は色紙をふたつに折り重ね、裏側の片面に鉛筆で下絵を描き、そして折ったままでカッター・ナイフで絵模様を切り抜くが、アグネータは鋏を使っていることが会場内のモニターでの映像からわかった。だが、そこで不思議なのが、画用紙のように厚い紙をふたつに折って鋏でうまく切り抜くことが出来るのかどうかだ。映像はごく短く、肝心なところは見せていないだろう。彩色の場面ではかなり雑な塗り方で、紙の裏側までも絵具がこびりつくような手荒さで、これには少々驚いた。展示作品はみなていねいに塗られているように見えたからだが、アクリルのパネルに作品を嵌め込み、作品の表面をすっかりと平らにすれば彩色時の紙のたわみによる雑な仕上がり具合が見えなくなるのだろう。よれよれのシャツがアイロンがけされたようなものだ。また、映像で手がけていた作品は映像用の習作で、本展の作品はもっとていねいな細かい仕上げ作業を経ている。また、左右対称に見える部分は、確かにそのような下絵を描くが、アグネータは紙を折り重ねて切り抜くのではなく、紙を広げたままで全部切り抜くのかもしれない。つまり、左右対称性は彼女の個性、絵の効果として役立たせているだけかもしれないが、もしそうだとすると、手間を厭わず、しかもぴたりと左右対称に見えるように切るのであるから、高度な技術と言わねばならない。ともかく、この左右対称性は彼女の作品の大きな特徴、武器となっていて、その儀式的とも言える様式によって格調の高さ、また強烈な個性を獲得している。その左右対称性は額縁的で、彼女の切り絵は日本の紙芝居を連想させるが、そこからは絵本に容易に変貌し得る作風で、その予想どおりに彼女は絵本も作っている。先に左右対称性をわずかに崩す絵の要素は物語を生むと書いたが、彼女はそのことをよく知っていて、おそらくテキスタイル・デザインよりももっと自由な表現が出来ることを望んだ結果だ。それは、作品の物としての重量感、存在感よりも、絵をもっと多く描きたいとの欲求にも支えられている。1枚の絵を元に綴織を制作する場合、99パーセントの制作時間は織ることに費やされる。彼女はそれに我慢出来なかったというのではないが、自分の絵をもっと多く表現するには手軽な切り絵が手っ取り早いと思ったのではないか。そこでは色づけも簡単だ。それに、切り絵作家で有名になれば、今度はその切り絵を下絵にして綴織を制作させてほしいとの依頼もあるかもしれない。切り絵でも綴織でもまず大事なのは下絵だ。アグネータは手仕事なら何でも好むという性質のようだが、その中でも最も好むのは絵を描くことだろう。
それは切り絵の彩色からもわかる。白い画用紙を使うのであるから、切り抜いた絵にどのような色でも塗ることが出来る。筆者の切り絵は最初に選んだ色紙1枚により作品の色が決まってしまうが、それは白黒に還元出来る作品ということだ。アグネータの切り絵にもそのような影絵の趣はあるが、表現される絵は陰ではなく、日向の印象を持つものが目立つ。北欧の作家であるので、太陽への憧れは強いだろう。その太陽色と言ってよい橙色が、魚や鳥の脚といった決まったモチーフにごくわずかにアクセントとして使われるが、切り絵の切り抜いた部分と切り残した部分の面積比の計算と、そうして作り上げた切り絵に塗る色の数とその対比の量は、前者が先で後者がこじつけかと言えば、そうではなく、最初に色の配置配分が頭にあり、それにしたがって紙を切り抜いているのだろう。そこにも画家としての最初から最後まで見通した計画性があるが、となれば切り絵作家と呼ぶにはとても足りない豊かな才能と言うべきで、素朴でどこか雑に見えなくもないところはすべて計算づく、それも嫌味ではない、ごく自然な、好感の持てる人柄を表わしている。彼女が使っている絵具のパレットが映像でわかったが、絵具がパレット上で固まっていて、また色が混ざって渋かった。使う色が決まっているので、それでもかまわないのだろう。それに水彩であるので、素早く塗ってもむらが生じるが、それがまた切り絵の鋭い線と相まってちょうどよい。繊維のごわごわ感を連想させてもいて、それは温かみにつながっている。筆者の切り絵は均質な色の色紙を使うので、そういった手作り感が色彩面からは表現出来ない。では、アグネータはなぜわざわざ画用紙を切り抜いてそこに彩色するかだ。より自由を求めるのであれば、切り抜く必要はなく、鉛筆の下書きにしたがって絵具で彩色すれば同じように見える作品が仕上がるだろう。画家ならきっとそう思う。そこがアグネータがデザインを学んだ作家であり、また工芸という手技の重視が染みついているからだ。手技とは面白いもので、アグネータの切り絵を切り絵ではなく、そのまま画用紙にそっくりに描いても、同じ味わいは表現出来ない。わざわざ切り抜いた絵に彩色するからこその味わいがあり、またその遠回り、制約の中でより独特の芸術性が高まる。

会場の最後とそのひとつ手前の部屋では切り絵以外の作品が展示されていた。40年以上テキスタイルの仕事をした後に切り絵を始めたのであるから、2000年に入ってからだろう。2004年にNHKの「おしゃれ工房」という番組で紹介され、そのテキストの目次に2年間作品が提供されたとチラシにあるので、10年前に知る人ぞ知るであった。切り絵を始めてほとんどすぐに様式を確立し、その作品が日本でも知られるようになったのは、長年テキスタイル・デザインに携わって来たからで、切り絵と染織は共通点があるということになる。それは冒頭に書いたように「模様」の言葉で理解出来る。切り絵は模様的でなくてもいいが、アグネータの切り絵は様式性がきわめて強い。それは切り絵という制約のある技法には馴染みやすい。それどころか、その様式性を持つことで個性が強化される。筆者は染色家でまた今は毎年年賀状で切り絵を作り、それを印刷するが、模様ないし文様、それに様式ということには関心が大きい。これもまた自分のことを書くが、切り絵を始めたのはネットで左右対称の切り絵を見た後、すぐに自分も出来ると思い、そして色紙の四方を切り残して額縁にするというアイデアを最初の作品から適用した。その最初の作品から最新の年賀状の図案まで、方法論は全く変わっていない。つまり、最初から完成していた。アグネータの切り絵も同じであったのだろう。彼女のタペストリーは色合いも絵柄もいかにも北欧のメルヘン的なもので、切り絵作品と同じ作家のものであることがわかる。ただし、切り絵は切り抜いた背後に白い紙を充てるので、作品の印象はきわめて明るい。綴織では白い面積を多く取ることは基本的な稀だろう。白い壁をもともと暖かい絵柄で隠すのがタペストリーで、また白い部分は汚れやすい。そういった色の制約がアグネータを切り絵に転向させたかもしれない。切り絵のほかにクリスマス用のモビールはヴェルヴェット素材のオブジェなど、女性らしい手仕事の作品も展示され、彼女が生活を楽しんでいる様子がよく伝わった。それを示すのが写真で紹介された彼女と夫が大きな庭の片隅でテーブルに向かい合わせになって茶を飲む場面だ。夫はどういう仕事をして来た人かは知らないが、妻が好きなことを続けられるようにしたことは愛妻家だ。理想的とも言える晩年を迎えた夫婦の姿がそこにはあったが、アグネータの心は若い頃のまま瑞々しい。創造する者はそうあるべきだ。