心残りはよくない。だが、誰でもそれはあるだろう。そこで心残りについて思わないのがよい。思わなければ悔やむこともないからだ。
この忘れるということは大切だ。人間には生存本能としてそのための能力が備わっていると思う。過ぎ去ったことはどうしようもないから、ああすればよかったなどと自分を責めても仕方がない。もちろんそれは理想で、誰でも後悔することのひとつやふたつはある。また、後悔ではないが、長年気になり続けていることは誰にもあるだろう。筆者は高槻ですぐに思い出すことがある。そのことをどうにかせねばとは別に思っているのでもないが、気になると言えばなる。そのひとつに、昔大阪に住んでいた頃、筆者の家の斜め向かえに引っ越して来た家族の息子がいる。彼とは20歳頃に会わなくなったが、どういう拍子か忘れたが、年賀状を交わすようになった。それも20年ほど経ってからであったと思う。彼は大阪で確か成人し、会社員になって地方に転勤になり、そして結婚して子どもを得た頃に高槻に転居した。その頃に筆者に年賀状が届くようになったが、そのきっかけを覚えていない。たぶん筆者の個展を何かで知ったのか、とにかく筆者が京都に住んでいることを知り、そして年賀状を送って来るようになったが、会ったのは一度だけだ。それも個展を開いた時だ。彼は高槻のある町に家をかまえたが、家内に訊くとその町に行ったことがないと言う。それで高槻も広いものだと改めて思ったが、彼の家がどこにあるかは地図で調べればすぐにわかるのに、訪問したいとまでは思わないのでそのままになっている。だが、10月19日に高槻で自転車を借りて古墳まで走った時、途中で彼の住んでいる町を通りかかった。詳しくは調べていないが、筆者の記憶によれば、家の前を通った可能性が大きい。そのことはたまたまで、また長年気がかりであったことが、何気ない拍子に氷解したと言えばいいか、高槻にまつわる長年のひとつの心残りが晴れた。その町は筆者の想像とはかなり違い、とても暮らしやすそうで、また環境もさほど悪くない印象であった。それでかなり高槻に抱いていたイメージが変わった。筆者は高槻は文化の点ではほとんど見るべきものがなく、暮らしてもさっぱり面白くない街であると長年侮っていた。それが古墳公園やまたその近辺の神社を巡ったことで、大きく印象を変えた。そして思うことは、わずかに知っていることで全体を推しはかることの危うさだ。高槻は古墳時代に遡る歴史のある街で、また決して文化度の低いところではない。大阪と京都に挟まれ、目立たないだけだ。これは茨木市にも言える。考えてもみればわかるではないか。京都と大阪に挟まれた街道沿いが、歴史が浅くて面白くないはずがない。
家内の誕生日にちょっとした昼食をと考えて出かけた高槻であったのに、駅に着くなり古墳を思い出し、また食事の後で閉鎖直前の民藝店を発見し、そして古墳を見に行くのに便利な貸し自転車屋を見つけ、さらにはこれも10年ほど気になり続けていた西国街道沿いの仇討のあった有名な場所から西へと自転車を走らせることが出来、しかも古墳の埴輪は思っていた以上の優れた出来映えで、好天も手伝ってその日は最高によい気分になれた。今日を含め3日間で古墳や埴輪の写真を全部掲げるが、そのほかに別の投稿に使う発見物がいくつかあり、知っている街でも知らない地域に面白いものがたくさんあることに気づいた。遠方に出かけずとも楽しいことはあるということで、近くの街を侮るべきではない。それに、筆者にとって高槻は近くでも、今城塚古墳を遠方から見学に来る人はもちろんあるはずで、距離が近いか遠いかは関係がない。つまり、高槻であってもニューヨークであっても同じことで、どちらが上とか下とかは言えない。何に関心を持つかで価値は変わるし、また関心事は常に変化すべきで、それが多少とでも老いの速度を遅らせる秘訣になるだろう。さて、古墳は近年整備されたが、それ以前は一帯が荒れた森のようであったらしい。それを整備し、また見学者のための建物を造ることは、かなりの費用がかかったはずだが、高槻市がそれを捻出したのはそうとうな文化度を示す。埴輪を目の前にして筆者がまず思ったことは、大阪市内であれば、悪戯する連中がすぐに現われるのではないかとの心配だ。焼物であるので、簡単に壊れる。高速道路に自転車や消火器を投げ込む馬鹿野郎が頻出している昨今で、せっかく復元した見事な埴輪を何の負い目も感じずに破壊する者はどこにでもいるだろう。そして埴輪がそういう被害に遭えば、また焼き直せばいいようなものだが、それには費用がかかるし、また壊されたという記憶は消えない。それは嫌なものだ。幸いまだ損害は被っていないが、安心は出来ないだろう。そういう脆い埴輪が、誰でも無料で間近で鑑賞出来るのが今城塚古墳で、また一帯はきれいな公園になっていて、くつろぎの場所としては文句なしだ。筆者らは最初目的の神社を訪れ、それから自転車で2分ほどの古墳を目指したが、方向音痴であるから、全く反対方向に進み、先ほど走った道にまた出て、西国街道にまた入り込んだ。それもしばらくは気づかなかったが、どうも先ほど走った見覚えのある景が続いた時に、後方でついに家内の不満声が聞こえた。結局15分ほどよけいに走り、ようやく古墳への道に戻ることが出来た。そうして用水路沿いの狭い道に入り込むと、筒状の埴輪が並ぶ景色が目の前に広がった。そこで撮ったのが、「その1」の最初の写真だ。これは前方後円古墳の前方の頂上の辺だ。
用水路沿いの小道に入る前は芥川の支流で何と呼ぶのか知らないが、川沿いをしばし走った時はなかなか気分がよかった。その辺り一帯は桜の名所らしいが、嵐山よりも桜の木が多いかもしれない。嵐山はもう桜の名所と呼ぶには恥ずかしいほどで、高槻を侮るくらいなら、嵐山を恥じるべきだ。芥川で思い出したので書いておく。筆者が昔勤務していた設計会社に、直接の上司ではなかったが、いかにも田舎出の人のよさそうな眼鏡をかけた男性がいた。たぶん筆者より3,4歳年長だ。その人が職場結婚し、同じ階の机が近かった筆者はその人の新居に招かれた。もちろん筆者だけではなく、全部で10人ほどであった。その新居が芥川町で、国鉄の高槻駅から徒歩で10分ほどのところであった。芥川のすぐ近くで、下町と言ってよい地域だが、もう40年近く経っているので、かなりその一帯も変わったかもしれない。ともかく、その招待以降、その近辺に訪れたことがなかったが、10月19日は自転車で近くを走り抜けた。その人はとっくに定年を迎え、また筆者のことも覚えていないはずだが、高槻と聞けばその人の家を訪れたことも時に思いだし、その一種に気がかりも今回の古墳見物の際にかなり晴れた。また、そうした気がかりは切りがないから、気がかりなどと思わないことだ。気がかりというものは、なくなった尻からまた芽生える。それが人生というもので、誰しも目の前に次々とやって来る事態に対処し続けねばならない。それはともかく、いつになれば行くかと心の隅でかすかに思っていた高槻の今城塚古墳は呆気ない形で経験出来た。思ってすぐに行動することは気持ちがよい。それは天気がよかったせいでもある。古墳を見学した後は記念館をと、その玄関前に回ると、当日は休館日であった。家内はそれも調べずに筆者らしいドジと言ったが、筆者は当日急に古墳を見に行くことにしたから、休みであることは知らなかった。それで再訪したいかと言えば、そうでもない。復元埴輪を堪能出来ただけで充分だ。その後は神社を2,3巡り、そして自転車を返却し、また民藝店を覗いた。70代前半らしき夫婦は筆者を待っていたようで、奥からまた別の商品を持ち出して質問して来た。それはたいしたものではなく、昔流行った観光土産であると言うと、すぐに納得してもらえた。それも民藝品とは言えるかもしれないが、民藝ブームに便乗した笑い物で、酔った客が面白半分で買うものだ。筆者は無料でもほしくない。その民藝店は通には人気があったようだが、主の弟夫婦は全く関心がないようで、また関心があっても民藝で商売を続けることは難しい。それに商店街の地価の高い場所だ。さっさと処分しないと、固定資産税だけでも大変だろう。その店を知っている人たちの思い出だけの中で店も主人も生き続けるが、それもそうしたことを覚えている人が生きている間だけで、古墳に埋葬されるような人物でなければ歴史に残らない。そう考えると埴輪作りの職人は腕の発揮のしようがあった。今の郷土玩具はもっとはかないものだ。ま、そんな心残りのようなことは思わない方がよい。