歴史博物館に若冲の作品があったことに驚いて、ゆっくりとでもないが、いろいろと見ている間にいい時間になってしまった。閉館まで50分もない。早速特別展会場に回った。

ところで、京都には南座がある。そのすぐ近くには歌舞伎発祥の地を示すため、出雲の阿国の銅像も立っている。毎年年末近くになると、南座には招きの看板がずらりと立てられ、恒例の風物詩として必ずTVや新聞でも紹介される。また今年は上方歌舞伎の名優坂田藤十郎が復活することが頻繁に報道され、歌舞伎ファンには大いに楽しい年になっている。しかし、南座には一度みやこ蝶々の芝居を見に行ったことがあるのみで、歌舞伎は見たことがない。目下のところ、関心もほとんどない。これはたとえば両親から幼い頃かに連れて行ってもらうという機会がなければ、なかなか古典芸能に関心が持てないことを示していると思うが、一方で歌舞伎鑑賞は映画を見るように手軽ではなく、料金も高く、それなりの知識が必要ということにもよる。それに、なぜか大阪には文楽はあっても歌舞伎はないと変に思い込んでいることも原因としてある。実際、TVによく出る歌舞伎俳優はみな東京に住んでいる。大阪は歌舞伎とはもう縁がほとんどないのではないかと、素人としては思うのだ。谷崎の『細雪』を読んでいると、あちこちに歌舞伎のことが出て来る。もちろん、姉妹たちは上方歌舞伎のファンで、好みの演目もあって、毎年歌舞伎を見るのを楽しみにしている。姉妹が東京に出かける場面では、東京でも歌舞伎鑑賞を楽しみ、戦前は今以上に歌舞伎が日常生活に馴染んでいたことが推察される。姉妹たちは歌舞伎だけではなく、洋画もよく見るようだし、美術展にも行くから、特別に古典芸能のみをひいきにしているというわけでもない。だが、面白いことに、これは谷崎の考えだろうが、歌舞伎はもう日本から消え去る運命にあるだろうという記述が出て来る。つまり、戦前ですらそうであったということだ。谷崎の危惧とは違って、現在歌舞伎は健在であるし、世界遺産かに指定もされて、まだまだ存続はするに違いないが、かなり特殊な芸能と化して、文楽同様、今以上に大きな存在になることはないだろう。能や狂言のように、新作がたまに書かれて話題にもなるが、ヨーロッパのオペラと同じように栄光の時代はとっくに過ぎ、もっぱら保存することに留意されていると言える。芸能というものはいつの時代でも欠かせないものであり、世界、あるいは日本文化がこれだけ変貌を来している中では、新しい形の芸能がもてはやされるのは当然であるし、それでいいとも言える。長い年月の中で様式が完成した芸能は時代が変わってもなかなか自己変革することは出来ない相談であるし、またその必要もない。長い年月をその様式のままで来たのであるから、ある程度時代が変わっても時代の方が様式に合わせればよいという見方も出来るからだ。これはつまり、その様式に普遍性があるということだ。芸能は人間の心の変わらぬ面を刺激するものであるため、古い様式とみなされるようになったものでも、ごく初歩的な知識を予め持って虚心に鑑賞すれば、必ずその見所というものはわかる。筆者は文楽をそのようにして見たし、実際その見事な舞台を見ると、誰しも大絶賛を全く惜しまない気持ちになれると思う。であるので、歌舞伎に対して妙な偏見はない。ただ見る機会に恵まれないだけだ。
この展覧会のチラシを最初に目にした時、不思議な気がした。「日英交流」の文字が目に入ったからだ。なぜイギリスが江戸時代の大坂歌舞伎と関係があるのか理解出来ない。チラシにはこうある。「…大英博物館をはじめとする欧米と日本の優れたコレクションを通じて、都市大坂が生み出した豊かな歌舞伎文化を紹介…」。歌舞伎の関する資料を欧米から借りて来た里帰り展ということだ。これは推察だが、明治になって浮世絵が大量に欧米に買われて行った時、おそらく今回の展示の中心になっている資料も二束三文の形で海をわたったに違いない。当時の日本は欧米文化の吸収で躍起になっていたし、歌舞伎保護に大きな関心を払わず、どんな大切な資料であっても重要と思わず、また買う側もどれが重要でそうでないかを知らず、大量にまとめ買いしたのが実情ではないか。そして、研究者が少しずつ欧米のコレクションを研究する中で、こんなものが欧米にあったという発見が今なお続き、展覧会で広く見せるべき価値のあるものがこうした形で披露されるというわけだ。これはある意味では日本の江戸文化の価値を認めてくれた欧米に感謝すべきことと言える。日本にそのままとどまっていたならば、心ある人は大切に保存したとしても、失われるものも多かったろう。特に戦争で都市が灰塵に帰した時、大切に保存され続けたものも失われるものが少なくなかったから、美術品的価値はさておき、とにかく浮世絵関連の資料ということもあって、大英博物館のような立派なところで管理保存されたのは、資料にとっては幸福な運命を辿った。あるいは逆に見れば、こうして保存されたのはごくごく一部で、失われたに違いない多くに対して嘆かねばならない。それでも、欧米のコレクションを借りてでなければこうした展覧会が開催されにくくなっている現実はどう考えればよいだろう。図録を買っていないので詳細はわからないが、日本に残る資料だけでは到底開催は不可能な展覧会であったのだろうか。時として浮世絵の保存状態のいいものが日本にはなく、欧米にあったりすることを思えば、やはり今回の展覧会は欧米のコレクションあってこそと考えていいだろう。今、気がついた。チラシ表面の、チケットと同じ「三代目中村歌右衛門の加藤清正」の顔部分が大きく印刷されているその下に、目立つように「大英博物館で絶賛、優品の里帰り大興行」とある。これは大英博物館でも資料整理が整って最近まとめて展示したことを示すのだろう。買い込んだ資料が膨大で、まだまだ研究が進まず、ましてや研究論文を載せた図録を用意しての展覧会となると、かなりまとまった年月を要して当然だ。となると、「日英交流」と謳われている意味も見えて来る。日英の研究家が交流し合いながら、未発表のままで埋もれていた資料を発掘して、展覧会に漕ぎつけたに違いない。
またチラシ文面を引用する。『18世紀後半から19世紀前半、大坂の歌舞伎はひとつの黄金期を迎えます。それは二代目嵐吉三郎(1769-1821)と三代目中村歌右衛門(1778-1838)のライバル関係に象徴されます。異なるキャラクターのふたりは共演することなく、ファンは互いに贔屓の役者を支持すべく、盛んに役者絵や摺物などを出版し激しく対抗しました。こうした役者や贔屓たちの活動により、大坂の歌舞伎は大きな盛り上がりをみせました。流光斎如圭を祖とする上方役者絵は、日本よりも海外で評価されてきました…」。 この短い文章で展覧会がどのようなものを展示しているかおおよそ見当がつくだろう。役者絵は浮世絵を知っている者からすれば何ら珍しくはない。面白いのは役者絵よりもむしろ当時の歌舞伎ファンの動向だ。「貼込帖」と題して展示されていたが、個人やグループが役者の番付や役者絵、肉筆画、絵本の切り抜きなどを貼り込んだ、今で言うスクラップブックがあった。現在の芸能人を追うファン心理と同じものが江戸時代にすでにあったことを実によく示している。これは印刷文化があってのことで、江戸時代は今とは規模は比較にならないほどに少なかったにしても、版画という技法によって、役者についてのあらゆる情報がファンに届いていた。そうした紙きれを帳面に貼り込んで大切に保管するという心理はよくわかるし、今この瞬間でも同じことをしているアイドル・ファンは膨大にいることだろう。興味のない人にとってはどうでもいいようなものだが、そうした紙資料は中に込められた情報そのもののほかに、どういうレイアウトでどういう印刷をされているかということを含めて時代を刻印しているので、100年も経てば立派な歴史資料となる。雑誌はそれなりに本として図書館に保存されるだろうが、それらの切り抜きとともに消耗品としてみなされているチラシやチケットの半券などが合わさってひとつの帳面の形で保管されると、やがてその帳面でしかわからない情報が混じって後世の研究家を狂喜させることにならないとも限らない。「貼込帖」はまさにそんなもので、歌舞伎関係の出版の重要な情報源になっていて、同じものがほかにない限り、博物館で立派に保存されてしかるべきものだ。
展示数はとても多かった。後半の展示は流し見になってしまったが、以下に簡単に書く。二代目嵐吉三郎は初代吉三郎の実子で「璃寛」と呼ばれ、晩年に初代橘三郎に改名して兄の猪三郎の子に吉三郎の名跡を譲った。生涯立役だけを通して上方の舞台に立ち続け、ハンサムで有名であった。一方、三代目中村歌右衛門は「芝翫」と呼ばれ、敵役から立役、女形までこなす「兼ね役者」としてショー・マンぶりを発揮した。璃寛はそんな芝翫には批判的であった。両者の共演がファンによって待ち望まれたが、その機会がないままに璃寛は亡くなり、以降は芝翫の独壇場となった。芝翫は才能ある若手の育成に優れていて、1825年、一世一代の引退宣言を行ない、弟の初代鶴助に二代目を継がせた。だが、生涯現役で活躍した。璃寛側は1828年に二代目嵐徳三郎が二代目嵐吉三郎を継いだ。対照敵なふたりそれぞれにひいきのファンがついたのはよくわかる。璃寛と芝翫をたとえばビートルズとローリング・ストーンズと思ってみればよい。そしてファン同士が盛んに騒ぎ立てるほど、それに刺激されてアイドルはまたいい仕事をするものだ。それも時代が平和であるからで、18世紀後半から19世紀前半の上方はそんな時代を迎えていたことになる。歌舞伎役者の似顔絵が始まったのは、1750年代の江戸においてで、大坂にはその30年後に波及した。目にとまった展示物としては摺物3冊の『絵本水や空』がある。これは今年ブログを始める直前に伊丹市立美術館で観た『笑いの奇才 耳鳥斎! 近世大坂の戯画』で知った耳鳥斎(にちょうさい)の筆になるもので、1780年に刊行された大坂初の役者絵本だ。大坂、京都、江戸の三都から役者をそれぞれ上、中、下巻にまとめている。オックスフォード大学のアシュモリアン博物館の所蔵というが、同じように保存のよいものが日本にあるのかどうか。あらゆる役をこなした芝翫は、朱鐘馗や越後獅子など七変化舞踊「七化」によって大坂で大当たりを取ったが、これを岡田米山人が1813年に扇面地紙に描いた作品も目を引いた。岡田米山人に少なからず関心があるからとも言えるが。漫画風で面白かった作品がある。璃寛の一周忌を追善しての、絵師長春が1822年9月に描いた摺物だ。これは璃寛の替紋の橘をモチーフに、実を仏、葉は光背と結跏趺坐した両脚に見立てて、璃寛を仏陀と仰ぐパロディだ。微笑ましさに思わず模写した。その簡単な絵から岡本一平まではもう間近であることを感じさせる。「流光斎と江戸の絵師たち」というコーナーがあったが、流光斎は1777年の生まれ、上方で最初の錦絵役者絵本の出版を手がけた。役者を美化せずに写実的に描いたが、これは江戸の勝川派とは異なる。上方の歌舞伎文化は役者一代記という独特の出版文化を生み出したが、これは個々の役者の芸歴を肖像などとともに年代記的に著述したものだ。歌舞伎文化も東西で微妙に違うのがわかる。たくさんの展示物の中、春画も少々展示されていた。これは璃寛や芝翫とわかるように描いたもので、当時のファン心理の一面をよく表現している。今でも芸能人は性的な対象として見られることが多いが、性的フェロモンを多く発散する芸能人に人々が群がるという、人間の本能に直結するところでこそ花咲く文化を今さらに思う。人間がある限り、芸能人の活躍はなくならない。図録は2000円だったか、資料的価値が高い割りに安かった。だが、前述したように、ひとまず不要かと思って買わなかった。5時ぎりぎりまでいて館から外に出たところ、館前の広場に女子高校生が100人近く群がっていて、間もなくコーチのかけ声とともにマーチングバンドの練習演奏行進がすぐに始まった。先頭に立つバトン・ガールがバトンを空高く放り投げ、すぐに白い両足をぱっと開いてばく転を1回した。すでにとっぷり日が暮れた中、正常な体形に戻ったかと思うと上空から落ちて来るバトンをしっかりつかんだ様子がよく見えた。他の演奏者全員とは違って、遠目にも彼女だけはとてもスタイルがよくて美人に見えた。やはり、人間には姿形に差があって、見栄えのいい人はより注目される。そんな中から有名芸能人が出て来る。璃寛や芝翫も昔のそんな人物であったということだ。