『インド サリーの世界』を午後4時少し過ぎまで観た後、ひょっとすれば民芸館も無料かと思ってその前まで行くと予想は当たっていた。それですぐに入った。

いつもならガラ空きであるのに、やはり無料となれば人は集まる。老夫婦や親子連れなどがちらほら見えた。この館は1970年の万博当時とほとんど外観も内部も変わっていない。これは「太陽の塔」とともに、万博公園内の施設としては唯一例外と言ってよい。だが、そのすぐ前にあった国立国際美術館は今は影も形もない。美術館入口のすぐ西向かいにあった万博ホールも同じ時期に同じ運命を辿った。ついにこのホールには一度も入らずじまいに終わった。美術館とホールの間はやや幅広いタイル張りの通路となっていて、そこから南を見ると、お祭り広場や「太陽の塔」の裏側の裾部分が大きく見えていた。その通路には、雨の日は困るという配慮からか、高さが5、6メートルはあっただろうか、鉄筋コンクリート造りの正方形の大きな傘がふたつ並んで建っていた。下から見上げると、ちょうどきのこの裏側のような放射状の模様が正方形の傘裏側に浮き彫りになっていた。実際は傘としての役目はあまり果たしていなかったが、ないよりかはましで、それにオブジェとしても面白いものであった。このふたつの傘オブジェが、90年代初めだったか、天皇が訪れるというので、新しく建て替えられたことがある。取り壊している時、そして完成したばかりの時に訪れると、以前と全く同じものが再建され、見違えるような白さで建っていたのをよく記憶している。それが10年ちょっとですっかり跡形もなくまた取り壊されたのであるから、鉄筋コンクリートも脆いもので、ただの消耗品に思える。
それはいいとして、春にここを訪れた時は、美術館の敷地を全部塀で囲んで中の取り壊し作業が見えないようになっていた。それが今回半年ぶりに訪れて驚いた。美術館とホールの跡地全部が駐車場になっている。万博公園は少しややこしい分割管理になっていて、広大な自然公園を含む自然文化圏というエリアがあって、そこに入るには別料金が必要だ。民博に行くには自然文化圏を通って行くルートと、そこを通らずに行くルートがある。前者はモノレールを使って南から、後者はバスを使って東から入る。自然文化圏料金を払うのが馬鹿らしいので、昔はバスをつかって東ルートから行ったものだが、帰りのバスが渋滞に巻き込まれることが往々にしてあり、そうなった時には阪急茨木まで小1時間もかかる。歩いても3キロもなかったと思うが、一旦乗ってしまうとバス停以外のところで下りるわけには行かない。モノレールは早くて便利だが、料金が高いし、それに自然文化圏の入場料も支払う必要がある。けち臭い話だが、とにかく万博公園を訪れる時はいつもどっちを利用するか悩むことになる。今回は民博の招待券を入手していたのだが、それは自然文化圏の入場券も兼ねていて、それで迷わずにモノレールを使った。東ルートを辿ると、自然文化圏に入らずに美術館、民博、ホール、民芸館に行くことが出来るので、自然文化圏に用のない筆者は大抵はバスを利用していたわけだ。だが、美術館はなくなったし、もうあまり東ルートで行くことはないだろう。話がそれてしまっている。言いたかったことは、自然文化圏の中には車を一切入れないというのが万博公園の管理団体の方針で、それは樹木などを保存するうえで譲れないためだ。東ルートを通って民博あたりに行くにはかなりの距離を歩く必要がある。そのため、バスを乗り入れてはどうかと何度も意見が交わされたが、結局電気バスの運行で今に至っている。つまり万博公園の中心にある文化施設あたりには、徒歩で行くか、たまにしか走っていない電気バスを利用するしかない。それはそれでいいと思うが、美術館跡地が駐車場になったのは、自然文化圏に隣接はしていても、自然文化圏ではないという考えからだろうか。どうも呆れた話だ。排気ガスが困るという意向はすっかり無視された。文化的な施設ではお金がかかるし、駐車場ならまだ儲かるという思いもあるからだろう。「太陽の塔」の北側は広大な空き地のお祭り広場になっていて、そこではフリー・マーケットなどの催し物がよく開催される。それと同じような施設に出来なかったものだろうか。だが、これはずっと不思議に思っていたことだが、民博とその北向かいにある日本庭園の間の通りにはよくタクシーが停車していて、それで乗り降りしている人をみかける。これは厳密には自然文化圏のエリアではないとは言えるが、自然公園のすぐ際を走るのであるから、車を乗り入れているのと何ら変わらない。どうもなし崩し的に車の乗り入れを許可して行ったようだ。そして、今年はついに一気に車が万博公園のど真ん中に陣取ることとなった。悲しい光景だ。これが現代日本の縮図というものだ。駐車場ではなく、もっと文化施設を建てて、万博公園を観光客誘致に利用すれば、ツアー客がどんどん訪れると思うが、そういう発想は大阪や国にはないのだろうか。
さびれてはいるが、民芸館が健在であるのは嬉しい。ここに入れば、いつでも同じ空気が漂っている。だが、以前は棟方志功の大きな版画が天井に近い横長の壁面全体を飾っていたのに、いつの間にかそれは撤去された。どこか別の場所に移されたのであろうが、それがなくなって、よけいにがらんとした空気が増した。この民芸館にはここしかない展示物がたくさんあって、たとえば大山崎山荘美術館と比べると、はるかに展示物は多い。今回も特別展とは別に、最初の大きな展示室と、次の中2階的な部屋において、新収蔵となった「日本の菓子型」と、それに「英国の古陶 スリップウェア」が展示されていた。これらだけでも充分に人を集める展示と思えるが、宣伝するにもお金がかかる時代でもあり、現状ではわざわざこの展示だけを見に来る人は少ないだろう。だが、後者に関しては、たとえば大山崎山荘美術館で開催中の『益子 濱田窯三代…』と強く関連した内容と言えるし、また会期も双方の展覧会はほぼ同じであるので、お互いが連携し合って、どちらも見てもらえるように出来なかったものだろうか。それはさておき、日本の菓子型は大阪の菓子の卸問屋山星屋の収集品で、民芸館に寄贈された中から100点ほどが展示された。山星屋のホームページには世界の菓子に関係するさまざな珍しい資料を見ることが出来る。菓子型は東寺の弘法さんの縁日でも毎月必ずどこかの業者がたくさん売っているので、あまり珍しくはない。1個2000円程度からとまだまだ安いので、いいものは今のうちに収集しておくべきだ。この菓子型を使用して、和紙を使って造形する作家が登場し、今後はもっと違った形で応用する者が現われるに違いない。菓子型の展示の中に宝珠をかたどったものがあった。それは初めて見るタイプのもので、ほしいと思った。ホームページのシンボルを宝珠にしているためだ。根気よく探せばどこかで売っているかもしれない。続いてスリップウェアだが、これには説明書きがあった。走り書きして来たので引用する。「20世紀初頭に製作、生産が途絶えてほとんど顧みられることのなかったスリップウェアにはじめて注目したのは、1909(明治42)年に出版されたロマックス著の”Quaint Old English Pottery”を読んだ柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチらだった。リーチ、富本はこの本から得た感動をもとに作品を発表し、それを見た若き河井寛次郎や浜田庄司に影響を与えた。1920(大正9)年にリーチが浜田をつれて帰英し、スリップウェアの全貌が明らかになる…」。浜田らはロマックスの本での17世紀の有名陶工の在銘の飾皿等とは違う、18から19世紀の英国中部の無名の陶工の手による縞や格子、抽象模様の円や長方形、楕円形の皿類(これらはオーブンに入れる鍋の役割をかねていた)に関心を示し、1924(大正13)年、浜田は10枚近いスリップウェア大皿を持ち帰った。これが柳と河井を結びつけ、民芸運動を本格家させる契機となったと説明は続いていた。ちょうどうまい具合に、来月中旬から京都文化博物館で『柳宗悦の民藝と巨匠たち展』が開催されるが、それを観た後にまたこれに関係して書きたい。
スリップウェアの展示室から休憩所を兼ねたわたり廊下に来ると、係員のおばさんが話しかけて来た。万博公園に着いた際、ちょうどお祭り広場ではキダ・タローを初めとして芸能人が何人か来ていて、壇上でトーク・ショーをしていた。その出演者を送迎する黒塗りのハイヤーが民芸館北側の日本庭園との間の道に5、6台停まり、運転手たちが車の外に立って談笑していた。それを窓から見下ろしながら、おばさんは「あまり知られてもいないタレントなのに、ものすごくおおげさなVIP並みの待遇で、こんなことをするから放送関係にいる駆け出しの人でも自惚れて勘違いするのよねー。ほら、公開放送が終わってあっちから何人もやって来たでしょう。あの人たち、ひとりずつこれに乗って帰るんだから、自分が偉い人になった気分になっても無理はないでしょうけれどねえー…」。そう言われて反対側の窓を見下ろした。そこからは民芸館の中庭が見下ろせるが、民芸館に入らずとも通り抜け出来るようになっている。そこに見たことのない若い男女のタレントがぞろぞろ続いて歩いて来て、その中のひとりが見下ろす筆者と目があった。だが、興味もないしもうすぐ閉館でもあるので、奥の「タパの美」の展示室にすぐに向かった。
タパは今までに何度かこの館では展示があったと記憶する。今回は「南太平洋の始源布」と副題がある。京都のローケツ染め作家で大阪芸大の教授でもある福本繁樹のコレクションで、氏が南太平洋に何度も出かけているのは有名だ。タパと氏の作品との関連も多少はあるかもしれないが、今日はその考察はしないでおく。かなり大きな布ばかりで、保存状態はとてもよく、こうした天井が高く、また面積の大きい会場でなければ展示も引き立たない。タパの材料の一般的なカジノキは栽培し、2メートルを越すと伐採する。そして径3センチの幹から貝で樹皮を剥がし、靱皮(内皮)を取り出して乾燥、保存する。蓄えていたものを水に漬け、湿して丸太台のうえでハンマーで打ち延ばすとタパの生地が出来る。ポリネシアでは白くて薄い生地を貼り合わせてつなぎ、巨大なものを作る。これに顔料で模様をつけるが、赤い顔料「エレ」の西サモア、褐色膠着剤を得るクワノキの樹皮「シケディ」のあるフィジー諸島、黒色顔料「ラマ(煤)」の西サモア、煤を得るクワノキの実を利用するフィジーといったように、地域によって特徴がある。模様づけは木版や竹製凹版(ハワイ)、孔版、あるいは筆や刷毛を使用する。ハワイ、タヒチでは華麗な装飾と繊細な風合いのものが発達したが、白人の入植で生活が急変して消えてしまった。しかし、今もフィジー諸島のラウ群島など、伝えられている場所もある。タパの模様はメリハリがあって、力強く、独特の美しさがある。こうした模様は今では陳腐な輸入民芸雑貨の繊維商品にきわめてうすめられた形で見られるものと言ってよい。だが、昨日も書いたように、本物にはびくともしない安定した貫祿と味わいがある。タパもまた民芸であって、それがすたれて行くのは止めようがないことかもしれない。福本氏の文章を引用すると、「クワ科植物の茎の心質と表皮の間にある強靱な繊維は、靱皮繊維とよばれ、湯のや紙の材料となる。それを糸にして織れば麻布が、ばらばらにしてほぐしてから漉くと和紙が、たたきのばせばタパでできる…」であって、タパは染織や紙と親類と言える。その意味でもインドのサリーを見た直後に鑑賞出来たことは、ちょうどつごうがよかった。