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●神社の造形―倉敷の阿智神社の戎大黒、城山稲荷
地を天皇から賜った阿知の一族で、倉敷に地名として残る阿知はそれに因むという。また鶴形山の辺りは潟であったというが、島に社殿を設けたというのはこの鶴形山が島であったのだろう。



●神社の造形―倉敷の阿智神社の戎大黒、城山稲荷_d0053294_2336126.jpgならば阿知一族は潟と島を賜ったことになって、干拓するのに大変であった。またそういう技術も持っていたので、天皇から認められたのだろう。古事記の時代にこの辺りがどのような土地であったかは今は想像しにくいが、大阪市も似たようなもので、人口が増えるにしたがって平地もたくさん必要になって来た。それはさておき、鶴形山の頂といえる部分は全部阿智神社の境内になっているのかそうでないかは知らないが、いろんな神様をも祀るとなると、本殿の周囲に祠を並べるしかない。今日取り上げるのは本殿の背後のふたつの社で、その間に筆塚があったので、それも撮影して来た。これは神社ではないが、筆を供養する箱の背後に「画神」と彫った真新しい石碑があって、書画の上達を願う人がお詣りすると御利益があるということで、これも神社のうちか。戎大黒と城山稲荷は本殿の縦軸の延長線からずらせたところにあって、これは当然と言える。拝殿と本殿を結ぶ中央線上の背後にはほかの社を置くことが出来ない。本殿の背後に回ることの出来ない神社はもともとそういうことは出来ないが、山頂の本殿となれば仕方がない。それは平地でも同じようなものだが、本殿の背後にたくさん木を植えている京都の梅宮大社などの例があって、本殿の背後に回れるかそうでないかで神社を分類出来そうだ。阿智神社の場合、本殿の背後に左右対称のように戎大黒と稲荷が仲よく並ぶのは、どちらも商売繁盛の神様である点で面白い。昨日書いた荒神は台所の神様で、筆者は京都の荒神橋や、阪急宝塚線の清荒神を即座に連想するが、今調べると、瀬戸内海沿岸地方に多く、岡山県が最多で200社もある。台所で火を使うのは今も同じと言えるが、今は電磁調理器もあって、荒神信仰はあまりぴんと来ないのではないか。だが、正月に清荒神を訪れると、大変な人出で、火の神、台所の神ということにあまり関係なく、訪れているのだろう。ともかく、本殿の背後に荒神、戎大黒、稲荷が勢揃いするのは、親しみが持てるし、参拝する人にとっては便利でありがたいだろう。稲荷は赤い鳥居が決まりのようだが、ここでは提灯と幟旗の赤で代用している。また城山稲荷の城山が何に由来するのか知らないが、稲荷社はこのように別の名前がつくことが多い。その事情について調べると何か面白いことがわかるかもしれない。それにしても阿智神社のこの稲荷社は祠がとても小さい。台座の石は最近換えたようだが、そこに載る祠は古いままで、また小さな赤い鳥居や狐の置物など、祠全体を大人ひとりでも持ち上げられそうなほどで、これは阿智神社の本殿そのものがさほど大きくないことや、また本殿背後の土地の狭さ、すなわちこの稲荷社の占める領地の大きさから逆算して決めたものだろう。大きな祠より小さ目がよく、それはもともと神社のあるべき姿と思える。西洋のキリスト教の教会は大きく、また高さもかなりあるが、そのような威容を誇る考えは神社にはあまりない。この城山稲荷の祠がいかに小さくても、そこに宿る神までそれに比例するという考えはない。祠の大きさに神様の価値が比例しないのであれば、小さい方がいいではないか。そういう考えが日本ではたとえば模型文化を育んで来た。何でも小さな模型、今ならフィギュアにしてしまうという考えは全く廃れておらず、そこには末社の考えが反映しているだろう。本社に詣でるのが一番よいことは当然としても、末社でも祈る思いは同じで、ならば神はそれに応えてくれるという考えだ。これは持ち運びの文化とも言える。ドラえもんの「どこでもドア」の考えもそこと関係がある。
●神社の造形―倉敷の阿智神社の戎大黒、城山稲荷_d0053294_23364244.jpg

 筆塚の石碑の前には賽銭箱のようなものがあるが、たぶんそうだろう。これも戎大黒や城山稲荷と同じほど古くからあるのかどうかだが、ホームページにはその紹介がない。倉敷は大原美術館があって絵画ファンには有名な街だが、それでこの画神が祀られるようになったかと言えば、同美術館が出来るもっと昔からだろう。では地元に画家や書家が多かったのか。竹久夢二など岡山出身の有名画家はいるが、江戸時代やそれ以前となると、筆者はすぐには思い出せない。また岡山が筆の産地として有名なのかもしれないが、その点も知らない。筆塚はさほど珍しくないので、有名画家や書家と結びつける必要はなく、天神信仰と関係があるかもしれない。そう思ってホームページの境内平面図を見ると、菅原神社が城山稲荷の東隣りにある。となると、筆塚はそのふたつの祠の間にあったかと思ってみるが、平面図ではふたつはおそらくあまり隙間がなく並ぶ。それで仕方なしに、城山稲荷の西に筆塚を新たに造ったかかもしれないが、一旦設置した神様は移動しにくいのだろう。それはともかく、このとても小さな筆塚は筆者には目立った。榊莫山はどれほど筆先が減っても筆を捨てず、そういう筆ならではの線を生み出せると思っていたようだが、それは筆を捨てるに忍びなかったからだろう。筆を使って仕事をしている人はたいていそうではないか。ゴミと一緒に捨てるのが何となくバチが当たるような気がする。そう言えば、これはよその自治会のHさんから聞いた話だが、Hさんの父は昔友禅師で、その仕事でたくさんの子どもをみな大学まで出させたそうだ。Hさんは今70代後半だが、そのことを何年か前に懐かしそうに話してくれた。そして父親が遺した筆が何百とあって、その一部をお棺に入れたそうで、残りはまだHさんが持っているそうだ。そこには、筆で生活を支えて来た父親に対する感謝の念がある。そしてその感謝は筆に集っている。そのように、筆を使って仕事をする人は、筆が命で、それを消耗しているからとの理由でそう簡単に捨てられないのだ。そして、どうしても処分したい時はその場所が必要で、それで筆塚がある。そこに持参すれば、ゴミ箱に捨てるのとは違って心が安らぐ。このように、日本では不要になったものでも魂が宿ると思う心がある。今はネット・オークションで何でも売られ、使い古した筆も例外ではないが、それもゴミにするより誰かに大切に使ってほしいという思いが多少は混じっている。使えるものは使い続ける。どれほど消耗してもそれなりの味があるからには、老人は大切にされ、また自らも何かに役立つことを考えるべきだ。
●神社の造形―倉敷の阿智神社の戎大黒、城山稲荷_d0053294_23365471.jpg

by uuuzen | 2015-10-07 23:59 | ●神社の造形
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