昨日のことを一昨日のことよりもよく覚えているとは限らない。鮮明な記憶ほど脳細胞に大文字のような目立つ形で記録されているのだろう。

とすればこうして書くことも重要な記憶ほどそうでないことよりも目立つ形にすればよく、大文字でしかも太文字で書けばわかりやすい。ところがそういう文章も大量の中に埋もれると探し出すことが困難だ。検索するにしても大文字か小文字かは関係がない。検索機能に文字の大小の区別があればいいが、そういうことは原理的には簡単なはずであるのに、今後もそんな機能をパソコンに持たせることはないだろう。それで、筆者は過去に書いた文章を調べたい時に困ることがよくある。どこに書いたかわからず、検索でも探し当てられない。時間をたっぷりと費やせばわかるだろうか。そうだとも言えるし、そうでないとも言える。というのは、自分では覚えているつもりでも、その記憶が間違っていて、書いたと思ったことが書かなかったこともあり得るからだ。こうして書いていても思ったことを全部書いているのではなく、取捨選択している。それが数年のうちに曖昧な記憶となり、書いたかどうかわからなくなることがある。どうでもいいことを書いた。都島に激安のラーメン店があると昨日書いたが、その名前は福々亭という。ラーメンが290円だ。老夫婦が経営していて、黙々と注文をこなす。安い店であるので男が中心で、筆者と家内が食べている間、入って来た、また出て行った合計10数人の客はみな男であった。ラーメン以外にメニューは豊富で、筆者はからあげ定食を食べた。それも安い。儲けがあるかと思うほどだ。筆者は玄関が見えるテーブルに着いたが、天気がよく、ガラスの扉とその向こうの景色がどことなく社会主義の国を思わせた。それと似た感覚は港区のサントリー・ミュージアム近辺で味わえる。同館にはもう数年行っていない。サントリーは大阪市か府に建物を譲渡し、今は漫画やアニメなど、もっと多くの人を呼べる企画展が開催されている。そのようになってから筆者は訪れていない。それはさておき、福々亭は都島本通りに面していて、筆者はその道を歩くのは初めてだ。四半世紀前は別の道を歩いてカネボウの繊維美術館に行った。そのような美術館が人気が出るはずがなく、数年で閉館したと思う。

食事を済まして都島本通りをまた西に向かって歩きながら思い出したのは中学2年の担任の先生だ。その先生と同じ名字の店を見かけたからだ。どちらと言えば珍しい名字で、筆者はその先生の子どもか親類が経営しているのではないかと想像した。そして、その先生が都島方面から学校に通っていたことを思い出した。帰宅後に卒業アルバムの住所録を調べると、福々亭の近くではなく、もっと東北の千林であった。そうそう、昨日書いた福々亭を教えてくれた中年女性は千林に住んでいると言った。そこから福々亭までの距離と、福々亭から紅茶とパン専門の喫茶店のある天神橋筋商店街の4丁目までは、前者の方が長い。自転車で20分ほどと言っていたが、それは千林からのことで、今地図を見ると4キロほどだ。千林に住んでいると聞いた筆者は、最近20年ぶりにその商店街を訪れたが、とてもさびれていたと言った。すると彼女は20年前から今もある店はさほど多くないとのことで、どことどこといったように話してくれた。そこまで筆者は千林に詳しくない。それはさておき、中2の担任は英語の先生で、筆者はとてもよくしてもらえたし、卒業式の後、特別に励まされもした。そのため、大文字で記憶している。小柄だが凛々しく、また色白で髭が濃く、どことなく武士の雰囲気があった。その先生の住所をネットの地図で調べると、かなり以前に街区の名前が変わっていて、正しい場所がわからなくなっていた。それでもおおよその場所はわかるし、そこをストリート・ヴューで確認するといかにも大阪の古き下町といった雰囲気で、筆者は一気に中2時代を思い出した。50年近く経てばどの家もほとんど建て変わるが、町の雰囲気はさほど変化しない。不思議なことだが、古い歴史のある町はそうなのだ。これが新興住宅地ではそうは行かない。千林は商店街のアーケードから一歩住宅地に踏み込むと、大阪のどこででも見られる雰囲気に満ちる。そういう場所に英語の先生が住んでいたことがわかって、懐かしさがさらに増す。生きておられたら80代か、90代だ。それはともかく、福々亭から都島神社まで徒歩10分ほどだ。本通りに面して、昨日掲げた最初の写真の2本の太い木製の柱が立てられている。「神徳」と「広大」と書かれている。これは鳥居の代わりだ。その奥に石の鳥居が見える。今日の2枚はそれをくぐって境内に入って撮った。最初は本殿だ。戦争で焼けたので戦後の再建だ。この神社は江戸時代は淀川の畔にあって、よく洪水の被害を受けた。明治になって川の流れを変える大規模な土木工事が行なわれ、その結果蕪村の生家も現在は川の中になってしまったが、「都島」という名前からして、川の畔の島のような土地であったことがわかる、ただし、現在は全くその面影はなく、大きな交差点がすぐ近くにあって車が多い。今日の2枚目の写真はかなり古い宝篋印塔で、大阪市内最古と言われる。700年ほど前の鎌倉時代のもので、この神社の歴史の古さがわかるが、それを言えばまだそれより150年ほど遡るらしく、15の神を祀るところから十五社神社と呼ばれたそうだ。都島神社という名前になったのは昭和18年というから、歴史は浅い。