僥倖と言うにはおおげさだが、予期していなかったのに楽しいことがあると、嬉しさは倍増する。この儲けたといった思いが昂じると人間は欲深いという見方が生まれるが、欲深いことが必ずしも悪いとは言えない。
欲がないことは、もういつ死んでもよいということで、それは充分に生きて来たから生まれる思いだ。生きて行くことは欲と切り放せない。そして普段から欲をあまり持たないでいると、僥倖ということに出会える。反対に、欲丸出しの人生であると、いつでも物欲しそうな素振りを見せ、そしてたいていはその期待どおりの結果は得られないから、たまの僥倖もそうとは思えず、不満顔が固定してしまう。ささやかなことで喜べることが人生を楽しくする。それはたとえば毎月満月が見られることだ。満月で言えば、最近見たもので最も印象深かったのは7月31日だ。愛宕山に登り、その帰り道、麓の清滝から嵐山まで歩いて帰ったが、その時の満月の明るさは雲がなかったこともあって、初めて経験するような明るさであった。愛宕山の千日詣りの夜が満月であることは50何年かぶりで、次は30数年先と書いたが、その話を大志万さんにすると、満月の夜が晴れるとは限らないと言った。つまり、50数年前の満月の夜は計算上の話で、京都市内に雨が降らなかったとは限らない。それを言えば30数年後の千日詣りの夜もだ。ということは、筆者が初めて経験した千日詣りの夜に満月が皓々と照っていたのは、僥倖と言ってよいかもしれない。満月が出る夜に満月が見られるとは限らないという事実は、筆者は毎月それなりにハラハラしながら思っていることだが、これまでの経験からすれば、見られなかったことはごく少ない。たぶん2年に一度くらいではないか。そんな確率なので、ついあたりまえのように満月の夜は満月が見られると高をくくり、たいていの人は関心を示さない。これが仮に1年に一度しか見られないのであれば、TVは必ずそのことを言うだろう。今夜の京都は空全面の鱗雲で、満月は見えはしたが、次から次へと黒い雲が覆い、カメラのシャッターを押す間合いが難しかった。撮った写真を見ると月の明るさのために、周囲の雲が白っぽく写り、満月の輪郭がよくわからない。こういうところがコンパクト・カメラの欠点だが、写真はどうであれ、満月の輪郭を確認したのは確かなので、今日は堂々と写真を載せられる気分だ。自宅から30メートルほどといったところで撮ったが、空全面を雲が覆うので、どこで撮っても同じような写真になる。ネットではスーパー満月と記事と写真があって、しかも月は暗いオレンジ色だ。スーパー満月というのは、今年最も月と地球の距離が狭まるかららしい。赤っぽく見える理由は知らない。同じ月であるのに、東京では雲がなく、赤っぽい。そういう満月を見たことがないので、京都でそれが今夜見られなかったのは残念だが、それでも雨やひどい曇天よりましで、満月はどうにか見えた。それは僥倖とは言えないかもしれないが、なるべくそう思うことにすると、どんなささやかなことでもありがたく、また楽しいと思えるので得だ。これは感謝の念と世間では言うが、何に対しての感謝かと言えば、楽しいと思えることが向こうからやって来ることに対してで、そのささやかな楽しさを噛みしめることが人生の醍醐味というものだ。はははは、今「醍醐味」と打ち出そうとすると、「大ゴミ」が先に出た。筆者がこうして書くことは「大ゴミ」で誰も注目しない。ま、それでもこうして書くことに楽しみがあるから、それでいいではないか。期待が少ないことは欲が少ないことで、それだけ筆者も老化して来ている。それも自然で、気にしないことだ。