日が沈んで夜になっても同じ姿で城を見つめている秀吉の銅像。大阪城内の豊国神社にそれがあることを初めて知ったが、まだ新しいもので、豊国神社のホームページの説明によれば平成19年の製作とある。

鳥居も立派だが、この秀吉の像は周囲を圧し、訪れる者はみな山を仰ぐような気分になる。頭のてっぺんまで5メートル少々あって、それも当然で、この像を見るためだけでも訪れる価値がある。誰の製作かと言えば、文化勲章受章者の中村晋也という彫刻家で、日展の作家だろう。実によく出来た像だと思うが、先のホームページによれば、明治天皇が大阪に豊国神社を造るべしと言われた時、中之島公園内にそれが出来て、そこに銅像があったという。そのことも初めて知ったが、昔のことであるので大阪人でもほとんど知らないだろう。明治36年に建立されたその銅像は戦時中の金属不足で大砲や軍艦に変わってしまったが、秀吉も国のためならばそれも喜んで引き受けたであろうという当時の軍人たちの思いであったのだろう。それで戦後も昭和31年になった大阪城内に豊国神社が移されたが、筆者が5歳の時までは中之島公園、現在の府立図書館西に豊国神社があったわけで、当時の写真はたくさん残っているだろう。銅像の写真もあって、絵はがきにもなっているに違いないが、ネットではどうだろう。ともかく、その銅像の資料を元に、その後の研究によっておかしいと思われる箇所を直したうえで現在の銅像を造形したという。つまり、リニューアルであって、戦時中に供出されたものの面影を引き継ぎながら、改良されていて、彫刻家の技術も相まって現在の貫禄充分なものになっている。だが、供出された銅像も現在のものと同じほど大きかったのだろうか。銅像は神社の本殿との釣合い、またそこまでの距離など、種々の条件によって決まる。中之島では現在のような広い敷地ではなかったと思うが、ならば銅像はもう少し小さいか、また台座も低かったのではないか。となると戦前のその銅像が立っていた様子を捉えた写真を見たい思いが募る。

現在の銅像は絶好の位置に建つ。秀吉は真正面に天守閣を臨み、90度身体をひねると神社の大鳥居の中央を見る格好になる。これ以上の理想的な立地、また像の造形はない。まず誰しもその像に圧倒されて鳥居をくぐるが、その鳥居も、またその奥の本殿も立派なものだ。ただし、厳めし過ぎる嫌いがある。本殿がコンクリート製であるからかもしれない。その様子は今日の3枚目の写真からわかる。筆者が思い出したのは1964年の東京オリンピックの際に東京で建てられた競技場のデザインだ。たとえば武道館を思えばよい。実際同じ時期の建物で、雰囲気が通じるのは当然だが、競技施設とは違って本殿内部は一般人はめったに入ることがないので、閉鎖的つまり暗い印象をもたらすのは仕方がない。それに鳥居から本殿までは石畳が敷かれるのはいいとして、苔蒸した雰囲気がまるでないのが白ける。これも歴史が浅いために仕方がないかもしれない。周囲の木立がまだあまり年月を経ておらず、樹齢数百年ほど減ると、趣が出て来るだろう。またこの樹木は成長の早い桐を植えればどうか。たぶん混ぜられていると思うが、太閤と言えば桐であり、その花が満開になる春にこの神社を訪れ、銅像を見上げると気分は最高ではないか。それは花見を愛した秀吉にもふさわしい。それでも桐の木は成長が早く、樹齢百年ということはあり得ないだろう。となると神社の神木にはなりにくい。大阪城には桐をたくさん植えている場所があるらしいが、それは花を鑑賞するのに便利なことを考えてのことだろう。桐の寿命の短さは、鉄筋コンクリートの建物を連想させる。大阪の豊国神社の本殿は半世紀ほど経つが、屋根がしっかりしているように見え、まだまだ持つと思うが、耐震設計は万全ではない時代の建物ではないか。いずれにしてもいずれ建て替えが必要で、その時に木造でということにはならないか。強固なようにと鉄筋コンクリートで建てられて来ているのに、土建国家の日本は木造の寺社の方がはるかに寿命が長く、鉄筋コンクリートはありがたがられずにさっさと壊されてしまう。

豊国神社の本殿の背後には回ってみなかったが、それが出来ない、あるいは阻む雰囲気があった。東奥に本殿があって、それは迫る木立によって見えないようになっているが、内部からは拝めるだろう。七五三まいりの幟がちらほら立てられ、子連れの人たちが中に入れるかと言えば、拝殿前で拝むだけのように思うが、人影がまばらでその辺りのことはよくわからなかった。今ホームページを見ると、石庭があるが、本殿に向かって右手奥だろう。無料なのかどうか、気づかなかった。鳥居をくぐって右手すなわち境内の南辺に建物があることは今日の4枚目でかろうじてわかるが、そこは社務所や結婚式場だ。外濠に囲まれた一画にある神社で、高台にあることも手伝って空が広く感じられ、そのことが街中の密集地にある神社とは全然違う雰囲気があるが、では名古屋の熱田神宮のような鬱蒼さがあるかと言えばそれもない。これが歴史の重みの違いだけによるのかどうかだが、鉄筋コンクリートというのがやはりありがたみにどうしても欠ける嫌いがある。神社は木造の軽さ、はかなさが似合う。だがそれでは火に弱く、いつ放火されるやわからない。困ったものだが、それでも木造で何度も建て直すのがいい。下鴨神社は式年遷宮の費用がないので境内の一部をマンションにすると言っているが、鉄筋コンクリート製にすれば20年に一度とは言わず、半世紀以上は保つではないか。神社の造形を考えると、この木材か鉄筋コンクリートかの違いはかなり大きな問題だ。だが、大阪城自体が鉄筋コンクリートで再建したからには、豊国神社を木造でというのは不均衡と考えられたかもしれない。そう言えば香具波志神社の本殿も鉄筋コンクリートで、それがいささかさびしかった。時代が変われば人の考えも環境も変わるから、また木造で建て替えることもあり得るだろう。神社はそうであってほしい。