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●神社の造形―淀川神社、続き
か弟、あるいは姉や兄でもいいが、蕪村に兄弟姉妹があれば人生がどう変わっていたかと思う。蕪村の青少年時代については生家が淀川の底に沈み、また本人も語らなかったのでわからないことが多い。



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毛馬に生家があったことは戦後に明らかになったくらいで、それまでは大阪出身ということも疑問視する人があった。だが、蕪村の絵画には「東成謝寅」と書いたものが多く、それが現在の東成区のことで大阪出身であることは明白だ。もっともこの東成は江戸時代は今の東成区よりもっと範囲が大きかった。江戸時代の東成と河内の境界がどこにあったかと言えば、千林のどこかと何かで読んだことがあるが、それはさておいて蕪村は東成郡の毛馬村の生まれで、その毛馬が今では閘門で知られることは地元住民はどう思っているのだろう。蕪村は若冲と同じ年の生まれで、来年は蕪村生誕300年記念の催しが開かれるようだが、先ほど調べると淀川神社を蕪村神社としてもっと親しんでもらいたい動きもある。まさか蕪村神社と改名することはないが、蕪村が少年時代にはあった神社で、また毛馬村の氏神だ。淀川神社という名前になったのは昭和26年のことで、元は十五神社であったと言う。先日投稿した都島神社が十五社神社と呼ばれていたと書いたが、それとどう違うのか紛らわしい。明治時代に神社を統合する動きがあって、現在の都島区の氏神は桜宮と旭区の大宮神社に合祀されたが、毛馬と友渕では神社がなくなったのでどうにかならないかとの思いが絶えず、結局戦後に現在の淀川神社の境内を用いて昔の十五神社と八幡神社を合祀したという。境内はとても小さいが、北はバスが走る城北公園通りに接していて、道路を拡幅する際に境内を削ったのではないだろうか。この城北公園通りは西へ進むとすぐに天六、東へ行くと城北公園があるが、筆者は昔一度城北公園に写生に行った切りで、再訪したいと思いながらもう20年以上も経っている。それは交通の便が悪く、地下鉄一本で行くことが出来ず、市バスを利用する必要があるからだが、淀川沿いにあって、豊里大橋ではなく、一本下流の城北公園の頭上にある橋を利用すると、阪急の淡路駅まで3キロほどで、帰りはその橋を利用して淡路駅まで歩いた。城北公園から毛馬の閘門までも同じく3キロほどだが、殺風景な地域なのであまり歩きたいとは思わない。
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 淀川神社は本殿前に祭りの際に撮ったスナップ写真がたくさん展示されていた。いかにも地元住民たちの手作りといった感じで微笑ましかった。今日の最初の写真は城北公園通り沿いにある稲荷社で、こじんまりとしてかわいい。鳥居や狐の像がないが、祠が赤く、雰囲気は稲荷だ。鳥居がないのは狭いためだが、2枚目の写真にあるように、社殿はかなり大きいようで、東へ伸びている。また、赤い木造の燈籠が並んで華やかさがあってよい。3枚目は西に面する鳥居で、その柱の背面に明和2年と刻まれる。これはちょうど250年前としてよく、逆算すると蕪村50歳の年の建立だ。その頃の蕪村は京都に住んで大阪には頻繁に来ていたが、毛馬には全く立ち寄らなかったとされ、この鳥居をくぐったとは考えにくい。あるいは実家のあった場所まで行かずともこの神社には立ち寄った可能性があるか。蕪村が近くまで来ながら毛馬村に踏み込まなかったのは、妾の子で、母を幼くして失い、すぐに庄屋であった父も世を去り、ひどくいじめられたからと想像されているが、実際のところはわからない。だが、妾の子という負い目はあったはずで、またそういう境遇であったので芸術の道に進んだと言ってよい。芸術家というのはそういう複雑な事情を抱えている場合が多い。いや、そういう事情がなければ芸術家にはなれないと言ってよい。きわめてまともな家庭ですくすく育てば、世間の端にいるような人の心がわかりにくくなる。それではいくら手先が器用でも人の心を打つ芸術をものにすることは難しい。それなりのファンは得るとしてもそれだけのことで、時代を超えて敬愛される大物にはなれない。それはさておき、この神社の鳥居が250年前のものであるからには、明治の神社合祀令でこの神社の神様が移転させられては、地元住民はたまったものではない。せっかく境内も鳥居も社殿もあるからには、それを復活させたいと思うのは当然だ。それで淀川神社という名前になったが、蕪村神社とも呼んでもっと地域を知ってほしいと活動することも理解出来る。だが、大阪は文化に金を使わない土地で、民間が頑張って蕪村顕彰に努力しているのが現状だ。小学生の授業で毛馬の閘門を知っても蕪村の生家がそのそばにあったことまでは教えない。蕪村の絵や俳句を本当に味わえるようになるのは50過ぎてからではないだろうか。
●神社の造形―淀川神社、続き_d0053294_2159178.jpg

by uuuzen | 2015-10-21 23:59 | ●神社の造形
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