3日前、天気がよく、紅葉がきっと美しいと思って大山崎山荘美術館に出かけた。1年ぶりだろうか。何度も訪れているし、嵐山から電車で30分もかからないところにあるので、気軽に出かけられるが、いつも決まってめったに行かないところを訪れるという特別の気分に見舞われる。

それは駅から下りて、静かなところをしばらく歩き、ちょっとした小高い丘まで登るという道のりのせいもあるだろう。この古くて重厚な木造の山荘をほぼそのまま利用して建てた美術館のテラスからは、眼下に木津川、桂川、宇治川の合流地点、遠くには伏見城が見えもして、とても眺めがよいが、そのことも他の美術館とは違った特別の思いを抱かせる。だが、肝心の展示は民芸の陶磁を主としたもので、数も多くなく、今までに強く印象に残るものはなかったと言ってよい。山荘横の庭の一角の地下は山荘からわたり廊下で続く形で地下に埋められた安藤忠雄設計のコンクリート造りの新館があり、そこにはモネの睡蓮の絵がかかっていて、これがいわばこの美術館の目玉として有名だ。もう少し別の収蔵品があればよいと思うが、そう贅沢は言えない。このモネの作品があるだけでもまだ足を運ぶ甲斐があるだろう。それでも今回この地下の新館を訪れて印象深かったのは、ルオーの作品が何点かあって、そのうちの1点は背景を真っ青に塗った水彩画で、その青がルオーの油彩には見られない作風を感じさせ、意外な面を見た気がした。やはりルオーは決して侮れない画家だ。また、これはつい先日入手した東京での展覧会チラシだが、やはりルオーの珍しい作品が2点載っていて、それも明らかにルオーであるにしても、見慣れない作風を思わせた。こういった作品を見ると、ルオーの全貌をまだ知らず、実際に今までに見た作品だけでその作家を推し量っては具合が悪いことをつくづく思う。予想しなかったルオーの作品があって、それだけでも訪れた値打ちがあったが、この美術館が一体どれだけの作品を他に所有しているのか、その全貌はさっぱりわからない。そうした図録が作成されていないからだ。
もうひとつ書いておきたいのは、館内に『蘭花譜』という限定制作の木版画の復刻本のパンフレットや、その木版画の展示が少しあったことだ。これについて少し書いておこう。大山崎山荘は元は関西の実業家の加賀正太郎がイギリス風の山荘をまねて建てたものだが、加賀は若い頃に欧州を訪れて洋蘭に出会い、26歳でその栽培を始めた。やがて洋蘭の神様と呼ばれるほどの存在になり、品種改良も行なって、大山崎は洋蘭のメッカとなった。そして、自分が生んだ花を後世に残すために絵師や彫師、摺師を選んで木版画やカラー図版を用いた『蘭花譜』を自費出版したが、太平洋戦争直前までの10年近くを要して製作されたもので、昭和21年に300部が限定刊行された。近年その版木12点が発見され、限定100部が新たに作られ、その一部が前述の展示だ。パンフレットを見ると、12点で58万円ほどするが、これがもし版木から新たに起こしたものであるならば、その何倍もの価格になっておかしくないだろう。発見された版木の状態は完璧ではなく、あちこち補修したようで、そうしたことも価格に反映しているし、今ではこうした精緻な木版画の技術が珍しいものになっていることと、人件費の高騰もあって、高額な価格も妥当なものなのだろう。山荘を入ってすぐにある暖炉のうえにはカトレアを描いた5、6号の油彩画が1点かかっていた。確か加賀が描いたものであったと思う。そうそう、手元に今回もらって来た3つ折りのこの美術館のパンフレットがある。これは去年はなかったものと思う。本館はアサヒビール初代社長の山本為三郎が収集した陶器を中心に展示し、安藤忠雄が設計した地下新館はアサヒビール社所蔵の絵画の展示ということだ。そこにこの山荘を最初に建てた加賀の趣でもあった蘭という要素が加味されて、ますます見所の多いものになっているというべきだ。だが、『蘭花譜』に関しては、「天王山大山崎山荘」が1995年4月に発刊した2000円の本を筆者は所有していて、これは1995年12月18日に大山崎町歴史資料館を訪れて購入している。その時はまだ山荘は工事中で美術館としてはオープンしていなかった。一時、マンションが建つことに決まり、地元住民の反対などがあって、結局山荘の破損部分を改修して美術館として再出発することになったが、それからでももう10年が経つから、何とも月日の経つのが早い。筆者は洋蘭を写生するために高槻の京大の温室にしばしば通ったが、そんな日々の中で『蘭花譜』にも関心を抱いていたのだ。発見された版木はわずか12点分のみだが、95年に出た本では彩色下絵も含めて100点以上の図版が収録されている。それらの下絵を元に、そして経費にいとめをつけなければ、加賀が本当に望んだ形での木版画集が完成されるはずだが、あるいは現在ではもはや技術的に無理なのかもしれない。それに木版画に頼らずとも、精巧な写真印刷が可能であるので、たかだか2000円程度でオール・カラーで図版が収録され得る。
さて、去年訪れた時にはどんな企画展があったのか記憶にないが、美術館隣の宝積寺もついに訪れて、長年の心残りを晴らしたものだったが、大山崎のこのあたりは歴史的に有名なところでもありながら、静かな落ち着いた家が立ち並び、散策するにはとてもよい。ただし、急な坂が多いので、足元に自信のない人にはつらいかもしれない。宝積寺の境内の印象も深いが、それよりも山荘の建つところからやや下に降りたところにある無料休憩所でアサヒビールを飲んだことをよく覚えている。前述したように、またこの美術館の正式な名称は「アサヒビール大山崎山荘美術館」であるところからもわかるように、持ち主はアサヒビールで、会社の宣伝も兼ねてのことか、無料休憩所で女店員が安価でビールを提供してくれていた。今回もこれを飲むのが大きな目的であったのに、店員は誰もおらず、ビールの販売もなかった。その代わり、ジュースの自動販売機が1台あるだけで、何ともさびしい無粋な光景であった。ついでに思い出したが、美術館に向かう山道の途中、右手に古道具屋があったのに、店をたたんでいた。これも残念だ。にもかかわらず、この美術館はますます宣伝が行き届いて有名になっているらしく、途中でたくさんの人と合流した。近くのJRの駅から大挙して観光客が歩いている。旗を持った先導員がいたところ、遠くからツアーでやって来ている様子で、こんなたくさんの人と一緒にぞろぞろと山道を歩くのは今までにはなかった。いかにこの美術館が観光スポットとして定着して来ていることがわかる。開館直後、家族3人で訪れた当時は、まださほど有名ではなく、訪問者も今ほどではなかった。山荘をひとり占めしているような気分に浸れたものだが、今回は紅葉の季節でもあったせいか、館内は繁華街の雑踏並みに人が多く、喫茶室も満員で、ゆったりと寛ぐ気分にはなれなかった。大きなオルゴールが2階にあって、表示を見るとそれが演奏される時間であったにもかかわらず、係員が鳴らすのを忘れていたのか、演奏はなかった。周りにはほかにもこの演奏を待っている人がたくさんいたのに、少し残念であった。係員は最小にしているようで、対応に追われている間に入場料を支払わずにさっさと入ってしまう人もいたほどだが、やはり例外的に多くの人がやって来た日に出かけたのかもしれない。
たとえどのような企画展であってもこの美術館を1年に一度程度は訪れるのはいい。それに今回は益子焼きの濱田庄司やその息子たちの作品展だ。濱田庄司の名前は柳宗悦がらみで知って30年以上は経つ。だが、実際の作品をまとめて見たことはない。濱田は京都で陶芸を学んだのに、京都にはあまり紹介されないのは、骨を埋めることになった益子が関東にあるからだろうし、益子にまで目を広げなくても、充分京都にはいい焼きものがあるという京都人の思いが隠れている気もする。また、これは昔どこかで読んだが、濱田の作品は民芸の用の美をかなり無視して、とても普通の人が日常的に使用出来ないような大きな皿などがあるとのことで、その言葉に影響されたわけでもないが、たまにわずかに見る濱田の作品はほとんど感心したことはない。民芸関係では何と言っても河井寛次郎の作品を好むが、それは見るたびに思いが高まるほどで、京都国立近美にまとまったコレクションがあることによって作品に接する機会がよくあることが大きな原因と言える。その点、濱田の作品は馴染みたいと思っても接する機会がない。実作品を鑑賞する機会が乏しいと、関心はある一定以上には高まらない。濱田の息子や孫が同じように益子に住んで焼きものづくりをしていることも、今回の展覧会のチラシで初めて知った。これは単に筆者が陶芸への関心に乏しいことに過ぎないかもしれないが、父である庄司の作品ですらまともに見る機会がないことからすれば、子孫の作品を知らないのも当然だろう。そんなわけで、チラシを見てから、ぜひ訪れようと決めていた。しかし前述したように人が多かったことと、もともとあまり多くの作品を展示出来る空間はないので、濱田家3代、すなわち3作家の全貌を知る機会とは到底言えず、ごくごく小数の作品でおおよその雰囲気を知る程度でしかなかった。前述したルオーの意外な作品のように、小数の作品だけで作家の全貌を知ったと思うのは無謀だ。だが、一端の展示であっても、そこには作家の資質が示されているはずで、逆に言えば、選りすぐった小数の作品である方が本質が伝わりやすいとも言える。以下に書くのはそんなおおまかな感想だ。メモを取らずにざっと見ただけに終わったが、入場時に4つ折りでカラー印刷の簡単なパンフレットをもらえたので、それによって簡単な経歴などはわかる。濱田は1920年にバーナード・リーチとイギリスに行き、セント・アヴスを訪れた。帰国までに4000点だったか、とにかく大量のイギリスの無名の陶工が作ったスリップウェアなどを購入して日本に持って来た。いくら誰も見向きもしなかった日常使用の雑器が中心とはいえ、4000点と言えば馬鹿にならない量だ。それらを買うためには、また日本に船で運ぶにはかなりの費用がかかったであろう。それを実現することの出来る資財が濱田にはあったわけだが、これは山本為三郎などの援助者が資金提供したのかもしれない。今回はそうした濱田が所有して今は益子参考館に収蔵される外国の資料の中から、人形や器などが少々展示された。それは芹澤銈介の同様の膨大なコレクションを思わせた。柳宗悦もそうだが、大体民芸運動を始めた連中は見知らぬ土地の素朴な造形を集中的に収集した。それはまだ誰も価値を見出していな頃で、先見の明があると言えばそれまでだが、自分の進むべき道をはっきりと知っていて、他人がどう思おうが、好きなものは徹底して集めるという精神があってのことだ。そうした価値が未開拓の領域は今でもまだどこかにあると言えるだろうが、単に収集するだけでなく、それらの収集を通じて何か自己表現しない限り、ただの死蔵に終わってしまいかねない。濱田の場合はその収集を一方で栄養としながら、自己の創作に邁進し、やがて人間国宝の指定を受けて文化勲章までもらうまでになるから、河井寛次郎と並んでの天才と言ってよいのだろう。
ところで、パンフレットによると、アサヒビール初代社長の山本と柳の民芸運動の熱心な後援者となって、濱田の作品は日常的によく使用していた。山本コレクションは濱田の300点の作品を所蔵していたらしく、それらは今はこの美術館の所有になっている。全部は展示し切れないはずで、適当に展示替えが行なわれているのだろう。今回の展示は益子参考館が協力していて、展示の大半はそこから借りたものだろう。さて、父の庄司と息子、孫の作品を見比べると、ほとんど予想どおりの感じを持った。図太くて逞しい仕事を父が全部やり遂げてしまった後では、息子や孫がどのような作風に進まざるを得ないかは誰にも想像出来るとおりだ。父親ほどの太い精神がなければ作品は技巧に走ろうとするし、また幹から枝に派生したような、どこか装飾的なものに傾くのは仕方のないところだ。後代のものほど、より技巧的になる一方、何か根本的な重要なものが変質して行く。父は父であり、息子は息子と割り切ってしまえば見る方の気も楽であるし、またそのように見るのが正しいが、このように三代にわたっての作品が一緒に並ぶとどうしても比較してしまう。そして思うことは、柳が見ればどう思うかだ。確かに息子や孫の作品には父の作風にそのまま通ずる味わいが濃厚に宿っていつつ、また別種の面白さははっきりと見て取れるが、もうすっかり名のある、名を主張する個性的な作家の作品であって、民芸風ではあっても民芸ではない。そこに何かいやらしさのようなものを感じると言えば酷かもしれない。偉大な父を持った息子や孫にしてみれば、どうあがいても父を乗り越えることは出来ないからだ。父と全く同じ作品を作ってもそれは模倣と言われるであろうし、別のものを作るとすぐに比較され、その小ささを非難される。そのため筆者が言いたいのは、物づくりはせいぜい1代限りでいいのではないかということだ。あるいは人間国宝の指定を受けるといった有名になどならず、好き勝手に作るだけでいいのではないだろうか。河井は人間国宝の指定を断ったが、そっちの気骨には無名ということを重んじた民芸の本質がよりあるように思う。