最短距離で行こうとするのが人情で、ほかにも行きたい場所があればなおさらだ。今日から3日間は先日投稿した都島神社や淀川神社を見た後に訪れた蕪村の生家跡や毛馬の閘門の写真を使う。

9月22日で、天気がとてもよく、ヒガンバナがあちこちで見られた頃だ。蕪村の俳句は3000ほどあるらしいが、ヒガンバナを詠んだものがあるのだろうか。筆者は蕪村と言えば名月で、その夜に馴染むところが夜半亭の号といかにも相性がよいと思う。来年は蕪村生誕300年祭が大阪で開かれるが、そういう文化に関心のある人は少数派だ。大阪が生んだ偉大な人物とはいえ、上田秋成もそうだが、蕪村は京都で死んだ。文化的なことは京都に任せて大阪は金儲けにひたすら頑張ればよいというのが、昔からの大阪人の考えでもあって、京都で文化に携わる人はたいてい大阪を軽蔑し、大阪にめったに行かない。西成という地域では昼間から酔っ払いが道ばたにちらほら寝転んでいて、片足だけの革靴を売る露店商がいるなど、とても日本とは思えないと真顔で言う人が京都にはたくさんある。そして大阪生まれと聞くや否や、顔には憐みの表情が浮かび、数歩後ずさりされる。筆者がガレージを月極で貸している近所の女性と今年は親しく話す機会が何度かあったが、筆者が大阪生まれと聞いて驚くと同時に、「なるほど、それで風通しがいいのですね」と言った。筆者が文化的な仕事をしていることでてっきり京都生まれと思っていたらしい。その女性は東京生まれだが、世界中を旅して仕事している人で、京都に移住したのは仕事上つごうがいいからだが、何と3年満たずに引っ越しすることになった。京都に居心地の悪さを感じたのかもしれない。それで筆者のことを風通しがよいと言ったのではないか。つまり、京都は風通しが悪いということだが、全くそのとおりで、地形的には狭い盆地であるからで、またそのために疫病がよく流行った。その女性は健康にとても敏感な人で、大阪も近々水道水のフッ素の量を増すと知って、淀川水系とは縁のないところに移住する。

浄水場のなかった昔は川の水をそのまま飲んでいた。淀川の水はおいしいとの評判で、秀吉も満足したという。そういう話は今ではとても信じられない。きれいな水は蛇口から出て来るもので、井戸水でさえも疑う。というのは、江戸時代から名水と呼ばれる井戸でも、100メートルか200メートルほど離れたところにクリーニング屋があって、そこで汚れを除去するために何とかクロロエチレンといった溶剤を使うと、それが地下に浸透し、伏流水に混じり、やがて井戸から汲み揚げられる。最初は無害と言われていたそういう便利な溶剤が数年で発癌性のあることがわかり、使用が制限されるが、すでに地下に染み透り、微量であっても地下水に混じっている。そこでうらやましくなるのが、そのまま汲んで飲めた淀川の水だ。どういう味がしたのだろう。淀川沿いには多くの町や村があり、生活用水を流していたが、それでも人口が少なく、水量が多かったので、汚れ具合はしれていた。淀川の水量は同じなのに、人口が10倍かもっと増えれば、川の汚れがどうなるかは明らかだ。それだけではない。工場が林立した。もう川はただ汚れを湾へと導いてくれる便利な下水道で、そのようにして河川を殺して金儲けして来た。その金を戦争で使ってさらに大儲けしようと考えて国が亡びかけたが、それで河川がきれいになったかと言えば、相変わらずであったのが、奇病が各地で発生するに及んでさすがこれはまずいのではないかと汚す度合いを多少制限した。それが現在だ。こういう現代に発句が似合うかと言えば、蕪村ならどう思ったかを考える。日本語も変わって来たし、風景も激変で、もう575の世界でもないかもしれない。それに芭蕉が蕪村がもう表現し尽くしたのではないか。ブームは去ったのだ。それでもいつの時代でもそのかつてのブームを懐かしむ者がある。そういうブームを義務教育でしっかり教え続ければ、それなりにブームが持続する効果があるが、いつの時代でもブームは毎年たくさん生まれる。若者はそれらに翻弄され、またそのことを人生の楽しみと思うので、遠くに去ったブームにわざわざ関心を抱こうとはしない。その時間もなければ、関心への糸口に触れる機会もない。

わからないことを無視することと、無視はしても心のどこかに棚上げしておく場合がある。人生は限りがあるので、わからないことのすべてに関心を抱いて深く研究することは出来ない。筆者は長年日本の文人画に関心がなかった。だが、全く無視するというのではなく、展覧会があればほとんど見て来たし、図録も買った。それでも深い関心が持てなかったのは、漢詩が書かれ、またどの絵もみな似て、しかも地味に思えたからだ。文人画とは言えないが、呉春に最初魅せられた。呉春が池田に住んだことが蕪村の紹介であることは20代前半に知ったし、またその頃池田に行って酒造会社の呉春の前を通るなど、割合早い時期に呉春には縁があった。30代には小林一三が呉春の大コレクターと知ったが、筆者がたぶん最初に買った掛軸は呉春だったと思う。それは猪名川の漁民を画題にしたもので、小林一三のコレクションにも同じ絵がある。呉春が秋成と仲がよかったことを後年知り、また当然蕪村と呉春の作品を見比べるようになると、蕪村にのめり込むのは必然で、一三の書が蕪村そっくりであることにも納得が行く。それに蕪村は絵と文で巨匠となったから、その稀に見る天才ぶりにかえって画家として名を成した人物とは全く何かが違うという、一種の敬して遠ざけるものがある。蕪村に関心を抱いたとして、その全作品を把握するだけでも大変で、またほとんど不可能だろう。分厚い全集が9巻出ているが、それらを全部読むことは2,3年要するだろうし、たとえばその絵画の巻を繙くと、そこに掲載されていな真作が市場に流通していて、全集とはいえ、不完全であることを知ると、なおさら蕪村の世界にどっぷり浸ることを躊躇させる気分が湧く。だが、蕪村のことを知るのに、全部の作品を知る必要はない。そう思えば気が楽だ。どの作品にも蕪村らしさがあるはずで、わずかな絵や俳句を知るだけでも蕪村の理解は多少なりとも出来たことになる。