副題は「日本の画家たちが見た<異国>」。大阪歴史博物館を5時まで見た後、地下鉄に乗って長堀橋まで出た。そのまま連絡している地下街を通り抜けて、心斎橋にある仮称大阪市立近代美術館の心斎橋展示室近くまで行った。

地上を上がるとすぐに東急ハンズ隣の出光ナガホリビルだった。1階はガソリンスタンドになっているが、13階が以前は出光美術館で、昔2、3度訪れたことがある。不況のためか、何年か前に東京のは残して、大阪の出光美術館は閉鎖になった。一方、大阪は80年代のバブル期にさっさと美術館ぐらい建ててしまえばよかったものを、何をどう見当違いをしたのか、そうはならず、しかも現在のあまりに無残な財政状態ではとても美術館を新しく建てる余裕がない。だが、買い集めた美術品をそのまま死蔵するのは税金の無駄遣いの最たるものであるから、これをどうにかして展示公開しなければならない。そこで浮上したのが閉館になった出光美術館を利用することだ。もう何度もこの美術館で市所蔵の美術品の展覧会が開催されている。だが、訪れたのは今回が初めてだ。前もって入場券も手に入れ、歴史博物館を見るついでの19日に出かけることに決めたのだった。午後7時まで開いているのが嬉しい。都会の真ん中にあって交通の便はよいし、人もたくさん歩いているから、歴史博物館よりはるかに集客条件はいい。かなり空いているかと思っていたが、そこそこ人が次々と入って来ていた。10数年ぶりにこのビル内部に足を踏み入れ、ぐるりと内部を回ってエレヴェーターのところに来たところ、昔の記憶がまざまざと蘇った。1993年11月だから、息子がまだ8歳の頃だが、一緒に『ムンク展 「愛と死」』を見に来たことがある。その時、寒いながらもいい天気で、大阪国際女子マラソンが行なわれていた。ちょうど折り返し点がこのビル近くの御堂筋にあって、たくさんの人が走者を見ていた。ムンクは好きなので、展覧会があれば欠かさず見て来たが、この時は図録を買わなかった。経済的な事情が大きかった。それでも今は手元にある。2年ほど前にネット・オークションで入手した。あってもほとんど見ることはないが、こうして何かの機会に思い出した時、手元になければ困る。それでもあまりにたくさん展覧会に行くので、お金に余裕があったとしても、そのたびに図録を買うととんでもないことになる。今傍らに今年見た展覧会のチケットの半券があるが、しっかり束ねて3センチの厚みがある。うすいチケットでこれであるから、分厚い図録となれば天井に届くほどかもしれない。
ま、それはさておき、久しぶりに訪れたこの展示空間は、予想以上にすっきりとして明るく、鑑賞には申し分なかった。大阪市にお金がないならば、このままずっとここを利用するのも手だ。何より足の便がいいのがよい。新しく建てるとなると、どうせ中之島のまた辺鄙なところになるはずで、それなら今の方がずっとよい。チケットを手わたそうとすると、「今日は無料観覧日です」と言われた。会期が終わるまで9日ほどあるが、おそらく大阪に出ることがあってもここには立ち寄らないので、手元にあっても無駄だ。会場は大きな部屋がまずあった。そこから通路状の小展示へと続き、その奥にまた部屋がある。だが、最後のこの部屋は最初の部屋の3分の1程度の広さだ。展示は3部構成で、第1章「名所から海外へ-日本画家たちの”旅”-」、第2章「理想郷(ネバーランド)と日常-”心の旅路”から生まれた精神遍歴の”異国”の絵画-」、第3章が「遠い”異国”へ-洋画家たちの”旅”」となっていた。最初に感想を書くと、約50点の作品と資料の展示ではあるが、少なさを全然感じさせない充実ぶりで、予想をはるかに越えていた。もちろん全部を大阪市が所蔵しているのでもないが、こういう作品を持っていたのかと認識を新たにしたことが多い。美術展は京都に任せて大阪はほかのことに専念しているというイメージを払拭するのに充分であった。展覧会としてのテーマの立て方もなかなかよい。先頃、滋賀県美で『近代日本洋画への道』を見た時、明治期に盛んにヨーロッパに絵を学びに出かけた画家が多かったことに認識を新たにしたが、それとの関連からしてもこの展覧会は見所がある。話が少しそれるが、チラシ裏面下に『生誕100年記念 吉原治良展』の広告がある。大阪住之江のATCミュージアムで開催中で、実は一昨日見て来た。その『吉原治良展』は10月に大阪なんば高島屋で見た『二科黄金の時代展』や、あるいは13日に尼崎で見たばかりの『村上善男展』との関連もあって、ぜひ見ておきたかったものだ。こうして毎日書いているブログは違うカテゴリーであっても多少関連したことを書いているし、ましてや同じカテゴリーとなれば自ずと各内容は関連するが、ちょうどうまい具合に関連づいた展覧会が次々と開かれることもあって、自動的に内容がより関連づく。そのことを、展覧会を見るために各地へと出向きながら、そしてその感想をこうして書きながら、自分でも面白いなと思っている。
第1章の展示から印象に残ったことを列挙する。まず菊池芳文の「春雨吉野山之図」はコロー風の清潔な雰囲気の風景がなかなかよかった。芳文は京都で幸野楳嶺に学び、竹内栖鳳ら四天王弟子のひとりとしてよく知られるが、大阪生まれであることを初めて知った。1913年、オランダ・ハーグ平和宮の巨大な綴織壁掛は彼の花鳥画の集大成として有名で、この下絵は去年秋に大阪市立美術館で開催された『世紀の祭典 万国博覧会の美術』で展示され、よく記憶している。同じ楳嶺門下で大阪で活躍したという岡田雪窓は知らない画家だが、1921年の「渓間の湯治場」はいかにも京都で学び、そして時代を感じさせる絵でよかった。御船綱手の「秋林」という大きな絵も単彩の素描風だが、印象に強かった。倉敷生まれで、東京で川端玉章に学び、明治32年、東京美術学校を卒業した後、大阪に戻り、曾根崎新地からやがて天下茶屋聖天坂に住んだ。同43年に渡米し、日英博覧会に際して泰西名画研究のためにヨーロッパを歴訪、ノルウェーを経てシベリア鉄道で帰国し、1914年に「世界一周記念展覧会」を開いた。「北米ナイアガラ瀑布」と「瑞西ルセルン湖畔景」という縦長の絵が展示されていたが、描写力はさておき、写生現場ではなく、画室で完成させた絵にありがちな、近景と遠景が妙に不調和な感じで強引にひとつの画面にまとめられているところがあった。それは半分が水墨で、もう半分が彩色という特徴のある絵の作り方も影響している。晩年に自宅に植物園を作り、週間朝日に「百花画譜」を発表し続けたというが、大阪に縁の深い画家がなかなか国際的に動き回っていたことがわかって興味深い。目立つ場所に展示されていた華麗な6曲1双屏風は、石崎光瑤の「白孔雀」で、大正11(1922)年の制作だ。これは以前京都で見たことがある。富山生まれで、金沢で琳派系の山本光一に学び、栖鳳の門下に入った。京都市立絵画専門学校の教授で、登山家でもある。日本山岳会に入って明治42年、民間人として初めて剣岳の頂上に登った。大正5年にインドを旅行し、エローラやアジャンタの石窟寺院を見、ヒマラヤ登山もしている。「白孔雀」はそういう旅好きな経歴をそのままよく伝える絵となっている。
次に第2章だが、目を引いた作品は多い。村上華岳は大阪北区の生まれ、大正12年に京都から芦屋に移住し、昭和2年に花隈の実家に戻った。いかにも華岳らしい作品の「早春山ノ図」が展示されていた。狩野芳崖は「楼閣山水図」と題する、3幅対の大きな掛軸が出ていた。これは1989年秋に京都国立博物館で開催された『没後100年記念展 狩野芳崖』の図録には載っておらず、まだまだ埋もれた作品があるのかもしれない。栖鳳は1933年の「惜春」が出ていた。積まれた薪にウグイスが描かれている。いつもの洒落た感じがよく出ていた。入江波光はまだまとまって作品を見る機会がないので、展覧会に出ていると印象が強いが、1922年の「梨花水禽」があった。京都画壇の有名画家が続き、榊原紫峰の2曲1双の「冬朝」が部屋の最後のウィンドウの中に広げられていた。この作品を初めて見たのは1983年に京都国近美で開催された紫峰展で、全作品のうち最も印象に強かった。現在大阪市所蔵かどうか知らないが、もしそうだとすると、いい作品を入手したものだ。利休ねずみ色が全体に均質に塗られた画面に白い鷺がよく似合っていて、右隻の枯れ木や枯れすすき、その背後に泳ぐ鴨の数羽がとてもリズミカルに配置されている。確実に日本画の伝統が革新されて見事に花開いているのがわかる。この作品は2曲1双ではあるが、各隻が通常の6曲屏風の場合の倍の幅があって、横並びになると6曲1双屏風並みに迫力があり、しかも画面に折れ目が少ないため、冬空の広がりがよく伝わる。保存も申し分ないように見えたが、個人蔵ではなく、公的な美術館で充分な管理のもと、長く保存されることになっているのであればよいと思う。大正10年に土田麥僊、小野竹喬、野長瀬晩花らは大阪時事新報社の依頼も受けて洋画家の黒田重太郎とイタリアとフランスを中心にヨーロッパへ遊学した。その時のスケッチやそれを挿絵にした単行本「欧州芸術巡礼紀行」が出ていて、これは初めて見るものであった。
次に版画の展示として、東京生まれで、大正5年に石版画に取り組み、同7年に日本創作版画協会を組織した織田一磨や、1858年に大阪の天満に生まれ、大阪における洋画の先駆者となった林基春の作品があった。後者の作品は、明治20年代の木版画による「京阪土産名所図画」で、当時可能となった機械刷りによるものだ。色が鮮やかで、しかもよく知る地名がふんだんに登場し、大阪の美術館で展示するのにふさわしい。大阪の忘れ去られた画家として豊島停雲の1925年の作品「立山眺矚図巻」もあった。今後もどんどんこうした未知の画家の紹介をしてほしいと思う。次に洋画展示の部屋に移る通路両側に展示されていたのは、『明治本の中の「異国」と「異郷」』と題する書籍のコーナーと、石田有年による銅版画作品だ。まず前者だが、説明にこんなことが書かれていた。「明治3(1870)年、内田正雄によって大学南校から初編3冊が刊行された「官版與地誌略」は日本の地理教科書の嚆矢かつ「西洋事情」「西国立志編」とともに明治の三大ベストセラー…」。この本は当時8冊が発刊され、明治10年に四編全13冊を刊行し終えたが、内田が滞欧中に集めた写真や書物挿絵の模写を木版や銅版にして印刷したA4版の和綴じ本だ。これとは別に豪華な装丁でシリーズ刊行された小型のハードカヴァー本も展示されていたが、明治大正期の書籍に関してはほとんど知識がないので、とても珍しく見た。後者の石田だが、明治25年の銅版画による京名所版画や、同23(1900)年の「京名所図一覧之表」は面白かった。後者は中央に平安京、御所を配置して、その周囲に均等に枡目割りして全部で90か所の名所の風景と名前が印刷されている。そのどれもが今採り上げても同じ場所になるであろうと思わせるもので、1世紀経っても京都の名所と言われる場所は変化していない。ちなみに博物館(京都国立)、耳塚、七条停車場(今のJR京都駅)は隣同士に並んでいた。また紙の端の方には、向日明神、光明寺、八幡大社が位置していて、これは京都市内から外れる意味で正しい配置だ。
第3章は洋画家の作品コーナーだ。時間があまりなかったので流し見しただけだが、面白い作品が目白押しであった。佐伯祐三や荻須高徳、岸田劉生の作品は述べるまでもないだろう。そのほかで気になったものをかいつまんで書く。まず、チラシの表側全面に採り上げられた藤島武二の「カンピドリオのあたり」は、1919年制作の、掛軸のように縦長で、しかもかなり大きな油彩の2点による対作品だ。これはイタリアでのスケッチを使って帰国後にアトリエで描いたものだ。記憶に頼っている部分が大きいからか、実際の光景とはかなり違う面もあるということで、現状写真が参考に展示されていた。わずかに使用した鮮やかなピンク色の配置が巧みで、それは実際の光景とは全然異なる配色に違いなく、そんなところからも実際の情景を作り変えていても問題ではないと言える。藤島がヨーロッパに滞在したことを楽しく思い出している雰囲気がありありと伝わる作品だ。小出楢重の作品「山の初夏」は1915年に描かれたもので、当時小出の同窓生が支援して描かせたものだ。そのため、今も同窓会が所蔵する。須田国太郎の1946年作「安芸竹原頼氏遺邸」は、日本家屋の陽の当たる古い土壁を印象的に捉えている。これは頼山陽の祖父の惟清が紺家を営んでいた頃の店舗で、それを知ったうえで須田は描いた。荻須の作品の隣には大橋了介の1928年の「市場」、横手貞美の1928から30年制作の「ローズマリー別荘、ヴェトウイユ」がかかっていた。このふたりは荻須とともにフランスに留学したが、前者は1943年に43歳で、後者は1931年、スイス国境近くの療養所で31歳で亡くなった。有名になるためには長命でなくてはならない見本のようだ。だが、佐伯は若死にしているから、そうとばかりも言えないか。同世代の高岡徳太郎の作品は「巴里」が展示されていた。荻須より1歳年下の1902年生まれで、荻須より5年長生きして1991年に亡くなった。高島屋の薔薇の包装紙の原画を描いたことで知られる。旭正秀は日本版画協会の創立会員のひとりで、1933年に出た滞欧記念の木版画集が展示されていた。「ピサの斜塔春景」「常夏のピラミッド」「冬のエッフェル塔」「チャーガルテンの秋(伯林)」といった、まるで月並みな絵はがきのような題材を取り上げながら、省略と洒落た色使いで旅心をかき立てる味わいをかもしていた。ごく限られた人しか欧州に旅行出来なかった時代、たくさんの人々は展覧会でこうした作品に接し、憧れを抱いたに違いない。それは今もあまり変わらないと言えるが、海外旅行から幻想が限りなく抜け落ちた分、画家の描く海外に取材した絵もまたうす味なものになったと思える。