対嵐坊は明治時代にあった山中信天翁の住まいで、明治天皇が訪れたこともある。その跡地に石碑が建っているが、それをまだ見ていない。
それはともかく、嵐山はわが家からでも見えるので、対嵐坊と自称したいところだが、見える嵐山は脇腹で、真正面ではない。西京区側からはそうならざるを得ず、嵐山の絶景を楽しむには嵯峨地区からと昔から決まっている。その脇腹の嵐山は今日の2枚目の右端に見える。今日の4枚の写真は去年11月26日に撮った。今年は紅葉が少し遅いと昨日の天気予報で言っていたが、それが本当かどうか、今日は歩いて梅津に買い物に行く途中、いつもとは違って松尾橋手前の土手を歩いた。橋の近くに大きな銀杏の木があり、去年の今日撮影した写真を昨日見つけたが、1年ぶりにその銀杏がどのように黄色になっているかを確認し、また撮影するためであった。やはり去年より数日は遅いかもしれない。まだ写真を比べていないが、何となくそう思う。ということは今年は暖冬で、また紅葉は遅くまで楽しめるか。それもともかく、今日の2枚目を見て思い出した。つまり、なぜ去年の昨日に駅前マンションの建設現場を撮影したかだ。その理由は2枚目からわかる。右端の嵐山の脇腹を遮る形で、木の柱が何本も組み上がっている。新築の3階建ての建設だ。写真では2階部分まで建っているが、3階になるとかなり嵐山を隠してしまう。だが、それはその3階建てからすれば対嵐坊と言えるほど目の前に嵐山が見えることであって、3階にしたのはその理由が大きいかもしれない。この家はもう建って入居もしたが、嵐山よりもまずマンションが目の前に来年には聳える。それを言えばマンション側もそうで、嵐山が見えるかと思えば、視線をずらすと白い壁の3階建てが目に入る。それにこの家の隣りは現在空地だが、やがて同じ3階建てが出来ることは時間の問題で、数年後に同じ場所に立って撮影するとどのようになっているのかと言えば、嵐山の脇腹や腰は全く見えなくなる。
今日の3枚目を少し紹介しておくと、見える駐車場は2階が嵐山タクシー専用、下が一般用で、花見と紅葉シーズンは持ち主が陣取って観光客の車を誘う。昨日見ると1500円であったが、1日の値段だろう。1日と言っても数時間で出て行く。この駐車場は持ち主から聞いたところによると、役所から簡単に壊せるような鉄骨製で造ってほしいとの依頼があった。なぜかと言えば、何十年も前からその駐車場のある場所を含めて周辺が道路になる計画がある。それがいつのことかと言えば、地元住民はもうないのではないかと思っている。それほど計画のみで、その後の話がないからだ。それに道路が出来るのであれば、駅前ホテルやマンションがこの駐車場の隣りに出来るはずがない。だが、ホテルもマンションも筆者は設計図を見たが、写真に写る道路際を避けて建物がその奥に建てられている。つまり、市役所は相変わらず道路が拡幅されることを見越して新しい建物にも、そうなってもかまわないような建物の配置を義務づけている。だが、道路が出来ると建物は壊さなくてもいいが、塀や門といった囲いの設備は削られる。その工事は市が持つということなのだろう。ではなぜその道路の拡幅が必要かと言えば、前に何度か書いたが、桜の林の中に道路を造り、それが阪急嵐山駅前まで延長され、そして2枚目の写真の道路につながるということだ。現在も駅前から桜の林に至る道路はあるので、桜の林の中に新しく道路を造る必要はないと思うが、その道路は桂川を越えて三条通りとつながるもので、渡月橋に市バスやタクシーを走らせずに、その下流200メートルほどに新たに車専用の橋を造り、それが桜の林を通って、2枚目の写真の駐車場の一部を削る形でつながる。そうなると、駅前は四条河原町並みに車の往来が激しくなり、信号も当然設置される。そして自治会はその道路で分断されるが、渡月橋の毎年の花見と紅葉シーズンの車の渋滞を緩和するためには新しい橋と道路が必要との考えなのだろう。いっそのこと高速道路のインターチェンジを造ればどうか。そうなるとわが家はたぶん立ち退きになって、その保証金で別のところに引っ越しする。実はそのような土地買収の話が持ち上がらないかと、2枚目の駐車場の持ち主も考えている。
さて、22日は地元小学校で恒例の防災訓練があった。一自治会当たり20名の参加を連合会が決めたが、それは各自治会に20人分の参加賞を配布するためだ。本当はたくさん参加するほどに好ましいが、配り物の経費から20名と限定された。100円ほどの餡パン、ペットボトルの茶、そして五目飯で、ちょっとした昼食になった。天気がよくて2時間半はすぐに過ぎた、毎年同じような訓練で緊張感は誰にもない。だが、消防署員の説明は背筋が凍る。嵐山から松尾にかけては樫原断層が動けば最大深度6強が生じる。そして家屋倒壊は1万数千で、4,5軒に1軒は倒れる。死者は10数人にひとりと計算されていて、怪我人はもっと多い。それでもその地震は予期出来ず、そういつも怯えて生活することは出来ない。つまり、誰もが普段は忘れている。それで巨大地震が起こった時にどう行動すればいいか、また普段からどうしておくべきかが改めて語られ、その場はみんな黙って聞き耳を立てる。京都市内の直下型地震が起きると、西京区が最も被害が大きい。というより、大半は西京区内の地震と考えていいようだ。そして住宅密集地帯が多く、バスが走る道路もきわめて狭いから、先に書いた桂川左岸から右岸へと新たな車専用の橋を架け、いざという時には右京区から大量の消防車が嵐山地区に入って来られるようにしようという考えでもあるのだろう。地震も恐いが、防災訓練では洪水についての説明も多少あった。3年前の台風18号の時以上の豪雨によって桂川が氾濫すれば、訓練があった小学校は避難場所にはならない。正確に言えば、1,2階は水に浸かるから3階か屋上に逃げなければならない。それはわが家も同じことで、3メートルの水深になるという。まだまともに測ったことはないが、2階の畳まで浸かるだろう。それで大事なものはみな3階に置いておくべきだが、物が溢れ過ぎてそれも無理だ。