土曜日に大阪に出た。まず大阪歴史博物館で『大坂歌舞伎展』を見て、それから心斎橋に行ってもうひつ展覧会をこなした。茨木の民博にも訪れたかったが、時間的に無理であったので翌日出かけた。
これらまとめて見た展覧会については今日から順次書いて行く。まず、歴史博物館だ。2、3度訪れたことがある。常設展がかなり見るべきものが多いので、本来はここだけで1日費やすのがよい。そこで、『大坂歌舞伎展』については明日に回し、今日はこの建物内の施設について書く。梅田から行くには地下鉄が便利だが、まだあまり寒くもなく、天気もいいので、JR環状線の森ノ宮駅で下りて歩いた。地下鉄は便利でも景色が見えないし、料金も高い。その点、環状線はいい。地図で見るとたいした距離ではないが、阪神高速道路下の中央大通りを西へ20分近く歩いた。途中で青年会館だったか、若者のための建物があるなど、初めて歩く道だけに退屈はしなかった。右側はずっと大阪城公園で、大阪城公園の南東に位置する森ノ宮駅から歴史博物館のある南西まで歩くわけだが、中央大通りはその名のとおり、幅がかなり広いので、信号は極端に少ない。横断歩道橋もほとんどないが、適当なところで北側にわたっておかなければ、後で大回りする羽目になる。また、中央大通りは西に向かっては上り坂になっていて、歴史博物館の建っているあたりの法円坂が高台であることを実感する。実際このあたりは南の四天王寺までの上町台地の中で最も標高が高い。歴史博物館がもう見えるかという頃、中央大通りに対して斜めに架かっている横断歩道橋を北へとわたったが、歩道橋を下り切った途端、真正面に黄色になった銀杏の木と一緒に大阪城の天守閣が大きく見えた。これにはかなり意表を突かれた。この光景を計算して歩道橋がわざわざ斜めに架けられたのではないかと思ったほどだ。空は青く澄みわたり、木々が紅葉し、そこに金に輝くしゃちほこを載せた天守閣が堂々と建っている。そんな光景を見ると、大阪の中心はやはりこの城かなと思ったりもする。さらに西、右手に向かって斜めに走る道に入る。途中、左手には塀を青いシートで目隠しした発掘現場や、郵便局の配達車がたくさん停まっている広い空き地があり、それを過ぎるとすぐ正面に特徴ある形の背の高い建物がある。NHK大阪放送会館と大阪歴史博物館が同居したビルだ。
法円坂には30年近く前、ある用事で何度か訪れた。その当時に比べると随分様子が変わった。大阪歴史博物館の建物は2001年のオープンだ。まだ歴史は浅い。それ以前はNHK大阪放送局は斜め向かい側の、今は拡張工事が行なわれている警察の隣にあったと聞いた。大阪府警はどのくらい大きな建物が出来るのかと思わせるほど基礎工事に時間をかけていて、2年前も同じような状態であった。警察が威容を誇るような大きな建物を占めるのはあまり感心出来ない。大阪城周辺に大阪の重要な施設が集まるのは当然として、放送局や博物館よりも大きな建物に警察がドンと収まるのであれば、大阪の中心は警察ということになって、これはいかにも犯罪の多い大阪を象徴して具合悪い。都市の目立つ中心部にどんな施設があるかで、その都市のイメージは決まる。警察は極力目立たぬところにあるのがよい。世の中に悪人がいなければ警察は不要であるから、警察の建物の規模が大きくなることは、それだけ世の中に悪人が多いという性悪説に立っていることになる。いつまで経っても完成しない大阪府警の新しい建物を想像しながら、そんなことを考えた。それはさておき、NHK大阪と歴史博物館が同じ建物の中に同居したことにはどんな経緯があるのかは知らない。NHKだけでは大きな建物が不要なので、あまったところを歴史博物館にしようという案が出たのだろうか。もしそうならば、金銭的な割り振りはどうしたのだろう。それに、この歴史博物館は大阪府立なのか市立なのかも明記されていないので知らないが、ビルを建てる時にどのように工事費を分担し、固定資産税もどう配分しているのかと、そんなよけいな心配をする。これもさておき、NHK大阪と言えば友人Fを思い出す。Fの父親はかつてNHKのカメラマンをしていた。そのためFは幼少の頃に撮影された8ミリ・フィルムがたくさんあると言っていた。ところが大きくなってからはその父親が撮影したフィルムを嫌悪するようになった。父親との関係がうまく行っていなかったからなのだろうが、親が子を思うほど、子は親に答えてくれないことの見本のような気がした。筆者も息子が小さい頃は、よく写真を頻繁に撮ってアルバムを整理したものだが、中学生になった頃からは息子はそれらのアルバムを全く開かなくなった。親父がしたことをうっとうしいと思っているようだ。Fがかつて父親に感じたことを、筆者の息子はちょうど今感じているのだろう。子どもは親の手を借りる必要のある間だけが従順でかわいいのであって、それが過ぎれば別人に変化するようだ。話がそれたか。昔なら息子を連れてこの歴史博物館を訪れたはずだが、今では全く別行動で、父親が興味を抱くことに関してはすべて拒否反応を示し、逆に筆者が嫌うギャンブルにはせっせと大金と時間を費やしている。これも考え方によっては親父とは違う方向に進んでやろうという心強い根性の表われとも言えるかもしれない。だが、そう何でもかんでも父親の興味のあることを否定して別のことをやろうというのであれば、さて息子にとって宝と思えるどんなことがあるのだろうと少し心配にもなる。ギャンブラーの生涯も悪くはないだろうが、どうせなるには一流になってほしいと思うし、それにまず人を泣かせてはほしくない。パチンコやスロットの世界で一流と呼ばれる人が世の中にいるのかどうか知らないが、確率的に考えて、パチンコやスロットに常に勝つことは絶対にないから、どうせ興味を持つならば、パチンコやスロットを作る側になってほしいと思う。
今回は歴史博物館を見る前に、初めてNHK大阪の施設を見学した。NHKの見学施設は東京ではもっと規模が大きいはずだが、ないよりはましだ。エレヴェーターで9階に行くと、細長い廊下のような感じの見学スペースがある。ガラス越しにセット造りの様子が見下ろせる場所や、放送局内部の簡単なビデオ紹介や今までに放送された番組を鑑賞出来るブースもあった。セットのあるスタジオはビルの3、4階分程度を吹き抜けにした広くて高い空間で、大工仕事をしている若者が何人も見えた。彼らは本職の大工と同じ腕を持っているのだろうか。もしそうならば、ここで働くことは風雨に晒されず、なかなかいい。NHKお抱えとなれば、仕事もコンスタントにあって収入も安定しているだろうから、何だかとてもいい仕事に思える。撮影が行なわれている時間ではなかったので、殺風景なセットが見下ろせただけだが、こうした仕事の状態を常に他人に見せるのは、働く人たちも堂々とさぼるわけにも行かないし、なかなかよい。ひとつのドラマや番組を作るために多くの人が裏で働いていることもよくわかるし、学校の課外授業でどんどん訪れるべきだろう。とはいえ、見学出来る場所は小さいし、子どもが見ても面白くはないか。むしろ歴史博物館が見学にはもって来いで、その気になれば1日中楽しく過ごせる。建物全体は縦方向にNHKと歴史博物館に分かれていて、エレヴェーターで一旦1階に下りて、また別のエレヴェーターで10階に行く。そこから順に下の階に常設展示が見られる仕組みだ。10階は古代の大阪、9階は中、近世、8階は「歴史を掘る」という発掘体験コーナー、7階は近、現代、そして地下1階は古代の遺構跡になっている。この地下の見学はまだ経験していないが、この建物が大阪の歴史上、有名な場所にあることがわかる。それは最初に見学することになるのが10階の古代フロアということからもわかる。この建物がなぜ今のこの場所に建ったかの理由はこのフロアを見学して初めて納得出来るが、それは実に見事な演出であり、大阪が大きく誇ってよいことだ。
何度もこのブログで書くように、大阪や大阪人は他県からはかなり誤解されている。お笑いとたこ焼き程度しかない文化不毛の地で、しかも柄が悪く、ヤクザが大手を振って歩いているといったイメージの悪さを持たれている。そんな人がまず見ればいいのがこの歴史博物館だ。ここには大阪人ですらあまり知らないことが、五感で楽しみながらわかりやすく学べるようになっている。10階は、以前訪れた時には気がつかなかったが、今回は上映されている映像をひととおり見たので、この古代フロアがなぜこの階のこの角度に設けられているかが初めてよくわかった。映像が始まると真っ暗で、映像終了時点で壁面の横長のスクリーンが一斉にするすると巻き上げられ、眼下に大阪市街が広がって見える。前述したように、このあたりは上町台地で最も高いところで、おまけにビルの10階であるために、大阪市内を目の下に置く状態になる。そして視線を最も低くすると、ビルの前の通りを挟んですぐ向こうに遺構のあるのが見える。難波宮の太極殿跡だ。その存在は発掘によって明らかになり、基盤が再現されたが、それを間近に見下ろす格好になっている。太極殿跡をこのような最適な角度から眺められるようにと設計段階から決められていたのか、あるいは偶然なのかは知らないが、大阪の中でも最も高い上町台地にかつての難波宮があり、その後は隣に豊臣秀吉が城を建て、現代になっても大阪の重要な施設が建設されたことは、地勢から考えて理にかなっている。高い場所は高貴な人のもので、ずっと低いところは俗人の住むところだ。大阪市内は今でもそのようになっている。谷崎潤一郎の『細雪』でも蒔岡家の4姉妹の実家は上町台地の中央にある。10階の古代フロアは難波宮の朱塗りの宮殿の一部を想像で再現し、等身大の女官や役人のリアルな表情のマネキン人形が数体置かれている。これがみなよく出来ていて、思わず間近に寄って表情を見てしまう。そして壁面にはコンピュータ・グラフィックスによって、そうであったはずの難波宮の情景がしばし映し出されるが、映像が終わるや否や、向こうに現実の大阪市内が出現するという、古代から現在まで一瞬にワープする疑似体験が出来る仕組みだ。ガラス越しに見える景色の角度を考えてスクリーンも映像も作られているが、こうした見事な演出は他に例を知らない。
大阪が誇ってよいと思うのはそんな最新の施設の効果ではない。難波宮の存在だ。今手元にある週間朝日百科『日本の歴史』で難波宮を調べると、記述はわずか3か所だ。しかも写真も特別の説明もなく、他の項目の説明の中にかすかに登場するのみだ。これでは誰も難波宮には関心を払わない。難波宮は奈良の平城宮の外港としての役割があっただけで、平安京に遷都があったと同時に難波宮の建物はみんな解体や移築されて長岡宮に使用され、わずか150年程度しか存在しなかったと言われる。『日本書紀』に記述はあるものの、実際にどれほどの規模の都であったかは長らくわからず、それが発掘によって明らかになり始めたのは戦後のことだ。それは山根徳太郎という市大教授の功績によるが、歴史博物館の10階の片隅にはこの人の銅像があり、それは眼下の難波宮跡を見つめている。これもまたなかなか素晴らしい演出で、大阪が平城宮と同じほど古い歴史を誇り、しかもその存在を目に見える形で発掘した人物を讃えるというのは、大阪人の温かくて律儀な気概を示すようで誇らしい気分になれる。山根徳太郎コーナーはごく小さいが、壁面には発掘にまつわる新聞記事や測量図、写真などが埋め尽くされ、素人が知るには充分な情報量と言ってよい。

さて、この後はすぐ下の9階に導かれる。ここで驚いたのは若冲晩年の水墨画が1点展示されていたことだ。それは若冲の水墨の掛軸としては大きい方で、しかも柿の実に手を伸ばしている1匹の猿を描き、まだどの画集にも掲載されていない。賛があったが、眼鏡を持参しなかったのでごく簡単にしか書き写せなかった。個人蔵というキャプションがあったので、誰かから借て来たのであろうが、全く意外なところで意外な作品に出会った。その日はこの若冲1点で大阪に出た甲斐は充分にあった。常設展に入る時にもらえる「大阪名所双六(復刻版)」という4つ折りカラー刷りの、広げるとB3サイズのすごろくがあって、その表紙の余白に簡単にはがき大ほどの大きさでスケッチした。描いている間に猿や柿の木が大きくなったが、消しゴムがなかったので、もう少し正確な構図はその左にやや小さめに描いた。蘆雪や米山人の絵もあって、適当に展示替えが行なわれるはずだが、ネットで調べるとこうした絵の展示内容まで示されておらず、出かけなければ何が展示されているかわからない。常設展ではあっても一部はこのようにして展示替えされることでまた訪れる意味も生ずる。中世、近世のフロアはその気になれば見終えるのに1時間ほどは必要で、おまけに7階には近代、現代の展示もある。それらについても書きたいところだが、長く書いたのでここで終える。とにかくじっくりと訪れると、きっと大阪を再認識する。