何の神様を祀ろうが神社は神社ということを唯一神を信じる国の人は理解出来ないだろうが、そういう外国人にも京都の伏見稲荷は人気があるようだ。

彼らも国が変われば神についての考えも違うことを理解しているのだろう。それに神社はパワー・スポットという言葉がよく使われるように、何となく特別な雰囲気に満ちることは子どもでも感じる。そういう場所が最初にあるので社をそこに建てるのか、あるいは場所はどこでもよいので玉垣で囲って祠を設置すればそこが霊が満ちた場所であるかのように思うようになるのか、そのどちらの場合もあるのだろう。後者は新しい神社の場合に言える。だが、神社がいつまでも同じ場所にあるとは限らないことを昨日取り上げた大阪の豊国神社の例からもわかる。もっとも、秀吉は歴史的には新しい人物と言ってよく、神社が移転することはまだ無理もないのかもしれない。それはさておき、豊国神社の本殿の北にふたつの小さな神社がある。だいたいそういう神社は稲荷である場合がほとんどだが、豊国神社では七五三まいりの幟旗は真っ赤で目立つが、赤い玉垣や鳥居はない。そのために豊国神社はなおさら厳めしい雰囲気が強くなっている。今日の題名はふたつの神社の名前を挙げたが、白玉神社は2枚目の写真からわかるように、扁額が3つも掲げられている。左は玉春神社と玉繁神社、右は七夕神社となっている。白玉は玉春、玉繁とは玉が共通するが、これは宝珠のことだろう。となると稲荷系だ。そこに七夕神社が合わさるというのはどういうことか。神様は喧嘩しないと考えるべきなのだろう。そこで豊国神社のホームページを見ると、白玉神社についての簡単な説明がある。「宇迦御魂神を祀り、元白玉稲荷神社と言う」とあって、さらに調べると、宇迦御魂神は食物、穀物の神で、稲荷の主祭神とある。なるほど、ひとつ勉強になった。やはり稲荷神社で、本来は朱塗りの鳥居があってもいいのに、それがないのは秀吉を祀る本殿にふさわしくないとの考えか。またこの白玉神社は最初の写真からわかるように、豊国神社の屋根の庇がかなり近くまで迫っている。そのため、屋根がまともに見えない。そのために鳥居を設置する場所がない。この神社は中之島の山崎の鼻の蔵屋敷にあったが、淡路町の仲仕頭が自宅に移し、それをさらに明治12年に遷座したという。山崎の鼻は現在の中央公会堂のある辺りで、蔵屋敷を壊した後に豊国神社を建て、その際に淡路町から元の場所に戻したことになるが、戦後豊国神社の移転に伴って現在の位置に引っ越した。つまり、豊国神社が出来る以前から中之島にあった神社で、それを失くしてしまうことは忍びないというより、出来ないと思われたのだろう。

白玉神社の西隣りに位置するのが今日の3枚目の若永神社で、これも鳥居がない。同じく宇迦御魂神を祀るが、何とこれは淀屋辰五郎の鎮守の社であったとされる。淀屋はもちろん淀屋橋の名前の由来となった豪商で、あまりに巨額を稼いだせいで幕府に睨まれ、闕所になった。その蓄えたお金は現在の価値に換算すると、最近のNHK-TVで数百兆円とか言っていたように思う。それほどの商人でも名前を残したのは淀屋橋のみと言ってよく、歴史に商人は記録されないと言ってよい。つまり、人間は金では価値が測れないということだ。この神社は現在の中央区の大川町にあって有志の崇敬者が守り続けて来たのが、御堂筋の拡張のために昭和2年に中之島あった豊国神社の境内に遷座した。そこは淀屋橋のすぐ近くで、元の場所に戻ったようなものだが、戦後に現在の場所に移転したのは何となくさびしい。淀屋橋近くに場所を確保出来そうなものと思うが、そうすれば誰が世話するのかという問題が生じる。頭上や傍らに車が走るような賑やかな場所より、現在の静かなところの方がいいということだ。淀屋の裕福さからすればとても小さな社で、そこに大阪商人の慎ましさがあるのだろう。秀吉と淀屋はどことなく似た運命で、その点でもこの小さな神社が豊国神社の真横の陰にひっそりとたたずむのは似合っている。ともかく、神社が移転しても祀られる神が変質することはないので、神社にとって大事なのは形ある社殿ではなく、そこに祀られる神ということになる。それは霊で、目に見えないものであるから、祀られる霊を思い浮かべることが大切ということか。それにしてもこの若永神社は淀屋を祀るものではなく、淀屋が拝んだ稲荷の神を祀るのであるから、わざわざ豊国神社に訪れなくても、伏見稲荷大社でいい気がする。それを言えば身も蓋もないので、やはり秀吉が築いた大阪の地で商売で莫大な資産を得た淀屋が拝んだ社があるということに思いを馳せて手を合わせるべきだ。